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Yamareco

記録ID: 2678579
全員に公開
ハイキング
東海

鈴鹿川右岸古墳群と壬申の乱と東海道・亀山宿周辺

2020年10月26日(月) [日帰り]
 - 拍手
GPS
05:39
距離
20.1km
登り
45m
下り
40m

コースタイム

日帰り
山行
5:51
休憩
0:00
合計
5:51
距離 20.1km 登り 89m 下り 44m
8:45
30
JR井田川駅
9:15
0:00
10
和田道標
9:25
0:00
10
鈴国橋
9:35
0:00
25
保子里古墳
10:00
0:00
10
国府城跡
10:10
0:00
35
三宅神社
10:45
0:00
30
王塚古墳
11:15
0:00
50
和田一里塚
12:05
0:00
10
巡見道分岐
12:15
0:00
20
亀山宿本陣跡
12:35
0:00
20
亀山城址
12:55
0:00
15
家老・加藤家屋敷
13:10
0:00
25
京口門跡
13:35
0:00
35
野村一里塚
14:10
0:00
26
大岡寺畷
14:36
関宿一里塚・鳥居
天候
過去天気図(気象庁) 2020年10月の天気図
アクセス
利用交通機関:
自家用車
JR関駅前駐車場〜JR関駅〜JR井田川駅〜徒歩〜JR関駅
コース状況/
危険箇所等
特に問題なし
JR関駅前P駐車。JR関駅〜井田川駅。直通なら約10分。亀山駅で乗換で半時間待ち。奈良〜名古屋の関西線ダイヤは興味深い。
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JR関駅前P駐車。JR関駅〜井田川駅。直通なら約10分。亀山駅で乗換で半時間待ち。奈良〜名古屋の関西線ダイヤは興味深い。
JR線路南東に鈴鹿回生病院。右横丘陵が伊保里古墳群。手前に鈴鹿川。古代は堤防のない鈴鹿川周辺は幅の広い河原や泥沼地。
JR線路南東に鈴鹿回生病院。右横丘陵が伊保里古墳群。手前に鈴鹿川。古代は堤防のない鈴鹿川周辺は幅の広い河原や泥沼地。
西信寺や川合町公民館を右に見る。川合集落進むと「椋川」。源は亀山北・佳山町。西に「高畑山〜鈴鹿峠〜三子山〜四方草山〜御所平〜仙ヶ岳」鈴鹿峠周辺尾根連なる。
西信寺や川合町公民館を右に見る。川合集落進むと「椋川」。源は亀山北・佳山町。西に「高畑山〜鈴鹿峠〜三子山〜四方草山〜御所平〜仙ヶ岳」鈴鹿峠周辺尾根連なる。
1号=25号高架を潜る手前で北に森点在。山城遺跡集落跡や上椎ノ木1号古墳。約12基の帆立貝形古墳群。鈴鹿川と椋川合流点の自然堤防地帯。弥生時代後半〜古墳時代〜室町期までの集落跡や土器出土。
1号=25号高架を潜る手前で北に森点在。山城遺跡集落跡や上椎ノ木1号古墳。約12基の帆立貝形古墳群。鈴鹿川と椋川合流点の自然堤防地帯。弥生時代後半〜古墳時代〜室町期までの集落跡や土器出土。
「和田の道標」元禄3年(1690)建立。「従是 神戸・白子・若松道」神戸(かんべ)は参宮道宿場で神戸氏居城の伊勢神戸。若松は神戸東の伊勢湾に面する漁港・伊勢若松。
「和田の道標」元禄3年(1690)建立。「従是 神戸・白子・若松道」神戸(かんべ)は参宮道宿場で神戸氏居城の伊勢神戸。若松は神戸東の伊勢湾に面する漁港・伊勢若松。
白子は伊勢若松南の漁港で参宮道宿場。本能寺変時、家康は堺見物中。三河へ急ぎ戻るのを豪商・茶屋四郎次郎援助、服部半蔵・伊賀衆が道案内。信楽〜柘植・加太〜関・亀山〜白子〜船・伊勢湾〜常滑〜三河へ脱出。
白子は伊勢若松南の漁港で参宮道宿場。本能寺変時、家康は堺見物中。三河へ急ぎ戻るのを豪商・茶屋四郎次郎援助、服部半蔵・伊賀衆が道案内。信楽〜柘植・加太〜関・亀山〜白子〜船・伊勢湾〜常滑〜三河へ脱出。
和田集落内東海道。亀山に子供民俗行事多。亥の子(石・藁束・ズイキ=里芋茎)で地面突き叩いて、収穫後の土地鎮め行事、夜通し山ノ神前で藁焚火を燃やし、翌朝に餅喰うドンド焼きなど。
和田集落内東海道。亀山に子供民俗行事多。亥の子(石・藁束・ズイキ=里芋茎)で地面突き叩いて、収穫後の土地鎮め行事、夜通し山ノ神前で藁焚火を燃やし、翌朝に餅喰うドンド焼きなど。
<シャングリさん・叉具神>10月1日子供祭り。元町と中町はお蔭地蔵。下町と旭町は三宮(サングウ・サングリ)神社。中学以下の子供が自作作り物。祭り夜公開。東海道旅人がもたらす流行病から子を守る疫病除け?
<シャングリさん・叉具神>10月1日子供祭り。元町と中町はお蔭地蔵。下町と旭町は三宮(サングウ・サングリ)神社。中学以下の子供が自作作り物。祭り夜公開。東海道旅人がもたらす流行病から子を守る疫病除け?
