浜田城(三重県四日市市)
- GPS
- 00:10
- 距離
- 0.6km
- 登り
- 1m
- 下り
- 0m
過去天気図(気象庁) | 2023年06月の天気図 |
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アクセス |
写真
感想
【城名】浜田城跡(三重県四日市市)
【別名】ーー
【場所】三重県四日市市鵜の森1(鵜の森公園)
【形式】平城
【地目】社寺境内・公園
【立地】平地
【標高(比高)】ーm(ーm)
【規模】40x40m
【時代】文明2年(1470年)〜天正12年(1584年)
【築城】文明2年(1470年)
【城主】田原氏(浜田氏)
【遺構他】土塁、腰曲輪推定地(城址図より)、堀推定地(城址図より)、城址碑、各種案内板
【訪城日】2023年6月16日
【訪城時間】10分11秒
【備考】ーー
【概要】近鉄四日市駅南南西200mほどにある鵜森公園が城址です。付近に無料で停められそうな駐車スペースはなさそうです。
神社には浜田家の家宝であった兜と伝えられている百足退治や平将門の討伐で有名を轟かせた田原藤太秀郷ゆかりの十六間四方白星兜鉢(国指定重要文化財)が社宝として所蔵されています。
【歴史】※後記【資料】の内容と重複箇所あり
・浜田城は、室町時代の文明2年(1470年)に田原孫太郎景信の三男、田原美作守忠秀が築いたものである。その後、藤綱、元綱がこの地を領したが、安土桃山時代の天正3年(1575年)に織田信長の家臣、滝川一益に攻められ落城したと言う(「国指定重要文化財(工芸品) 十六間四方白星兜鉢」説明板より)
・落城した浜田城は、その後織田の家臣、滝川一益、織田信雄の家臣、滝川雄利が一時入城して修築したとされている。
落城寸前に息子与右衛門重綱は元綱の命で脱出して難を逃れ、その後皮肉にも織田信雄に仕え、天正12年(1584年)、秀吉が信雄と対立した美濃加賀野井城の戦いで討死し田原家は滅亡した。さらに秀吉ははまだ城に立てこもった滝川雄利を攻め浜田城は完全に落城した。
・浜田氏は、応永元年(1394年)、上野国赤堀庄から伊勢国三重郡栗原村に所領を移し、栗原の地名を赤堀と改めて赤堀城を築いた、田原孫太郎景信の後裔・赤堀三家(羽津・赤堀・浜田)の1つで、お伽草子に描かれた三上山の百足退治や平将門の討伐で有名を轟かせた俵(田原)藤太秀郷の末裔です。(冠木門建立の提要より)
・鈴鹿市山本町に浜田家の墓が残っているとのこと
【資料】各案内板より
・国指定重要文化財(工芸品) 十六間四方白星兜鉢
十六間四方白星兜鉢は田原藤太秀郷にゆかりのあるものとして奉納されたと言われている。現在は鵜森神社で社宝として保存されているが、16枚の鉄板を矧ぎ合わせて半球状にかたどり、その四方には薄い鍍銀板をかぶせた形跡が見られる。
かつて保管箱には「松平相摸守栗田右衛門尉寄進 万治2年1月吉日)と銘があり、また袱紗(ふくさ)の端には「因幡国住人馬渕源三郎」と言う縫文字もあったと言われている。
鎌倉時代の特色が強く、表されている作品である。
浜田城は、室町時代の文明2年(1470年)に田原孫太郎景信の三男、田原美作守忠秀が築いたものである。その後、藤綱、元綱がこの地を領したが、安土桃山時代の天正3年(1575年)に織田信長の家臣、滝川一益に攻められ落城したと言う
昭和56年3月31日四日市市教育委員会
・冠木門建立の提要
この冠木門は、室町時代の文明2年(1470年)この地に城を築いた浜田氏の初代・田原美作守忠秀、二代・藤綱、三代・元綱、四代・重綱と105年間にわたって、栄えた浜田城と言う中世の城館址の存在を後世に保存・継承していくため、市民有志の皆様からの浄財をひと口城主として募り、城館跡の象徴施設として建立したものです。
