瀧川氏城(三重県名張市)★★★
- GPS
- 03:05
- 距離
- 5.6km
- 登り
- 26m
- 下り
- 42m
コースタイム
- 山行
- 0:00
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 0:00
過去天気図(気象庁) | 2022年03月の天気図 |
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アクセス |
写真
感想
【城名】瀧川氏城(三重県名張市)
【別名】小波田城、城山
【場所】三重県名張市下小波田字下出
【形式】丘城
【地目】運動公園
【立地】丘頂
【規模】150×190m(主郭 70×70m)
【築城】天正9年(1581年)
【築城者】瀧川三郎兵衛勝雅(雄利)
【城主】瀧川三郎兵衛勝雅
【標高(比高)】250m(21m)
【見所】土塁、空堀、県下最大の単郭式城跡
【遺構】土塁、曲輪、空堀、堀切、虎口、馬出、腰郭
【訪城日】2022年3月5日
【訪城時間】およそ1時間47分
【歴史】
『三国地誌』に「瀧川三郎兵衛(雄利・かつとし)之に拠る。凡そ七十五間(136m)四方あり。要害の堅固丸山の城につぐ。」とある。築城主瀧川三郎兵衛は、瀧川一益の娘婿で北畠信雄に仕えた。三郎兵衛は信雄の伊賀支配のため伊賀市下神戸の丸山に築城するが、完成間近の天正6年7月伊賀土豪たちの奇襲により伊勢の信雄のもとに逃げ帰る。
天正7年7千余の軍勢で伊賀に進撃するが、敗れて再び伊勢に逃げ帰る。怒った信長は天正9年信雄を大将として3万数千の軍勢で伊賀に進撃(第二次伊賀天正乱)。この時三郎兵衛は副将として比自山砦を攻略。この後土豪たちの立て籠もる柏原城が長期戦となり、三郎兵衛は本体を引き戻し柏原攻めに備えた。
この城は兵糧の集積、兵の駐屯などに適した場所として築城されたか。『信長公記』に信長が安土から伊賀に来た時訪城とある。この乱後三郎兵衛は伊賀守護となりこの城を拠点とし、家臣を置いて守らせたと伝わる。
【概要】
瀧川氏城は美旗古墳群の南の丘陵にある。
貴人塚古墳の南の丘陵にあり、西の小波田川を外堀とする。
城跡の北西端は児童公園で無料駐車場がある。
北西部の土塁が開削されている本丸は土塁に囲まれていて約70m四方で下小波田区民運動場として使用されている。
土塁の周囲には深い空堀が巡り、県下最大規模の単郭式城跡として貴重。
南西端外に馬出を持つ虎口、腰郭があることから南西に対する防御態勢がうかがえる。
北西側と北東側は児童公園やブドウ栽培のため遺構は消滅。
【アクセス】
名阪国道上野lC→国道368を南下→国道398旧道菖蒲池南下→小波田川の橋南側(×南詰)信号交差点を下小波田へ東進→瀧川氏城と桜町中将城との間のつぐみカフェをすぎて坂を登ると右手に福島酒店→さらに進むと「滝川氏城⇦」案内板→狭い道を左折(西進)→突き当たりの左手が瀧川氏城西北辺児童公園駐車場
※つぐみカフェをネットで検索してナビ登録すると行きやすいかも?
城は丘の上端70m四方をうがって削平してある。信長3万数千を超す大軍による伊賀侵攻の本拠地として瀧川一益の娘婿瀧川三郎兵衛により築城された。
城跡西寄り辺の外側にある児童公園は帯曲輪のようにも見えるが、『三重の山城ベスト50を歩く』記載によると、児童公園によって城跡の北西部の遺構は消滅とあるので遺構ではないのだろう。城の外側は田が広がっているが、児童公園までの高さはかなりあり、さらに城跡の中には野球場となっているが、その周囲を高い土塁が取り巻いている。
児童公園から城内に入る虎口のような出入り口があるが、これは野球場として利用する際穿たれたもののよう。
そのまま城内には入らず児童公園の外に出て時計回りに先程車で来た道を逆にたどる。外側の害獣除け柵の内側に案内板あり。
城外の道は城のそばを通っておらず、離れてしまったので、城に通じていそうな路地から入って城の北東辺の東南端近くの空堀に出合い、空堀の底を歩く。東の角を曲がったところで通れなくなったので、土塁に上がる。城の南東辺の土塁上を歩く。南端に虎口が開いている。虎口の東側は何やら特徴のある形をしているが、遺構なのかどうかは不明。
南東辺空堀の外側を歩く。空堀の反対側も空堀くらい低くなっていて民家が軒を連ねている。削って低くなったのか自然の地形なのかはわからない。そのまま北東方向に向かっていくと民家の庭先に出たので虎口の方に戻る。
虎口の南側には馬出が設けられている。今はブドウ園として使われているが、柵で仕切られることなく自由に歩ける。馬出の端は空堀というにはあまりにも浅い溝のようなものが巡り、その外側を低い土塁が囲んでいる。外側は深い傾斜となって攻めにくくしている。
城は馬出のある南端部から先程車を置いた児童公園の出入り口のある北西端まで(城の南西辺)は土塁が二重に設けられている。外側の土塁に上がる。北西方向に歩くが、すぐに藪に阻まれる。びっしり密生しているようでもなさそうなので突入するが、元からかどうかはわからないがやせ尾根のように細くなつている箇所があり、通ろうとするが鈴鹿山脈の鎌尾根の上かというくらい激しい風が強く吹き続け身の危険を感じるが慎重に渡る。そういえば今日あたり春一番が吹くとか天気予報で言っていた。
痩せ尾根をなんとか通って進むが、イバラか何か棘のある蔓状の植物がまるで鉄条網のように幾重にも重なってゆく手を阻む。家で風呂に入った時二箇所血が滲んでいた。
ようやく西端の角にたどり着く。児童公園に停めた車が見えるが、害獣除け柵が行手を阻んでそちらには行けない。土塁の外側に降りてその辺を調べる。『三重の山城ベスト50を歩く』の縄張り図によるとそのあたりは児童公園とつながっていて馬出状の地形に見えるが同書によるとこの辺りの遺構は失われているとのことである。
ここでようやく運動場として使われている城内に入る。平たいはずのグランドなのに何故か国土地理院の地形図には真ん中を等高線が一本通っている。おもしろいことに地形図にも城跡の形が反映されている。
すぐに北西辺の土塁に上がる。北端までは問題なく歩けるが、北端から東端までは少し歩きにくく、木につかまったりしながら虎口近くまで歩く。
『三重の山城ベスト50を歩く』によると西南辺の南側の外側に帯曲輪があるとの記載があるが未確認。虎口を出て城沿いに時計回りに回って北西方向に向かうが、GPSウォッチで測定した軌跡を見るとちょうど帯曲輪の端沿いを歩いたよう。
西端まで歩いて城を背にして車道に出、桜町中将城に向かう。
【備考】--
▼ガーミン軌跡
https://connect.garmin.com/modern/activity/8400835955
▼これまでの訪城記録
http://nack1003.livedoor.blog/archives/6463470.html
▼攻城団
https://kojodan.jp/profile/11671/
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