<県道41号(鈴国橋)>東海道から東に離れ、鈴鹿川に架かる鈴国橋渡る。和田道標から伊勢神戸への道もここ経由。橋西は亀山市、東は鈴鹿市。41号は東海道・和田〜伊勢神戸〜白子・参宮道を繋ぐ道。
<県道41号(鈴国橋)>東海道から東に離れ、鈴鹿川に架かる鈴国橋渡る。和田道標から伊勢神戸への道もここ経由。橋西は亀山市、東は鈴鹿市。41号は東海道・和田〜伊勢神戸〜白子・参宮道を繋ぐ道。
<鈴国橋上より南を見る>鈴鹿川両岸は樹木が生い茂る。鈴鹿稜線から出た土砂で鈴鹿川は瀬や伏流を形成、川底浅し。
<鈴国橋上より南を見る>鈴鹿川両岸は樹木が生い茂る。鈴鹿稜線から出た土砂で鈴鹿川は瀬や伏流を形成、川底浅し。
<鈴鹿回生病院>北折れして河岸段丘下を病院へ。写真丘陵はほとんど保子里古墳群。奥から15号〜18号と並び、その東奥の車部品製造のFCC(株)工場敷地に10号〜14号墳が存在。
<鈴鹿回生病院>北折れして河岸段丘下を病院へ。写真丘陵はほとんど保子里古墳群。奥から15号〜18号と並び、その東奥の車部品製造のFCC(株)工場敷地に10号〜14号墳が存在。
<保子里15号墳>古墳群築造は古墳時代後期(6世紀前半ごろ)丘陵から北西に鈴鹿山脈が美しい。地理的背景を考慮した古墳造り。台地下は川幅の広い鈴鹿川が蛇のようにのたくっていた。
<保子里15号墳>古墳群築造は古墳時代後期(6世紀前半ごろ)丘陵から北西に鈴鹿山脈が美しい。地理的背景を考慮した古墳造り。台地下は川幅の広い鈴鹿川が蛇のようにのたくっていた。
<保子里車塚古墳)1号墳。病院敷地に入った左の駐車場内。前方後円墳・前方部が円墳形。隣にももう1つ円墳。珍しい双円墳。径20m円墳丘が2つ並列。埋葬施設は横穴式石室で箱形石棺。
<保子里車塚古墳)1号墳。病院敷地に入った左の駐車場内。前方後円墳・前方部が円墳形。隣にももう1つ円墳。珍しい双円墳。径20m円墳丘が2つ並列。埋葬施設は横穴式石室で箱形石棺。
<保子里古墳群>古墳群の出土品はダ龍鏡、朝鮮伝来と思われる黄金の垂飾付耳飾、金環、勾玉、管玉、切子玉、丸玉、小玉、鉄斧、鋤先、鉄鏃、装飾付大刀、銅鈴、兵庫鎖や土器など。
<保子里古墳群>古墳群の出土品はダ龍鏡、朝鮮伝来と思われる黄金の垂飾付耳飾、金環、勾玉、管玉、切子玉、丸玉、小玉、鉄斧、鋤先、鉄鏃、装飾付大刀、銅鈴、兵庫鎖や土器など。
<保子里古墳群4号〜8号>病院前道路の南はEFC工場東で両脇が古墳の森。写真道路の発掘(1989年)では土壙墓11基、須恵器土器、須恵質紡錘車、鉄刀子・鉄鏃、赤色顔料が出た。
<保子里古墳群4号〜8号>病院前道路の南はEFC工場東で両脇が古墳の森。写真道路の発掘(1989年)では土壙墓11基、須恵器土器、須恵質紡錘車、鉄刀子・鉄鏃、赤色顔料が出た。
EFCから国府町を東へ直進。長之城の庄屋・平井家由緒の欅がある公園を曲がり国府城跡(1360年代)。城は奈良・平安期の国府政庁所在地跡地に建設?河岸段丘北突端で鈴鹿川流れと亀山から河曲の景色を一望。
EFCから国府町を東へ直進。長之城の庄屋・平井家由緒の欅がある公園を曲がり国府城跡(1360年代)。城は奈良・平安期の国府政庁所在地跡地に建設?河岸段丘北突端で鈴鹿川流れと亀山から河曲の景色を一望。
<国府城跡>鎌倉〜戦国期で亀山・鈴鹿で大勢力の関一党。1333年関盛政が関東から移住?息子5人が街道要所に5城築城。国府は次男・盛門が国府氏。8代・盛種は信長侵攻(1580)や秀吉侵攻(1584)で滅亡。後は亀山城主支配。
<国府城跡>鎌倉〜戦国期で亀山・鈴鹿で大勢力の関一党。1333年関盛政が関東から移住?息子5人が街道要所に5城築城。国府は次男・盛門が国府氏。8代・盛種は信長侵攻(1580)や秀吉侵攻(1584)で滅亡。後は亀山城主支配。
<本郷・貝下の道標?>長男・盛澄を伊勢神戸(参宮道)、次男・盛門を国府城(東海道〜神戸)、三男・盛繁を亀山城跡継(東海道)、四男・盛宗を鹿伏兎=加太城(大和街道)、五男・政実を峯城(巡見道〜菰野)
<本郷・貝下の道標?>長男・盛澄を伊勢神戸(参宮道)、次男・盛門を国府城(東海道〜神戸)、三男・盛繁を亀山城跡継(東海道)、四男・盛宗を鹿伏兎=加太城(大和街道)、五男・政実を峯城(巡見道〜菰野)
<三宅神社・左奥は愛宕山古墳(4世紀末)方面>広瀬町・長者屋敷遺跡の伊勢国府政庁跡が平安期よりここ国府町国府城跡や三宅神社へ移設の仮説?遺跡は未だに未発見。三宅神社は実に境内が広大で神秘的。
<三宅神社・左奥は愛宕山古墳(4世紀末)方面>広瀬町・長者屋敷遺跡の伊勢国府政庁跡が平安期よりここ国府町国府城跡や三宅神社へ移設の仮説?遺跡は未だに未発見。三宅神社は実に境内が広大で神秘的。
<三宅神社>「三宅=屯倉(みやけ)」壬申の乱で大海人皇子を出迎えた「国司守三宅連石床」と関連か?付近発掘調査で8~11世紀堀立柱建築8棟発見、国府関係者の住居地域との推測も?国府政庁は国府城辺りか?
