【追憶の日々】オーストラリア大陸・東半周バイクツーリング The Road to Ayers Rock

- GPS
- 959:59
- 距離
- 9,452km
- 登り
- 12,337m
- 下り
- 12,339m
天候 | 基本、晴れ |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
飛行機
|
コース状況/ 危険箇所等 |
基本、舗装路。(スチュワートハイウェイも舗装済) ・少しだけ、ダートを走りましたが、危険を感じて撤退しました。 |
その他周辺情報 | 2/25シドニー2/26 - 3/1キャンベラ - 3/4メルボルン3/6 - 3/11アデレード - 3/15エアーズロック3/16 - 3/17アリススプリング - 3/23ケアンズ3/28 - 4/4ゴールドコースト4/6 - 4/8シドニー4/10 |
写真
感想
若き日のkickeyは、オフロードバイクに夢中だった。そして、エアーズロックを目指す旅に出た。オーストラリアの赤き荒野(アウトバック)を夢見て。
(以下、遠い記憶を基づく記録です)
---
1991年2月、大学3回生の後期試験終了と共に、荷物をまとめて日本を飛び立つ。目指すはオーストラリアの玄関口、シドニーだ。春休みを目一杯使って1ヶ月半を確保した。バイトで貯めた資金に親の援助も得て、初の海外となるオーストラリアツーリングを計画した。大いなる期待を胸に夢のオーストラリアの地を踏んだ。
シドニー空港に到着するなり汗だくになった。トイレに駆け込んで、まずは服を着替える。南半球は、夏であり、革のジャンパーを脱いでTシャツに着替えた。長期ツーリングにそなえて、バイクをメンテナンスできるように、最低限の工具は持ち込んだ。クシタニの振り分け式バックとモンベルのリアバック、ミレーの小さな防水バックパックに荷物を分けて詰め込んだ。
大量の荷物を運んで、ものものしい出で立ちで空港に現れた私に、「バイクで海を渡ってきたのか?」とロイが、声を掛けてきた。ロイはキャンベラ大の留学生(確かフィジー出身だったはず)で、シドニーのバイク屋さんまで車で送ってもらった。ありがとう。(後に、キャンベラで再会)
シドニーのバイク屋さんで、日本から予め手配していた中古バイクを受け取る。250ccのスズキDR。頼むせ、相棒!でっかいバイクへの憧れはあったが、足着き性を重視して、4ストの250ccを選択した。程度は良かったが、新車並みに高かった印象が残っている。(このバイクは、オーストラリアツーリングを終えた後、個人売買で売った。その直後に盗難にあった。シドニーは、治安はよさげに見えるが、決して油断はできない)。
街では、基本、バックパッカーズの安宿に宿泊。郊外ではキャンプだ。オーストラリアは、車でキャンピングカーを引っ張って旅行する形が定着しており、キャンプの環境は整っている。持ち込んだダンロップのドームテントが活躍した。
ストーブは、オプティマス8R。メタによるプレヒートが必要だが、シンプルな構造のためガソリン(赤ガス)が使える。ガソリンストーブだと、バイク燃料と共用できるため便利だ。小さなシグボトルに入れて運んだ。
シドニーから、まずはキャンベラへ。空港で知り合ったロイを訪ねた。(若気の至りで、めちゃずーずーしいが...)。キャンベラ大学に留学中の日本人も紹介してもらった。彼らは、ここで英語を学んで日本で英語教師になることを目指していた。今はどんな生活を営んでいるのだろう。
オーストラリアの首都キャンベラの街は、人が少なく田舎だった。そもそも、オーストラリアは人口が少ない。(人より羊の数の方が、圧倒的に多い)。
街にはカンガルーが普通に歩いていて、驚いた。カンガルーはでかい。尾っぽで立ち上がると大人の背丈を越える。(小型のカンガルーはワラビーと呼ばれていた)。カンガルーは光るものに近づく習性を持ち、事故の原因となる。道を走るロードトレイン(トラックを連結したモノ)は、カンガルーバーを装備して、跳ねても車は平気だが、バイクだとそうはいかない。道に飛び出されると、事故の元となる。日中のみ走り、ぶつからない様に気をつける必要がある。(実際、エアーズロックで出会った日本人は、旅の途中でカンガルーと衝突事故を起こし、長く入院したと伺った。彼はカンガルーボーイと呼ばれていた。膝の傷はいつしかオーストラリア大陸の形に。なかなかの豪傑でした)。
次に、南へ下って、メルボルン近郊のフィリップ島へ。ここはオーストラリア大陸の南端にあたり、海を隔てて南極まで遮るものが何もない。夜、砂浜に上陸するペンギンの群れを見た。
カンガルー島では、国立公園内のキャンプ場に泊まった。テントの周りでは、夜行性の小動物オポッサムが動き回っていた。夜、トイレに行くと、なんとコアラが地面を歩いていた。昼間はユーカリの木の上で寝ているだけなのだが、夜は地面を歩いて移動するのだ。コアラは愛らしい容姿だが、鋭いツメを持っているので、遠巻きにやり過ごした。本人は一生懸命逃げているつもりけれど、ゆっくりしか移動できないのが、ユーモラスだ。
