砥石・米山城
- GPS
- --:--
- 距離
- 2.2km
- 登り
- 160m
- 下り
- 162m
コースタイム
天候 | 晴 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2014年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
上信越道「上田菅平IC」から国道144号を菅平方面に2km程進んだところで案内表示あり。左折して500M程で目的地 |
写真
感想
上田市街地の5kmほど北東に「砥石城」という戦国期の山城がある。天文19年(1550)9月、甲斐国主武田晴信は北信濃の豪族村上義清を攻略すべく、7000の軍勢をもってこの城を攻めるが、500名ほどの人数で守備する村上勢の逆襲に遭い、後に「砥石崩れ」と呼ばれる大敗を喫する。標高700Mほど(市街地中心部は海抜450M程度)の山城だが、東西が急峻な崖で、北側は東太郎山(1300M)から延びる尾根に続いている「天然の要害」だ。横田備中守高松率いる武田軍は南西側の急勾配をよじ登って城に近づいたが、待ち構えていた村上勢は上から大石を落とし、また雨霰のごとく弓矢を浴びせ掛けることにより、横田備中守を始め1000人を超す武田側の犠牲者が生じるに至った。
その砥石城を訪れるべく、5月24日上田へ向かった。朝8時前に到着するが、駐車場に他の車はなかった。真田氏の六文銭が描かれた幟がそこかしこに靡いており、真田幸村のイラストなども飾ってあった。真田といえば「赤備え」の甲冑がトレードマークであり、幟もイラストも全て赤なので一際派手で目立つ。再来年の大河ドラマは「真田丸」に決まったことでもあるし、また幸村フィーバーが再燃するのだろうか。登城口には「真田幸村が居た名城です」「なめんなよ」などと書かれた案内石が立っている。早速登っていくとすぐに城門のような櫓のような建造物がある。そこを過ぎると山道になるが、マツやクヌギの生い茂った整備された道だった。登り始めてすぐに尾根道との分岐に差し掛かるが、左手が米山城右手が砥石城とある。とりあえず最初に砥石へと向かうが、早速急勾配となり、地面が滑りやすい砂粒状なので気を使うがすぐに階段道となる。崖を想像していたのだが、頂上まで木が生い茂っており、思った程急峻ではなかった。間も無く砥石城の案内板がある頂上へ着くが、ここが終点ではなくまだ先の方まで道は続いている。北端の最高所に位置するのが枡形城で標高は800Mだ。中間に本城があるが、時期により、最初のピークである「砥石城」が本城の役割を担っていたようだ。砥石城は20M四方の小広場であるが、北方を除く三方の展望が開け、北アルプスや富士山なども望めるようだが、今日は南方が霞んでいて富士山は見えず。ただし雪をかぶった北アルプス(常念山脈か?)は良く見えた。砥石城から北方へは大きく切れ込んでおり、「堀切」の役割を果たしていたようであり、滑落防止のロープがここにも垂れ下がっていた。ここから枡形城にかけて数々の廓群が立ち並んでいたようだが、今はただひっそりとした背の高い松林に覆われる山道である。500名以上の兵士がここに居座って抵抗していたなどとても想像できない。本城は先程の砥石城よりも広いが展望はあまりない。北端の枡形城に着く。ここからは旧真田町方面への展望が効く。四阿山と思われる山まで見渡せた。ところで、先程から南西側の斜面を注意深く観察し続けている。横田備中率いる武田軍がよじ登ったとされる崖がこれに当たるようだが、当時と地形が変わったのか、イメージと違い緩やかな雑木林だった。なお新田次郎の小説「武田信玄」では、上部に樹木は生えていないことになっている。しかし、この静寂な谷底に千人もの戦死者が眠っていることを考えると戦慄を覚えずにいられない。いったん尾根を下降し、もうひとつの山城である米山城へ。ここには村上義清の石碑が立っており、何より先の三城より展望良く明るく開けている。
一時間ほどで散策は終了。短時間短距離のわりに奥行のある味わい深い山城であった。なお、砥石崩れの翌年、武田家家臣の真田幸隆の調略によりこの城は落ちた。それから、関ヶ原後真田昌幸、幸村父子が九度山に流されるまで、真田家が支配していた。
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