<三宅神社>「三宅=屯倉(みやけ)」壬申の乱で大海人皇子を出迎えた「国司守三宅連石床」と関連か?付近発掘調査で8~11世紀堀立柱建築8棟発見、国府関係者の住居地域との推測も?国府政庁は国府城辺りか?
「三宅神社」名称神社は、ここ以外に東の池田町(長太付近)「大鹿三宅神社」や南の長法寺町「三宅神社」など。3社とも6世紀頃の河曲・大豪族・大鹿氏との繋がりが囁かれるが?大鹿氏は中南勢地域住居説もある。
「三宅神社」名称神社は、ここ以外に東の池田町(長太付近)「大鹿三宅神社」や南の長法寺町「三宅神社」など。3社とも6世紀頃の河曲・大豪族・大鹿氏との繋がりが囁かれるが?大鹿氏は中南勢地域住居説もある。
国府町三宅神社は江戸期は「惣社大明神」の通称。明治になり合祀した「江神社」は国府城跡付近にあった社で「樫木大明神」。「江」の名称は北崖下の鈴鹿川方面に広がっていた川と泥沼から命名か?王塚へ向かう。
国府町三宅神社は江戸期は「惣社大明神」の通称。明治になり合祀した「江神社」は国府城跡付近にあった社で「樫木大明神」。「江」の名称は北崖下の鈴鹿川方面に広がっていた川と泥沼から命名か?王塚へ向かう。
<西之城町・道標>左折は八野古墳群(4世紀末〜6世紀)。長期間、大和朝廷と密接な関係?さらに南進すると長法寺・三宅神社付近。中ノ川沿いに古墳群・須恵器窯跡多数出土。南の河芸・津方面とも連絡。
<西之城町・道標>左折は八野古墳群(4世紀末〜6世紀)。長期間、大和朝廷と密接な関係?さらに南進すると長法寺・三宅神社付近。中ノ川沿いに古墳群・須恵器窯跡多数出土。南の河芸・津方面とも連絡。
<西ノ野古墳11号・西之城付近>鈴鹿市に約800基の古墳。11号墳は全長50m前方後円墳。寄り合い占いでこの古墳に願をかければ椀を貸してくれるという伝承から「椀塚」の名。6世紀築造。
<西ノ野古墳11号・西之城付近>鈴鹿市に約800基の古墳。11号墳は全長50m前方後円墳。寄り合い占いでこの古墳に願をかければ椀を貸してくれるという伝承から「椀塚」の名。6世紀築造。
<王塚古墳(西ノ野古墳)と鈴鹿山脈>広大なキャベツ畑展開。左の森が王塚古墳(西ノ野1号)。中央が仙ヶ岳・野登山・鳩ヶ峰。右は鎌〜入道ヶ岳〜御在所。
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<王塚古墳(西ノ野古墳)と鈴鹿山脈>広大なキャベツ畑展開。左の森が王塚古墳(西ノ野1号)。中央が仙ヶ岳・野登山・鳩ヶ峰。右は鎌〜入道ヶ岳〜御在所。
西ノ野古墳群は鈴鹿川右岸河岸段丘縁辺に位置。明治期に91基を数えたが、農地開墾等で喪失。写真の場所に5号墳〜10号墳が密集。5世紀中頃以降の築造。
西ノ野古墳群は鈴鹿川右岸河岸段丘縁辺に位置。明治期に91基を数えたが、農地開墾等で喪失。写真の場所に5号墳〜10号墳が密集。5世紀中頃以降の築造。
<西ノ野古墳5号>全長30.5m前方後円墳。墳丘は盾形の周溝に囲まれ、周囲に衛星状の小型円墳5基(昔は8基)が整然と並ぶ。人形・家形・円筒埴輪など出土。
<西ノ野古墳5号>全長30.5m前方後円墳。墳丘は盾形の周溝に囲まれ、周囲に衛星状の小型円墳5基(昔は8基)が整然と並ぶ。人形・家形・円筒埴輪など出土。
<文部省・境界標>国史跡。1号墳の後円部北東隣には小さな2号墳。王塚古墳の陪塚か?境界には文部省の石標がある。
<文部省・境界標>国史跡。1号墳の後円部北東隣には小さな2号墳。王塚古墳の陪塚か?境界には文部省の石標がある。
西ノ野1号墳(王塚古墳)全長63m,盾型の周濠・周堤がある前方後円墳。6世紀初め築造。古墳長63m,後円部径(38m,高6m),前方部(幅48m,長30m高6.5m)。外堤全長90m。豪族首長墓か?遺物不明?
西ノ野1号墳(王塚古墳)全長63m,盾型の周濠・周堤がある前方後円墳。6世紀初め築造。古墳長63m,後円部径(38m,高6m),前方部(幅48m,長30m高6.5m)。外堤全長90m。豪族首長墓か?遺物不明?
