平城京跡北の古墳巡り (3つの天皇陵含む)
- GPS
- 03:07
- 距離
- 10.7km
- 登り
- 20m
- 下り
- 21m
コースタイム
- 山行
- 2:47
- 休憩
- 0:18
- 合計
- 3:05
過去天気図(気象庁) | 2022年04月の天気図 |
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アクセス |
利用交通機関:
電車
●帰り= 新大宮 14:08 |
写真
感想
なかなか治らない足の打撲の回復のため 山に行かずにウォーキング。平城宮跡の北にある佐紀盾列古墳群 (さきたてなみこふんぐん) の主要古墳を巡る。3つの天皇陵と日葉酢媛命陵はすでに参拝済だが、その西にある磐之媛命陵とふたつの陵墓参考地を参拝したいと思っていた。
今回辿った多くの道が奈良市の有名どころをぐるりと回れるルート「歴史の道」で石標が設置されている。多くの部分、ヤマレコの地図入力で自動入力できるようになっていることを不思議に感じていたが、そのためのようだ。
暖かく ウォーキング日和。前半の行程では同じような行程を辿る年配のグループがいた。私は予定になかった道をウロウロしたりしていたが、御陵拝所や神社のいくつかでかち合った。
成務天皇陵のあたりは自然公園のように整備されている。ウォーキングをする地元住民とともに歴史探訪らしき人もいた。
仁徳天皇の皇后 磐之媛命陵は大きく、北側は森が残されて遊歩道が整備されている。航空自衛隊幹部候補生学校を挟むようにしてある小奈辺&宇和名辺の古墳も周濠が大きくて立派。古代の重要人物が眠っておられることを感じさせる。
帰りに通った法華寺の交差点。おそらくNHKの「歴史秘話ヒストリア」だったと思うが (現在は「歴史探偵」に変わった)、平城京内を南北に貫通する道のひとつである東二坊大路は海龍王寺の境内を避けて東に少しずれていたが、その名残りということで紹介していたところだ。
***
佐紀高塚古墳 (さきたかつかこふん) は奈良市山陵町 (みささぎちょう) にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「高野陵 (たかののみささぎ)」として第48代 称徳天皇 (第46代 孝謙天皇 重祚) の陵に治定されている。
佐紀石塚山古墳 (さきいしづかやまこふん) は奈良市山陵町字御陵前にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭城盾列池後陵 (さきのたたなみのいけじりのみささぎ)」として第13代 成務天皇の陵に治定されている。
佐紀陵山古墳 (さきみささぎやまこふん) は奈良市山陵町にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭木之寺間陵 (さきのてらまのみささぎ)」として第11代 垂仁天皇皇后の日葉酢媛命 (ひばすひめのみこと) の陵に治定されている。
日本書紀に、殉死のかわりに初めて埴輪を御陵に立てたという説話が記されているのが、この古墳ではないかとされている。
市庭古墳 (いちにわこふん) は奈良市佐紀町塚本・市庭にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「楊梅陵 (やまもものみささぎ)」として第51代 平城天皇の陵に治定されている。前方後円墳であるが前方部は消滅し、現在残っているのは後円部の一部のみである。
平城京の建設以前から存在したことが分かっており、平安時代の人物である平城天皇のために造られた古墳でないことは明らかで、陵墓の治定に否定的な意見が多い。現在の治定が正しいとするなら、平城天皇には新たな陵墓が造られず既存の古墳に追葬されたことになる。
ヒシアゲ古墳は奈良市佐紀町字ヒシゲにある古墳。形状は前方後円墳。全長219m。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「平城坂上陵 (ならさかのえのみささぎ)」として第16代 仁徳天皇皇后の磐之媛命 (いわのひめのみこと) の陵に治定されている。
小奈辺 (コナベ) 古墳は奈良市法華寺町にある古墳。形状は前方後円墳。全長204メートル。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「小奈辺陵墓参考地」、被葬候補者 第16代 仁徳天皇皇后 磐之媛命として陵墓参考地に治定されている。
宇和名辺 (ウワナベ) 古墳は奈良市法華寺町にある前方後円墳。全長 270-280メートルで佐紀盾列古墳群の中で最も大きい。5世紀中頃に作られたとされており、応神天皇の娘、仁徳天皇の皇后である八田皇女の陵墓参考地として治定されている。
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