茗荷谷・小石川史跡ウォーク


- GPS
- 05:35
- 距離
- 9.6km
- 登り
- 18m
- 下り
- 17m
コースタイム
天候 | 曇・雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2013年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
ハイキングには、史跡を訪ねるウォーキングも含まれるため、記録をしました。 文京区、小石川地域は坂や裏道が多く、狭い範囲に多くの史跡があり、またそれぞれの史跡の場所がわかりにくいので下調べが重要。なお23区で坂道の多い順は1.文京区2.港区3.千代田区4.新宿区だそうだ。 |
写真
感想
先日、曙橋に時計の修理に出かけ、そのついでに立ち寄った新宿歴史博物館主催の史跡めぐりに参加。募集人員は50名だが結構満員盛況だった。小石川周辺は江戸初期の地図では傳通院以外は田畑だが、100年後には御家人らの居住地として開発された場所で多くの史跡が残っている。
私はD班で9時20分に茗荷谷駅前のスーパー前から出発。茗荷「谷」に向かって下り、最初の史跡は林泉寺「しばられ地蔵」、本家は葛飾にあるようだが、ここも江戸の文献に出てくるらしい。次は茗荷坂を下ってお隣の深光寺の滝沢馬琴のお墓。晩年の口述筆記で知られるなくなった息子の嫁の路のお墓もあった。
地元で植えている茗荷のある茗荷谷から藤坂を歩き、春日通を渡って播磨坂に出る。ここはかつて松平播磨の守の上屋敷のあった場所で、戦後、環状線開発で、無理やり環状三号線を作り始めたが、結局ほとんど用地買収ができず、この通りだけが残った。現在は公園通りのようになり、文京区の桜の名所になっている。この通りの付近に石川啄木の終焉の地の碑がある。現在はかつてあった石碑は撤去され、マンションの一階に小さな碑文がある。これは発見するのは難しそう。
その後、極楽水、阿茶の局の墓碑を見学、墓碑には「茶阿」とあるが、「阿茶」とするものもあり、この時代の名はどちらも読むらしい。この付近は戦火に焼かれたが、お墓や石碑など、ごく一部が残された。その後三百坂から傳通院に出る。その途中に清河八郎らの浪士組の決起の地である処静院跡を通過、傳通院にいたる。
ここは家康の母、於大や千姫、孝子らの墓があり、徳川家の菩提寺のひとつ、家康の将軍と重要家臣以外の徳川家の子女らの墓がある。また清川八郎や沢宣嘉ら、維新前後に活躍した人々の他、佐藤春夫らの文学者、指圧の浪越徳次郎の墓などもある。徳川家の手厚い庇護の下、7万坪の広大な敷地の中に様々な塔頭を持つ寺院だった。戦火に焼かれたが重要なお墓だけは残ったようだ。山門も本堂もすべて戦後の再建だ。また入口には処静院の石柱が残されている。
傳通院を出ると、淑徳学院の少し先に椋の大木があり、その先に幸田露伴、文、彩の一人娘、青木玉氏の住居がある。現在も娘さんで独文学者、エッセイストの奈緒氏と住んでおられるようだ。功だけは4代続けて文人一族となっている。
幸田家住居の少し先に澤蔵司稲荷がある。家康の母、於大の方の墓所として庇護された傳通院は、江戸初期には、多くの学僧が招かれ、修行をする場所になった。中でも3年で仏法ー浄土教の奥義を収めた修行僧、澤蔵司は元和6庚申年5月7日の夜、方丈廓山和尚と学寮長極山和尚の夢枕に立ち
「そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年の大望ここに達せり。
今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし。」
と残し暁の雲に隠れたと記されている。
その為、この慈眼院が別当寺となり元和6年(1620年)澤蔵司稲荷が建立され現在に至っているという。
境内の奥に進むと、暗い谷があり、多くの赤い鳥居が建てられている。その奥に澤蔵司稲荷があるようだ。その社を清めている方がいて、熱心に稲荷の説明をしている。奥にある穴のような場所がおきつねさまの棲家らしい。3年で浄土教奥義を収めたこの狐の化身、澤蔵司は、仏法と人々の守り手として、多くの信者を集め、願い事がかなうと人々が狐を奉納、無数の狐があちこちに置かれている。蕎麦好きだった澤蔵司と縁の深い小石川の蕎麦屋「萬盛」は400年前から創業し、今でも蕎麦の奉納を続けているという。
そのお隣のお寺は善光寺というが、元は傳通院の塔頭、縁寿院だが、明治時代に改名、信州善光寺の分院となる。それ以後、このあたりを善光寺坂と呼ぶようになったらしい。この坂を下りきると「えんま通り」となり、「こんにゃく閻魔」で有名な源覚寺があった。本堂の扉を開けると、お堂の奥に閻魔様の像があり、この慈悲深い閻魔様は、目の不自由な信心深い老女に右目を与えたために目が黄色く濁っている。老女はお礼に好物のこんにゃくを奉納し、以後人々は願い事があると、お参りに来てこんにゃくを奉納している。また同じ境内に塩地蔵もあり、こちらは歯にご利益のあるお地蔵さんらしい。
最後に後楽園駅の近くにある「礫川公園」で解散。公園の名称「礫川」は小石川の別名で、入口にはこの当たりの地名「春日」の名の起こりである春日の局の像がある。また公園内にはルネッサンスのカスケード(階段)滝があり、佐藤ハチローと青木玉氏の文学碑とそれに因むのハゼの木、ハンカチの木が寄贈されて移植されている。
解散後、澤蔵司稲荷にお蕎麦を奉納している「萬盛」の「稲荷箱そば」を食べてみようと傳通院前交差点に向かって、富坂を上ったが、残念ながらお店は改装中で6月までお休み。やむを得ず、傳通院を再び見学し、寺院前の浪越徳次郎の指圧治療センターを発見し、閻魔通りまで下る。そこでパエリアの店を発見し、昼食。昼食後、再び傳通院に戻り、来た道を戻って茗荷谷まで出る。昔学生のころ、よく通った場所で、現在どうなっているか散策、地形そのものは変わっていないが、教育大跡地は筑波大学+放送大学と教育の森公園になり、周りの風景も一変していた。
今日は狭い地域にぎっしり史跡の詰まった小石川の散策を楽しむことができて面白かった。またこのような歴史散策に参加してみたいと思う。
コメント
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はじめまして、hirokok510さん。
今から約30年前、この茗荷谷にあります大谷美術館裏の学生寮で生活していまして、すごく懐かしく拝見させていただきました。当時とはかなり景色は変わりましたが、懐かしい風景も多々あり、なかなか行こうとしなかったこの地区に、再訪したいと思うようになりました。
私にとっての懐かしい風景、ありがとうございました。
kameさん、コメントありがとうございます。
私は通いだったので、この界隈にこんなにも沢山の史跡があるとは知りませんでした。表の風景は変わり果てても、裏道の路地に入ると、何百年も前の痕跡が顔が顔を出すーー東京のもうひとつの魅力でしょうかーー??
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