<西ノ野1号墳(王塚古墳)>規模・姿・形が整った美しい古墳。位置は段丘上で絶景地。付近には「国府・西之城・長之城・三宅神社」など歴史的地名存在。明治期には日本武尊墳墓では?と言われた。
<西ノ野1号墳(王塚古墳)>規模・姿・形が整った美しい古墳。位置は段丘上で絶景地。付近には「国府・西之城・長之城・三宅神社」など歴史的地名存在。明治期には日本武尊墳墓では?と言われた。
<再び和田町>鈴国橋を再び渡り返して和田町。途中の生川倉庫物流センターを南下すると「井尻古墳」。車教習所付近で前方後円墳。墳丘全長53.5m。6世紀前半。円筒埴輪、形象埴輪など亀山高校生徒が採取。
<再び和田町>鈴国橋を再び渡り返して和田町。途中の生川倉庫物流センターを南下すると「井尻古墳」。車教習所付近で前方後円墳。墳丘全長53.5m。6世紀前半。円筒埴輪、形象埴輪など亀山高校生徒が採取。
<和田町公民館>弥生時代後期から集落存在。律令制で鈴鹿郡長世(瀬)「倭陀=和田」。平安初期に奈良県天理市辺りからの移住民が稲作作り。平忠盛(清盛父)が1135年摂関九条家に荘園献上。価値の高い交通要衝。
<和田町公民館>弥生時代後期から集落存在。律令制で鈴鹿郡長世(瀬)「倭陀=和田」。平安初期に奈良県天理市辺りからの移住民が稲作作り。平忠盛(清盛父)が1135年摂関九条家に荘園献上。価値の高い交通要衝。
<石上寺>寺前あたりから上り坂道。796年大和国布留郷(天理)紀真龍が新熊野三社勧請。天理の石上神社に因む。 壮大な伽藍があった。鎌倉〜南北朝の古文書群県指定文化財指定。和泉式部も参籠。
<石上寺>寺前あたりから上り坂道。796年大和国布留郷(天理)紀真龍が新熊野三社勧請。天理の石上神社に因む。 壮大な伽藍があった。鎌倉〜南北朝の古文書群県指定文化財指定。和泉式部も参籠。
<和田一里塚>。旧跡を模式復元。榎木植樹。35年前までは塚一部が存在。1604年幕府の命で亀山城主・関一政築造。この辺りで、306号線で津にも菰野に約18〜19kmの中間点。
<和田一里塚>。旧跡を模式復元。榎木植樹。35年前までは塚一部が存在。1604年幕府の命で亀山城主・関一政築造。この辺りで、306号線で津にも菰野に約18〜19kmの中間点。
<亀山蝋燭工場前>栄町交叉点南。ファミマ横。子供の頃は亀山と言えば「ローソク」と真っ先に思い浮かべた程の主力産業だった。創業は昭和初期。インテリアキャンドル輸出で大きく飛躍・成長したが・・。
<亀山蝋燭工場前>栄町交叉点南。ファミマ横。子供の頃は亀山と言えば「ローソク」と真っ先に思い浮かべた程の主力産業だった。創業は昭和初期。インテリアキャンドル輸出で大きく飛躍・成長したが・・。
<能褒野二の鳥居+道標(北境町)>能褒野王塚古墳へ東海道旅人を誘導する参道入口鳥居。能褒野への一の鳥居はJR亀山駅前。町並み保存会の屋号札案内解説板が消えかかっている。道標は鳥居右下に頭のみ出る。
<能褒野二の鳥居+道標(北境町)>能褒野王塚古墳へ東海道旅人を誘導する参道入口鳥居。能褒野への一の鳥居はJR亀山駅前。町並み保存会の屋号札案内解説板が消えかかっている。道標は鳥居右下に頭のみ出る。
<露心庵跡>すぐ右側の空き地。同族争い。1584年に神戸正武が亀山城急襲。関万鉄斎は13騎のみで撃退。合戦戦死者を葬るため関氏一族の僧「露心」が仏庵建立供養。この辺りから西が亀山宿とある。
<露心庵跡>すぐ右側の空き地。同族争い。1584年に神戸正武が亀山城急襲。関万鉄斎は13騎のみで撃退。合戦戦死者を葬るため関氏一族の僧「露心」が仏庵建立供養。この辺りから西が亀山宿とある。
<町並み保存会・屋号木札>今から20年程前(2000年)市民ボランティアが町並み保存運動。消滅しかけの江戸期屋号を歴史博物館資料より復活。地味で継続的な作業を続け3年後に400枚の木札を付けた。現在は・・。
<町並み保存会・屋号木札>今から20年程前(2000年)市民ボランティアが町並み保存運動。消滅しかけの江戸期屋号を歴史博物館資料より復活。地味で継続的な作業を続け3年後に400枚の木札を付けた。現在は・・。
<本町郵便局・巡見道交差>右に小さな公園と説明板。江戸期に幕府巡見使が鈴鹿山脈東山麓の北勢地域(亀山〜菰野〜員弁)から美濃(時〜上石津〜関ヶ原)を巡見するために通過した道。東海道と中山道を繋いだ。
<本町郵便局・巡見道交差>右に小さな公園と説明板。江戸期に幕府巡見使が鈴鹿山脈東山麓の北勢地域(亀山〜菰野〜員弁)から美濃(時〜上石津〜関ヶ原)を巡見するために通過した道。東海道と中山道を繋いだ。
<本町・奥行きのある旧家>巡見道は1814年(文化11年)には西日本測量中の伊能忠敬も歩く。その時、忠敬は70歳。確か亡くなったのは73歳。北勢への巡見使は1633年より将軍代替時期に10回ほど派遣、各地を調査。
<本町・奥行きのある旧家>巡見道は1814年(文化11年)には西日本測量中の伊能忠敬も歩く。その時、忠敬は70歳。確か亡くなったのは73歳。北勢への巡見使は1633年より将軍代替時期に10回ほど派遣、各地を調査。
<亀山・本町の東海道>街道歩きの旅人の旅籠は、本町や東町に固まっていたよう。家屋を眺めていると今でもその名残が・・。
<亀山・本町の東海道>街道歩きの旅人の旅籠は、本町や東町に固まっていたよう。家屋を眺めていると今でもその名残が・・。
