ドルジェラクパ (Mt. Dorje Lakpa )
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コースタイム
8月28日 先発隊4名 カトマンズ入り
9月 4日(雨) カトマンズ発(トラック)トリスリで48名のポーター雇用⇒カリカスタン
5日(雨) カリカスタン(トラック)⇒ターレ(キャラバン開始)→ドゥンチェ
6日(晴) ドゥンチェ →バルクー →シャブル
7日(晴) シャブル→ラマホテル
8日(晴) ラマホテル→ゴラタぺラ→ランタン(4000mまで高所順応)
9日(晴) ランタン→キャンジン(4500mまで高所順応)
10日(曇) キャンシン→ランシサカルカ(ランシサリベースまで高所順応)
*後発隊(Ta、Sa、Ya)3名と、トレッキングメンバーNag、Imの2名)計5名がカトマンズ向けて日本出発
11日(一時雨)ランシサカルカ ⇨ランシサリB.C ⇨ドルジェB.C(B.C建設)
*後発隊 カトマンズ着
12日(一時雨)2名(Oo、Ao)ランシカルカヘ下る。B.C建設
13日(一時霰)B.C開き。2名(Oo、Ao)ランシサカルカよりB.Cに戻る
*後発隊 カトマンズ発 ⇨カリカスタン
14日(一時霰)日本メンバー4人、ネパールメンバー3人でB.C−C1往復
*後発隊カリカスタン(トラック)⇨ドゥンチェ
15日(一時雪)Oo、Ao、Nepal隊員(Pa、Pe)計4名 B.C−C1
Na隊長、Nepal隊員(An)計2名 B.C−C1往復
*後発隊ドゥンチェ⇨シャブル
16日(雪) C1メンバー4名、雪激しく停滞
B.Cも休養日とする(雪降作業。積雪でダイニング崩壊)
*後発隊シャブル⇨ラマホテル
17日(雪) C1メンバー4名 B.Cへ撤退開始。 B.CからNa隊長、Nepalメンバー(An、コックDo)計3名でサポート。
(B.C積雪1.5m。C1は積雪2.5mとなる。C1テントも崩壊)
C1メンバー頭上までのラッセルでB.C手前でピバーク。B.Cメンバー胸までのラッセルでB.Cに引き返す。
*後発隊ラマホテル⇨ランタン
18日(時どき雪)C1メンバー救出(Na隊長、Anでサポート)後発隊と交信
Na隊長、Oo、Nepalスタッフキッチンボーイ(Ka)の3名は後発隊をランシサカルカヘ出迎えに降りる
*後発隊ランタン⇨キャンシン⇨ランシサカルカ
19日(時雪)後発隊B.C入り(ランシサカルカ⇨ドルジェB.C)
20日(晴) 先発、後発、ネパールメンバー、仮C1ヘデポ。Na隊長、Nag、Im、3名B.C休養日
21日(晴) Nag、Imの2名、B.Cから下山。Oo、Ao、Nepal隊員(Pe、Pa)計4名でC1建設。 Na隊長、Ta、Ya、3名C1へ歩荷。 S休養。
22日(晴) C1メンバー、C2ルート工作。(5440mまで)
Ta、Ya、Nepal隊員(An)計3名で、C−C1歩荷。 Sa、Enの2名がB.C−仮C1デポ。 N隊長は休養。
23日(晴) C1メンバーC2ルート工作。(5670mまで) Na隊長、Sa、Enの3名がB.C−C1歩荷。Ta、Ya、Nepal隊員(An)3名がBC休養。
24日(晴) C1メンバー、C2ルート(5750mまで)その後、Oo、Ao、2名がB.Cへ。Pe、Pa2名がC1ヘ。
Ta、Ya、An3名C1入り。Na隊長、Sa2名がB.C−仮C1デポ。EがB.C休養。
25日(雪) Ta、Ya2名がC1−C2予定地歩荷。AnがC1−仮C1デポ品C1ヘ。Pe、Pa2名が仮C1デポ品C1へ歩荷後、B.Cへ。
Na隊長、Sa、En3名がB.C−C1入り。Oo、Ao2名がB.C休養。
26日(晴) Ta、Ya、An3名がC1−C2入り。(C2設営)Na隊長、Sa2名がC1−C2歩荷。EnはC1−コル−C1。 Oo、Ao、Pe、Pa4名がB.C休養。
(Nepal隊員Peが発病の為、休養)
27日(晴) Ta、Ya、An3名でC3ルート工作。(6030mまで) SaがC2入り。
Nepal隊員(Pe)病状悪化の為、Na隊長は急遽C1からB.Cへ。 Oo、Ao、Pa3名がC1入り。
EnがC1休養。
トレッキングメンバー(Nag、Im)の2名が、日本向けてカトマンズ出発。
28日(一時雪)Sa、Ya、An3名がC3ルート工作。(6095mまで)TがC1−C2歩荷。 Oo、Ao、En、Pa4名がC2入り。Na隊長B.C(Pe看病)
29日(一時雪)Sa、Ya2名が仮C3(6000m)建設後C2へ。Oo、Ao、2名が仮C3入り。
Ta、En2名でC1−C2歩荷。 Na隊長がPeを連れキャンジンに降す。
30日(晴) An、Pa2名がC3ルート工作。(6250mまで)Sa、Ya、Oo、Aoの4名がサポート。Ta、En2名はC2−C1。Na隊長がキャンジン−B.C。
10月1日(一時雪) Oo、Ao2名がC2−C1−C2歩荷。Ta、En2名がC1−C2。Na隊長、Nepalコック(Do)B.C−C1(DoはB.Cに戻る)Sa、Ya2名はC2休養。
2日(晴) Sa、Ya2名でC3工作。(6270m設営) Oo、Ao、An、Pa4名がC3入り
Ta、En2名は6030mまで高所順応。 Na隊長C1−C2へ。