夜は満天の星空が広がる。南十字星を見上げて、過ごした。
アデレードからは、スチュワートハイウェイ(87号線)を一路北へ。世界地図でみても真っ直ぐな道をひたすら走る。どこまでも続く赤い大地。でも、バイクを停めると、どこからともなくハエが湧いてくる。なんとも不思議。ここでは、被りモノ(ネット)がかかせない。(これが無いと、わんさか湧いてくるハエが口に入ってしまう)。
3日間直線の道路を走り続け、ようやくエアーズ・ロック近郊の街にたどり着いた。
朝早く、エアーズロックに登る。取り付きは急坂だが、登るにつれ、なだらかになる。地球のヘソは、流石にデカイ。山頂で、空にかかる2つの虹を見た。遠路はるばるの到来を祝福しているかの様だった。周囲も回る。アボリジニの残した壁画などが残っていた。山頂から見えたマウントオルガにも行ってみる。こちらは、岩山がそびえ立ち、見たことのない景観を演出していた。
ここで事件が起こる。この日は、ユララのキャンプ場で宿泊。日中は、直射日光が照りつけ、気温40℃を越える。そのため、日中は動かず、日陰に退避してのんびり過ごす。お昼時、テント内で食事の準備をしていたときに事件は起こった。携帯していたシグボトルを明けた瞬間、気化したガソリンが吹き出し、ろうそくの火に引火。あわやテントが丸焼けの火事になるところを、すんでのところで、シグボトルをテントの外に放り投げたため助かった。
ガソリンは勢いよく燃え続け、けっきょく砂で埋めることで消し止めた。シグボトルは全焼したが、火傷しなかったのは幸いだった。(危機一髪。下手したら、危なかった)
ここからは少しアウトバックに足を踏み入れる。持参したミシュランのオーストラリア全図を頼りに、長大なダートロードに分け入る。しかし、長くは続かない。気合を入れて、勢い良く走り出したのは良いが、少し走った所で、スリップして大転倒。体ごと投げ出されたが、幸いにも怪我はなかった。だが、バイクは痛々しい姿に様変わりしていた。(まるで、ヤンキー仕様!)
舗装路まで引き返して、一息ついていると、通り掛かりのドイツ人夫婦のライダーが「大丈夫か?」と心配して声を掛けてくれた。「ライトが壊れたけれど、走るのには支障ない」ことを伝え、また旅を続けた。時折、出会う海外のバイク旅行者は、長い期間の休みが取れるらしく、なんともうらやましい限りだ。憧れのアウトバックデビューは、ほろ苦い記憶となった。
そこからケアンズへ。ここは、熱帯のリゾート地。近隣の島に渡って、グレートバリアリーフの美しい海でのシュノーケリングや、バンジージャンプを見に行ったりして過ごした(私は、極度の高所恐怖症のチキン野郎だったので、ここは見学のみ)。
道を走っていると。家が建ったままの姿で、トラックの荷台に積まれて、道をゆっくりと走っていた。なんか豪快な引っ越しやなぁ。
東海岸を南下してたどり着いたのはゴールドコースト。そこは、サーファーの街だった。オーストラリアは紫外線が半端ない。日焼けどころか、火傷してケロイドになることも多いらしい。海で遊ぶときは、肌の露出を極力控えた。
泊まった安宿で、糸と針をお借りして、入り江の桟橋で糸をたれていると、なんか見た目がグロテスクな魚が釣れた。(本当に釣れたけど、なんじゃこりゃ?)。持ち帰ると、見た目に反して食べると美味しいらしい。バター焼きにしてもらって、食べたら以外に美味かった。
最後はシドニーの街に戻り、旅の最後を楽しんだ。
日本に帰ると空港まで、両親が迎えに来てくれた。今の便利な世の中と違い、携帯電話も無くメールもない。旅の最中、一度も連絡を取らなかった。初めての海外への独り旅、それもバイクツーリング。「誰か友だちと行ったらいいのに。」と母親は何度も忠告してくれた。(遊びのバイクツーリングサークルにバイク乗りの仲間はいたが、流石にこの長旅に付き合ってくれる人は居なかった)。
私がオーストラリアを訪れている期間に、日本人旅行者がオーストラリアで亡くなったというニュースが流れていたそうで、親はさぞかし心配しただろう。(そんな親ももういない)。
---
実家を整理する中で、古い写真のアルバムを掘り出した。それを本記録にまとめた。当時使用していた、アライのヘルメットも、クシタニのブーツも、全て実家に残してくれていたが、今回の整理で、何もかも処分した。せめて、思い出だけは、大事にしまっておこう。
オーストラリア大陸、東半周ツーリングは、私の宝物です。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
youngkickeyさん、こんにちは
いや〜、お若い。
自分にもこういう時期があったかとつくづく思い出すことってありますよね。
にしても、あの時代にオーストラリア半周とは、やることがすごかったんですね。
今のロングトレイル好きのkickeyさんのルーツを見ました
chamchanさん、毎度!