<直角に曲がる江戸口門跡>右(本町)から奥(東町)へ曲がる。今は跡形もないのだが・・。1673年築造。北側と東側に堀。土塀と土塁で曲輪。内部は枡形。平櫓1基と西側に番所。東西120m、南北70m。
<直角に曲がる江戸口門跡>右(本町)から奥(東町)へ曲がる。今は跡形もないのだが・・。1673年築造。北側と東側に堀。土塀と土塁で曲輪。内部は枡形。平櫓1基と西側に番所。東西120m、南北70m。
東町の南は高さのある崖。崖にも多くの民家が建つ。崖下には今はホテルや商店やレストランなどが林立。シャープの液晶テレビ画面の大型工場が繁栄していた頃は活気があったが・・。栄枯盛衰、現代は短期だ。
東町の南は高さのある崖。崖にも多くの民家が建つ。崖下には今はホテルや商店やレストランなどが林立。シャープの液晶テレビ画面の大型工場が繁栄していた頃は活気があったが・・。栄枯盛衰、現代は短期だ。
<東町の崖上より>南を見て中勢の経ヶ峰〜錫杖ヶ岳。右端は伊賀のとっかかりの霊山。亀山は中勢と南勢の境の地である。経ヶ峰南には安濃津と伊賀を繋ぐ長野峠があり豪族・長野氏の領地。
<東町の崖上より>南を見て中勢の経ヶ峰〜錫杖ヶ岳。右端は伊賀のとっかかりの霊山。亀山は中勢と南勢の境の地である。経ヶ峰南には安濃津と伊賀を繋ぐ長野峠があり豪族・長野氏の領地。
<東町・脇本陣跡>椿屋跡。1843年には1549人,家数567軒,旅籠21軒,本陣1軒,脇本陣1軒。城下町で幕府直轄宿場。変則的統治で参勤交代大名は宿泊を遠慮。
<東町・脇本陣跡>椿屋跡。1843年には1549人,家数567軒,旅籠21軒,本陣1軒,脇本陣1軒。城下町で幕府直轄宿場。変則的統治で参勤交代大名は宿泊を遠慮。
<東町・本陣跡>樋口本陣跡。右の交差点は亀山城大手門跡の江ヶ堂交番。江戸期は大手門があり、これより先は行けずに、左折して万町の曲線下り坂を下りた。
<東町・本陣跡>樋口本陣跡。右の交差点は亀山城大手門跡の江ヶ堂交番。江戸期は大手門があり、これより先は行けずに、左折して万町の曲線下り坂を下りた。
<亀山城大手門跡>解説板。桝形門だった。交叉点南には「高札場」説明板もある。明治初頭に石垣まで全て破壊。
<亀山城大手門跡>解説板。桝形門だった。交叉点南には「高札場」説明板もある。明治初頭に石垣まで全て破壊。
<江戸期雰囲気のある万町>くねくねとした坂道を下りる。
<江戸期雰囲気のある万町>くねくねとした坂道を下りる。
<でころぼ坂>遍照寺横から南下に下りて行く急峻な坂道のこと。名前由来は不明。「でこぼこ」や「でくのぼう」の訛りか?
<でころぼ坂>遍照寺横から南下に下りて行く急峻な坂道のこと。名前由来は不明。「でこぼこ」や「でくのぼう」の訛りか?
<遍照寺>南の崖傾斜地上に建つ。本堂は、亀山藩二之丸御殿(亀山藩政務所)玄関の一部を移築した。鎌倉中期の三尺99cm木造阿弥陀如来立像や30cm木造観音菩薩座像、45cm木造勢至菩薩立像など。県指定文化財。
<遍照寺>南の崖傾斜地上に建つ。本堂は、亀山藩二之丸御殿(亀山藩政務所)玄関の一部を移築した。鎌倉中期の三尺99cm木造阿弥陀如来立像や30cm木造観音菩薩座像、45cm木造勢至菩薩立像など。県指定文化財。
<遍照寺>亀山銘菓は亀乃尾(西町・角屋〜瑞宝軒)。江戸期末期より。和菓子を滝壺にいる亀の甲羅にはねて飛び散る美しい水玉に見立たもの「亀乃尾 山の岩根をとめておちる 瀧の志ら玉千代のか寿かも」
<遍照寺>亀山銘菓は亀乃尾(西町・角屋〜瑞宝軒)。江戸期末期より。和菓子を滝壺にいる亀の甲羅にはねて飛び散る美しい水玉に見立たもの「亀乃尾 山の岩根をとめておちる 瀧の志ら玉千代のか寿かも」
<西町>歴史を感じさせる旧家。裏は「池の側」大池。約250年前の建築?坂之下・本陣と関係?製糸業?明治中期。田中製糸場や菊田製糸場。亀山製絲。明治期は養蚕・製糸が盛ん。四日市室山の伊藤製糸工場を合併。
<西町>歴史を感じさせる旧家。裏は「池の側」大池。約250年前の建築?坂之下・本陣と関係?製糸業?明治中期。田中製糸場や菊田製糸場。亀山製絲。明治期は養蚕・製糸が盛ん。四日市室山の伊藤製糸工場を合併。
<西町問屋場跡を見る>自然石の「亀山宿碑」がある。東町と西町に問屋場を設置、半月毎(10日あるいは20日)に業務交替して運営。東町は本陣・樋口家、西町は米問屋・若林家。
<西町問屋場跡を見る>自然石の「亀山宿碑」がある。東町と西町に問屋場を設置、半月毎(10日あるいは20日)に業務交替して運営。東町は本陣・樋口家、西町は米問屋・若林家。
<池の側>亀山城外堀の一部。実に広い池。
<池の側>亀山城外堀の一部。実に広い池。
<石井兄弟敵討の碑>1701年石井源蔵・半蔵兄弟が父と兄の仇・赤堀水之助を討ちとった所。歌舞伎・講談・浮世絵などの材料に。当時は「元禄曾我兄弟」絶賛。
<石井兄弟敵討の碑>1701年石井源蔵・半蔵兄弟が父と兄の仇・赤堀水之助を討ちとった所。歌舞伎・講談・浮世絵などの材料に。当時は「元禄曾我兄弟」絶賛。
美しい「亀山城多門櫓」1632年頃築造?三重県唯一現存の城郭建造物。県史跡。多門櫓が建つ場所は大変狭い「天守台」と言う名の本丸高石垣の上。別名「粉蝶城」
美しい「亀山城多門櫓」1632年頃築造?三重県唯一現存の城郭建造物。県史跡。多門櫓が建つ場所は大変狭い「天守台」と言う名の本丸高石垣の上。別名「粉蝶城」