3日(晴) 第一次アタック Oo、Ao、An、Pa4名でC3を出発、ピーク(6966m)に到達後C2まで下降。
Sa、Ta、Ya、Na隊長の4名がC2からC3入り。 EnはC2休養。
4日(晴) 第二次アタック Sa、Ta、Ya3名がC3−ピーク到達後、C3を撤収しC2まで下降。 Na隊長(高所順応が間に合わず)C3からC2へ下降。
An、Pa2名がC2からB.Cへ下降。
5日(曇) 日本メンバーC2からB.C帰幕。Nepalメンバーとキッチンスタッフ(Pa、Ha、And)3名でC1撤収→BCへ。
Pe病状悪化でキャンジンからカトマンズ向け下山。
6日(曇) 全メンバーBCにて休養。
7日(雪) BC隊荷パッキング
8日(曇のち雪)B.C徴収後→キャンジン
9日 (雨) キャンシン →ラマホテル
10日(雨) ラマホテル →シャブル
11日(雨) シャブル →ドゥンチェ
12日(晴) ドゥンチェ(トラック)⇒カトマンズ
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写真
感想
古い話だが、ヒマラヤの高峰に登ろうと、大阪府勤労者山岳連盟がプルビチャチュ遠征を行ったその年、私達雑木の会も結成10周年を記念して海外遠征をと企画始めたのが1982年、実行に移すまで3年の準備期間を費やした。
当時エベレストに登った日本人は10名にも満たない程の人数、まだまだ海外遠征など選ばれた一部の岳人世界のようだった。
当時、私達のように弱小山岳会が単一会としてあのような経験ができたのは、大阪府勤労者山岳連盟はじめ、同峰、第ニ登を果たされた豊田山岳会様による情報提供とアドバイス、又、多くの関係者の方々に、ご指導、ご鞭撻、ご支援を頂いたこと、更には所属会員皆さんの惜しまぬ後押しと支援活動、そして全隊員が社会人であったにも拘らず、全隊員の職場より長期休暇にご理解を頂いたこと、家族の理解と応援の賜物と今もなお感謝の念を禁じ得ないものであります。
そしてこのような、山行記録等を記しやすいシステムを利用させて頂ける事の有難く、これまた感謝の思いを重ねて記させて頂きます。
ランタンヒマール ドルジェラクパ峰(6966m)’85雑木の会ネパール合同登山隊(日本人隊員7名、ネパール人隊員3名)の登山活動概要
*日本隊員7名の内、先発隊4名、後発隊3名+ベースキャンプまでのトレッキング2名となる。
1985年(昭和60年)8月27日、N隊長はじめ先発隊の4名がカトマンズ向けて大阪空港を出発
翌8日から約1週間かけカトマンズ市内にてパーミッション取得はじめ、隊荷現地調達品等整え、いよいよ登山活動に向けて、9月4日カトマンズ出発、チャータートラックにて2日間、その後キャラバン7日間をかけて、9月11日、登山基地となるランシサ氷河上(4700m)にBC(ベースキャンプ)を建設した。
BCから上への登山活動は、14日から始まったものの、予想外の大雪に見舞われ、やっと設営したC15100m(第一キャンプ)も雪の押しつぶされ、隊員も帰還途中ビバーグを強いられながら乍らやっとの思いでBCまで撤退、後日C1再建等、大変な立ち上がりであった。
一方、後発隊3名+トレッキング2名も9月19日にベースキャンプ入り、ようやく全メンバーが揃ったことになる。
21日、トレッキングメンバー2名は、カトマンズ向けBCを後にする。
26日、C2(5700m)建設
29日、仮C3(6000m)建設 (疾病のNepalメンバーに、Na隊長が付き添いキャンジンへ降ろす)
10月2日、C3(6300m)建設
10月3日、第一次アタック隊4名登頂 (Na隊長C3へ戦線復帰)
10月4日、第二次アタック隊3名登頂 (Na隊長高所不順応の為C2まで下山)
10月5日、最終5名BC帰還(全隊員集結)
10月8日、BC解体撤収 下山開始
10月11日、ドゥンチェ キャラバン終了
10月12日、ドゥンチェ(トラック)⇒カトマンズ
10月16日、日本向けてカトマンズ出発
10月17日、帰国
こうやって多くの人々に支えられて、私達の初めてのヒマラヤ登山は終わったが、肝炎発症で途中戦線離脱したNepalメンバー、Peの前半の活躍と、同じく麓の村まで付き添って降りたNa隊長のリーダーシップなくして、この登山活動は成功しなかったであろうし、更に特筆すべくは、参加のEn隊員(当時大学院生)、これまで日本国内でも積雪期の登山経験が殆ど無く、遠征隊のBC、C1要員として参加したにも関わらず、ヒマラヤの高地で殺伐としがちな男たちの空気を和ませるムードメーカーとして、又、登山活動としても、予想外の積雪でC1崩壊そして立て直し等、登山活動計画の遅れを取り戻すため、予定外であったC2まで幾度かの荷揚げの上、ユマールで約6000m近くまで登攀と大活躍した彼の行動がこの遠征の成功の大きな要因となったのは言うまでもない。
冒頭掲げたように、この遠征に直接参加ではなかった多方面から様々な人々に知らず支えられていることのありがたさ、すでに30年も経ようとしている、変わらないよき仲間と、よき山に感謝。
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