緊急事態宣言の状況下で、コロナのステイホーム時間を有効活用して、大昔の記憶を辿ってみました。「いつか、整理しとかないと」と思いつつ、早30年が経過。時の経つのは早いものです。古い記憶をつなぎ合わせるのに、結構大変でしたが、なんとか記録の形に残すことができて、ホッとしています。
私にとって、バイクは旅の手段でした。これさえあれば、気軽に、どこでも好きな所に行けると。放浪癖はこの頃からあったのかも...。まだ見ぬ絶景を自分の目で確かめたい。そんな想いは、この頃から続いているのかもしれません。
youngkickyさん、こんにちわ。今や登れなくなってしまったエアーズロック、そこに至るまでの長い道のりにseniorkickyさんのルーツを感じました。バイクはもちろん、バックパッカーも他人事だった若かりし頃を過ごした自分ですが、同じような頃にオーストラリアに行ったことがあります。1週間しか滞在しなかったけど、満天の星や海岸線沿いにいるペンギンなどの動物たち、歴史的な建物群を写真見ていて思い出しました。若い頃にしか出来ない体験、たくさんのことを感じたのではないでしょうか。残り西半分のツーリングはリタイア後のお楽しみかな(^^)
yamaonseさん、毎度!
憧れのオーストラリア大陸は、日本から、はるばるやって来た若者を、暖かく迎えてくれました。(事前には、もっと過酷な旅を想定して準備していましたが、実際行ってみると全然違いました)。いろいろとトラブルも有りましたが、いずれも身体が無事だったのは、幸運でした。
1ヶ月半だとバイクで1周するのには、少し期間が短かかったので、東半分を計画しました。西には美しいパースの街があり、イルカの集まるビーチもある。勝手気ままなバイク放浪旅は、もう難しいとは思いますが、旅の形を変えて、いつかの楽しみに取っておきましょう。自然がそのままの形で楽しめるオーストラリア、今度訪れるなら、タスマニア島に渡ってトレイル歩きなんかも面白いかもしれませんね。
youngkickeyさん こんにちは 初めまして
楽しいレコですね〜若かりし頃を思い出します。
1989年の冬〜春、会社辞めて、
同期3人で2ヶ月ほどヨーロッパに行きました。
バイク旅とは行きませんが、
シュラフと1週間分の着替えをザックに詰めて、
町から町へと旅しました。
地球の歩き方が出始めで、
学生たちが海外へ行くようになった時代ですかね?
行ってみないとわからないような感動あり、
怖さありの良い時代でした
楽しいレコ、ありがとうございました。
jikyoonさん、コメントありがとうございます。
仕事を辞めて、ヨーロッパを2ヶ月も放浪されていたのですね。それも、なかなかのもんですね〜。バックパック一つでの旅行は、ワンゲル部の本領発揮か?旅は身軽でシンプルな方が楽しめるかと思います。余計なものはいっさい持たない。そんな潔さは好感が持てます。
あの頃の情報源は、もっぱら「地球の歩き方」でしたね。あとは現地に飛び込み人に聞く。若者だからこそ、許されていた所もありました。(ズーズーしいことをよくもまぁ恥ずかしげも無くやっていたものだ、と思うことも多々ありますが...)
山もそうですが、そこに行かないと味わえない感動は確かにあると思います。どんな綺麗な映像も、現実の体験には、かなわない。見て触れて味わって心で感じる、そこが旅の醍醐味でしょうか?
コロナの時代、知らない誰かと肩を組むなんて、ご法度になりました。貧乏学生の味方、バックパッカーズ向けの安宿も厳しい状況でしょう。ぜひ、この苦境を乗り越えてほしい。そしてまた、若者たちの自由な放浪旅を許容する社会に戻って欲しいと願っています。
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する