「亀山城址碑」『天守閣もあったが「堀尾忠晴」が「丹波亀山城」と間違え天守閣を取り壊してしまった』と意味不明の伝承。確かに丹波亀岡も明治迄は「丹波亀山」の名前だったが・・。
「亀山城址碑」『天守閣もあったが「堀尾忠晴」が「丹波亀山城」と間違え天守閣を取り壊してしまった』と意味不明の伝承。確かに丹波亀岡も明治迄は「丹波亀山」の名前だったが・・。
<亀山藩御流儀心形刀流武芸形>妻片鎌寿斎門下の伊庭是水軒秀明が1682年に己の創意を加味し始める。さらにその弟子・亀山藩士・山崎雪柳軒が亀山演武場設立。亀山藩御流儀となる。明治になり現在地に移設。
<亀山藩御流儀心形刀流武芸形>妻片鎌寿斎門下の伊庭是水軒秀明が1682年に己の創意を加味し始める。さらにその弟子・亀山藩士・山崎雪柳軒が亀山演武場設立。亀山藩御流儀となる。明治になり現在地に移設。
<亀山城多門櫓と与助井戸>本丸で使用されていた井戸跡。1590年岡本宗憲による亀山城築城時にここに住んでいた与助住居を城外へ移したという伝承による。
<亀山城多門櫓と与助井戸>本丸で使用されていた井戸跡。1590年岡本宗憲による亀山城築城時にここに住んでいた与助住居を城外へ移したという伝承による。
<亀山城外堀図>東海道は外堀南外に沿う。戦国期、亀山城は関盛信が城主。六角氏に属し日野城主・蒲生定秀娘が妻。信長伊勢侵攻で降伏。関一党・伊勢神戸氏に養子に入った神戸信孝(信長三男)や信長に操られる。
<亀山城外堀図>東海道は外堀南外に沿う。戦国期、亀山城は関盛信が城主。六角氏に属し日野城主・蒲生定秀娘が妻。信長伊勢侵攻で降伏。関一党・伊勢神戸氏に養子に入った神戸信孝(信長三男)や信長に操られる。
<西町・道標>信孝との不仲で信長から勘当。神戸城の神戸具盛と共に蒲生賢秀の日野城に幽閉。やがて信孝四国攻め等に参加、功績を挙げ亀山城帰還。本能寺以降は秀吉家臣、蒲生氏郷の与力大名に。
<西町・道標>信孝との不仲で信長から勘当。神戸城の神戸具盛と共に蒲生賢秀の日野城に幽閉。やがて信孝四国攻め等に参加、功績を挙げ亀山城帰還。本能寺以降は秀吉家臣、蒲生氏郷の与力大名に。
<西町・道標>「右・郡役所 左東海道」亀山城関氏(盛信・息子・一政)は九州・小田原征伐でも功績を挙げ、関ヶ原では西軍から東軍へ寝返り。伯耆黒坂5万石に。大阪冬・夏の陣とも京橋口で大活躍。
<西町・道標>「右・郡役所 左東海道」亀山城関氏(盛信・息子・一政)は九州・小田原征伐でも功績を挙げ、関ヶ原では西軍から東軍へ寝返り。伯耆黒坂5万石に。大阪冬・夏の陣とも京橋口で大活躍。
<西町民家>亀山・関氏の最後は江戸期になっての内紛などで改易。近江蒲生五千石で旗本に。子孫は近江・中山陣屋(日野町中山西谷・光明院近く)に。
<西町民家>亀山・関氏の最後は江戸期になっての内紛などで改易。近江蒲生五千石で旗本に。子孫は近江・中山陣屋(日野町中山西谷・光明院近く)に。
<青木門跡>亀山城は江戸期は伊勢亀山藩・藩主居城。東海道沿いの幕府宿所の役割。上洛途中の家康・秀忠・家光などが本丸で度々休泊。藩主は二の丸を居城。
<青木門跡>亀山城は江戸期は伊勢亀山藩・藩主居城。東海道沿いの幕府宿所の役割。上洛途中の家康・秀忠・家光などが本丸で度々休泊。藩主は二の丸を居城。
<亀山藩石川家の家老・加藤氏侍屋敷長屋門と土蔵>江戸時代中期以降の建物。土曜日曜祭日開館。武家建築として三重県下で希少な遺構。近くに小さな西の丸庭園。
<亀山藩石川家の家老・加藤氏侍屋敷長屋門と土蔵>江戸時代中期以降の建物。土曜日曜祭日開館。武家建築として三重県下で希少な遺構。近くに小さな西の丸庭園。
<飯沼慾斎生誕地>江戸時代(1782-1865)の医家で本草学者。小野蘭山に本草学、宇田川榛斎に蘭学を学ぶ。大垣で蘭方医開業、1828年に人体解剖。先駆的な医家。『草木図説』執筆。シーボルト謁見は叶わず。
<飯沼慾斎生誕地>江戸時代(1782-1865)の医家で本草学者。小野蘭山に本草学、宇田川榛斎に蘭学を学ぶ。大垣で蘭方医開業、1828年に人体解剖。先駆的な医家。『草木図説』執筆。シーボルト謁見は叶わず。
<西町・旧館家住宅>枡屋。内部が見学可能。土日祝日。9時〜4時半。亀山城西之丸外堀跡遺跡も付近にある。
<西町・旧館家住宅>枡屋。内部が見学可能。土日祝日。9時〜4時半。亀山城西之丸外堀跡遺跡も付近にある。
<古亀山城跡や亀山市立歴史博物館へ続くの道>ここから北へ300m。1265年関実忠が築城した古亀山城跡の石標が若山町にある。その奥が歴史的な遺産が展示された歴史博物館が建つ。写真左手に次の写真の道標あり。
<古亀山城跡や亀山市立歴史博物館へ続くの道>ここから北へ300m。1265年関実忠が築城した古亀山城跡の石標が若山町にある。その奥が歴史的な遺産が展示された歴史博物館が建つ。写真左手に次の写真の道標あり。
<道標>左「西町・野村」右「若山・・」江戸期亀山城は城主が短期間で交替。関家→松平(奥平)家→幕府領→三宅家→本多(酒井)家→石川家→板倉家→松平(大給)家→板倉家→石川家。
<道標>左「西町・野村」右「若山・・」江戸期亀山城は城主が短期間で交替。関家→松平(奥平)家→幕府領→三宅家→本多(酒井)家→石川家→板倉家→松平(大給)家→板倉家→石川家。
<道標>左奥が亀山中学校。激しい短期の藩主家交替で藩主支配定着せず?1774年以降の石川家でようやく幕末まで12代続いた。幕府はどのような政治意図を持って亀山藩への人事を決めていたのか?帳尻合わせ?
<道標>左奥が亀山中学校。激しい短期の藩主家交替で藩主支配定着せず?1774年以降の石川家でようやく幕末まで12代続いた。幕府はどのような政治意図を持って亀山藩への人事を決めていたのか?帳尻合わせ?
<梅巖寺>市ケ坂町・亀山藩主・石川家寺院。亀山宿西端・亀山城総構城門・京口門に隣接。東海道沿いの境内に西国三十三霊場を模した石祠群。
<梅巖寺>市ケ坂町・亀山藩主・石川家寺院。亀山宿西端・亀山城総構城門・京口門に隣接。東海道沿いの境内に西国三十三霊場を模した石祠群。
<京口門跡>1672年完成。梅厳寺の門前脇。石垣に冠木門・棟門・白壁番所。通行人監視。京方面から来る、坂を下から見上げる感じで、建物群が聳える壮麗形。
<京口門跡>1672年完成。梅厳寺の門前脇。石垣に冠木門・棟門・白壁番所。通行人監視。京方面から来る、坂を下から見上げる感じで、建物群が聳える壮麗形。
『亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門』広重「亀山雪晴」風景。亀山藩は江戸中期より慢性的な財政赤字で大商人より信用金が累積。解消できたのは明治維新後の借金棒引後だった。
『亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門』広重「亀山雪晴」風景。亀山藩は江戸中期より慢性的な財政赤字で大商人より信用金が累積。解消できたのは明治維新後の借金棒引後だった。
<左家屋=旧佐野家住宅とトイレ>京口橋を渡り下りると三叉路で左に旧家。トイレは洋式で綺麗だが手洗いの水が出ない?正面の照光寺に「石井兄弟」の仇「赤堀源五右衛門」の碑と墓。
<左家屋=旧佐野家住宅とトイレ>京口橋を渡り下りると三叉路で左に旧家。トイレは洋式で綺麗だが手洗いの水が出ない?正面の照光寺に「石井兄弟」の仇「赤堀源五右衛門」の碑と墓。
<慈恩寺>忍山神宮の神宮寺だった?728年創建伝。本尊の阿弥陀如来立像・像高163cmの一木造。平安時代初期彫刻代表作。重要文化財指定。
<慈恩寺>忍山神宮の神宮寺だった?728年創建伝。本尊の阿弥陀如来立像・像高163cmの一木造。平安時代初期彫刻代表作。重要文化財指定。
<忍山神社>左奥の森。東海道から坂を南に降りる。垂仁天皇の命を受けた倭姫が、神を祀る地探しの途中、半年滞在した場所に鎮座。押田山(野村町愛宕山)にあり「カミヤマ」と呼ばれ、それが転化し亀山に?
<忍山神社>左奥の森。東海道から坂を南に降りる。垂仁天皇の命を受けた倭姫が、神を祀る地探しの途中、半年滞在した場所に鎮座。押田山(野村町愛宕山)にあり「カミヤマ」と呼ばれ、それが転化し亀山に?
<忍山神社>神主・忍山宿禰長女、弟橘媛(オトタチバナヒメ)は日本武尊妃。東征に従い、相模の海が海神怒りで荒れた際、入水し怒りを鎮めるために亡くなった美談伝承。弟橘媛妹・弟財部媛は13代成務天皇の妃。
<忍山神社>神主・忍山宿禰長女、弟橘媛(オトタチバナヒメ)は日本武尊妃。東征に従い、相模の海が海神怒りで荒れた際、入水し怒りを鎮めるために亡くなった美談伝承。弟橘媛妹・弟財部媛は13代成務天皇の妃。
<野村の一里塚>樹齢400年以上。巨大な「椋の木」三重県に残存する唯一の一里塚。国史跡指定。実に巨大。
<野村の一里塚>樹齢400年以上。巨大な「椋の木」三重県に残存する唯一の一里塚。国史跡指定。実に巨大。
<野村の一里塚の後ろにある石仏>
<野村の一里塚の後ろにある石仏>
「大庄屋 屋敷跡(打田権四郎旧宅跡標柱」隣の掲示板。
「大庄屋 屋敷跡(打田権四郎旧宅跡標柱」隣の掲示板。
<布氣皇舘太神社>鈴鹿川左岸段丘上。昔は野村布気林(野村と野尻村境)に。兵乱で衰退、現社地に。中世は神戸郷神領・豪族板淵氏、関氏移住後は亀山城氏神に。江戸中期に皇館大神宮神号。深い森の中。
<布氣皇舘太神社>鈴鹿川左岸段丘上。昔は野村布気林(野村と野尻村境)に。兵乱で衰退、現社地に。中世は神戸郷神領・豪族板淵氏、関氏移住後は亀山城氏神に。江戸中期に皇館大神宮神号。深い森の中。
子供の頃は、どの集落にも専売特許品(塩・煙草)や郵便関係を取り扱う店があったもの。よくお使いに走らされた。
子供の頃は、どの集落にも専売特許品(塩・煙草)や郵便関係を取り扱う店があったもの。よくお使いに走らされた。
<道標>白川はここから北へ約2kmの白木・白木一色集落を指す。
<道標>白川はここから北へ約2kmの白木・白木一色集落を指す。
<布気町落針・昼寝観音にある地蔵>奈良東大寺大仏再建時に芸濃町石山観音から移動。33ヶ所観音参りの寺院を決定する時、ここの観音は昼寝をしていて、会議で選ばれなかったという伝承。
<布気町落針・昼寝観音にある地蔵>奈良東大寺大仏再建時に芸濃町石山観音から移動。33ヶ所観音参りの寺院を決定する時、ここの観音は昼寝をしていて、会議で選ばれなかったという伝承。
亀山の台地を西に下りていく東海道。
亀山の台地を西に下りていく東海道。
JR線を跨ぐ陸橋の角に立つ旧家。
JR線を跨ぐ陸橋の角に立つ旧家。
<陸橋を渡る>565号とJR関西線を跨ぐ陸橋を渡る。東海道はこの写真下で右から左と続いていたが、JR線路で途切れてしまったことがよく分かる。
<陸橋を渡る>565号とJR関西線を跨ぐ陸橋を渡る。東海道はこの写真下で右から左と続いていたが、JR線路で途切れてしまったことがよく分かる。
<東名阪自動車道橋脚>東海道五十三次(庄野・亀山・関・坂下)の四宿の大きな絵パネル。
<東名阪自動車道橋脚>東海道五十三次(庄野・亀山・関・坂下)の四宿の大きな絵パネル。
<鈴鹿川と大岡寺畷跡>説明板と標柱。18丁(約3.5km)松並木が続いた。芭蕉の弟子・里東と野径の連句「から風の大岡寺縄手吹透し 連も力も皆座頭なり」
<鈴鹿川と大岡寺畷跡>説明板と標柱。18丁(約3.5km)松並木が続いた。芭蕉の弟子・里東と野径の連句「から風の大岡寺縄手吹透し 連も力も皆座頭なり」
<関宿東手前から北を見る>後ろの山並みは左から「仏ヶ平(569)、寒風(461)、溝干山(770)、高畑山(773)、三子山(568)、四方草山(687)。手前中央は関の観音山〜羽黒山。羽黒山南には関氏の正法寺山荘跡。
<関宿東手前から北を見る>後ろの山並みは左から「仏ヶ平(569)、寒風(461)、溝干山(770)、高畑山(773)、三子山(568)、四方草山(687)。手前中央は関の観音山〜羽黒山。羽黒山南には関氏の正法寺山荘跡。
<関宿への上り坂>「小萬のもたれ松」と解説碑。久留米藩士牧氏妻は夫の仇を討とうと旅を続け関宿山田屋に止宿、一女小萬を生み病没。成長した小萬は亀山で武術修行。天明3年(1783)仇敵・軍太夫を討つ。
<関宿への上り坂>「小萬のもたれ松」と解説碑。久留米藩士牧氏妻は夫の仇を討とうと旅を続け関宿山田屋に止宿、一女小萬を生み病没。成長した小萬は亀山で武術修行。天明3年(1783)仇敵・軍太夫を討つ。
<関宿・東の追分>常夜灯・伊勢神宮一の鳥居・道標一里塚など。伊勢別街道起点で、津で四日市追分からの参宮道と合流。
<関宿・東の追分>常夜灯・伊勢神宮一の鳥居・道標一里塚など。伊勢別街道起点で、津で四日市追分からの参宮道と合流。
<関宿・伊勢神宮一の鳥居>内宮宇治橋南詰の鳥居を移設。「これよりいせへ」「外宮(伊勢神宮)まで15里」
<関宿・伊勢神宮一の鳥居>内宮宇治橋南詰の鳥居を移設。「これよりいせへ」「外宮(伊勢神宮)まで15里」
<関宿・一里塚>聖武東国行幸時の「赤坂頓宮」は関小学校北の「まるやま公園」丘陵に石碑。公園〜関神社付近は「姫御前」の名称。頓宮位置は他に坂下・片山神社や加行山(関ヶ丘)鈴鹿川右岸説も。
<関宿・一里塚>聖武東国行幸時の「赤坂頓宮」は関小学校北の「まるやま公園」丘陵に石碑。公園〜関神社付近は「姫御前」の名称。頓宮位置は他に坂下・片山神社や加行山(関ヶ丘)鈴鹿川右岸説も。
<関宿・常夜灯>常夜燈大阪津国屋重右衛門 江戸嶋屋佐右衛門 元文五(1682)庚申歳正月手坂組中」1692年
<関宿・常夜灯>常夜燈大阪津国屋重右衛門 江戸嶋屋佐右衛門 元文五(1682)庚申歳正月手坂組中」1692年
<関宿を見る>上り坂。人が全くいない関宿街道。関駅前の車に戻り、鈴鹿川にかかる勧進橋を渡り、伊勢別街道分岐点・古厩に移動。古代の鈴鹿駅家だったと言われるが・・。
<関宿を見る>上り坂。人が全くいない関宿街道。関駅前の車に戻り、鈴鹿川にかかる勧進橋を渡り、伊勢別街道分岐点・古厩に移動。古代の鈴鹿駅家だったと言われるが・・。
<鈴鹿駅家跡・御厩>古厩。古代に旅人便宜のため乗馬や人夫を備え駅舎を設けた所。旅人宿。宿駅伝馬制度。鈴鹿駅家がなぜ鈴鹿川右岸に?
<鈴鹿駅家跡・御厩>古厩。古代に旅人便宜のため乗馬や人夫を備え駅舎を設けた所。旅人宿。宿駅伝馬制度。鈴鹿駅家がなぜ鈴鹿川右岸に?
<鈴鹿駅家跡>東海道だけでなく、伊勢・津への分岐点の追分の意味をもつ。日本武尊や壬申の乱や聖武行幸時、古代道は鈴鹿川右岸か左岸か?関の存在?鈴鹿頓宮・赤坂頓宮の場所?
<鈴鹿駅家跡>東海道だけでなく、伊勢・津への分岐点の追分の意味をもつ。日本武尊や壬申の乱や聖武行幸時、古代道は鈴鹿川右岸か左岸か?関の存在?鈴鹿頓宮・赤坂頓宮の場所?
<御厩の松跡>昭和58年3月まで「御厩の松」と呼ばれる老松があったが、病虫害のため伐採、樹齢350年、約2.35mの根株保存。本日はここまで。
<御厩の松跡>昭和58年3月まで「御厩の松」と呼ばれる老松があったが、病虫害のため伐採、樹齢350年、約2.35mの根株保存。本日はここまで。
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