浜田氏は、応永元年(1394年)、上野国赤堀庄から伊勢国三重郡栗原村に所領を移し、栗原の地名を赤堀と改めて赤堀城を築いた、田原孫太郎景信の後裔・赤堀三家(羽津・赤堀・浜田)の1つで、お伽草子に描かれた三上山の百足退治や平将門の討伐で有名を轟かせた俵(田原)藤太秀郷の末裔です。
そのため当鵜森神社には浜田氏四代の霊が祀られておりますが、浜田家の家宝であった兜と伝えられている田原藤太秀郷ゆかりの十六間四方白星兜鉢(国指定重要文化財)が社宝として所蔵されています。
浜田城や赤堀三家を中心に四日市の歴史研究を行う研究会として、平成22年(2010年)に発足した綱の会におきましては、鵜森神社境内にある石碑の風化、碑文の解読と案内板の設置、数次にわたる市民公開講座の開催、歴史授業の開催など積極的な活動を行って参りましたが、6年間にわたる地道な調査研究活動によりこのほど浜田氏の末裔を発見すると言う歴史上貴重な研究成果を上げることができました。
このような記念すべき年に四日市の街の礎を築いた、領主浜田氏を顕彰するとともに、広く市民の皆様に浜田城址の存在を認識していただく冠木門の建立は、市民の手による地域文化活動からの地方創生、あるいは町おこし事業の成果として後世への貴重な贈り物になることと確信いたしております。
この冠木門が浜田城址のシンボル施設として、市民の皆様に末永く愛され、四日市の歴史を繙(ひもと)いていただく一助となりますように心から願っております。
平成28年(2016年)10月吉日 綱の会
・十六間四方白星兜鉢(じゅうろくけんしほうしろのほしかぶとばち)
甲鉢の遺物は非常に少なく、この兜鉢は『日本の美術』、『日本の甲冑』など、わが国の甲冑に関する書籍には、必ず所載される代表的な1点である。かつて日本甲冑会の権威であった。山上八郎氏は三重県が全国に誇れるものの1つだと述べられた。
そして文部省において、詳細にに研究調査の結果、重要文化財に指定された。
鵜森神社は、田原(俵)藤太秀郷をはじめ、浜田城主であった浜田家四代の霊を祀る神社でこの十六間四方白星兜鉢は、田原家に縁のあるものとして奉納されたと言われ、現在の鵜森神社で社宝として保存されている。
これはかつて万治2年(1659年)に奉納されて以来鵜森神社にあったが、同社は神主不在で盗難の恐れがあるため、寛保2年(1742年) 8月8日諏訪神社に預けられた。その後184年後の大正15年8月16日鵜森神社に金庫が設置されたのを機会に返納されるに至った。その間の明治30年に諏訪神社の生川神主宅が火災に遭い、保管箱、布などを消失して今は兜鉢のみが残っている。
・鵜森神社の沿革
天正3年(1575年) 6月6日浜田城主田原遠江守元綱は織田信長の武将滝川一益との戦いに敗れ浜田城は落城した。落城した浜田城は、その後織田の家臣、滝川一益、織田信雄の家臣、滝川雄利が一時入城して修築したとされている。
落城寸前に息子与右衛門重綱は元綱の命で脱出して難を逃れ、その後皮肉にも織田信雄に仕え、天正12年(1584年)、秀吉が信雄と対立した美濃加賀野井城の戦いで討死し田原家は滅亡した。さらに秀吉ははまだ城に立てこもった滝川雄利を攻め浜田城は完全に落城した。その後城主田原家の旧臣達(注1)がこの城跡に慶長以後万治以前(1596から1658年)の間に鵜森大明神を創立し、同家の遠祖である田原藤太秀郷及び初代浜田城主田原美作守忠秀以下四代の霊を祀ったと言われている。
(注1)忠秀の次男で堀木家の始祖となった弥兵衛秀常の孫定直が中心となって、城跡に祠を立てたのが始まりであろうと考えられている。
定直は浜田家(注2)直系の子孫で慶長年間に浜田村庄屋を務めた村の最有力者であり、浜田家滅亡後も伝来の兜を保管していたとされる人物である。
(注2)浜田城築城後は田原家から浜田家に改名した。
・浜田城跡碑文(原文)
出典は不明
『方丈記』で有名な鴨長明がこの地に立ち寄った際
「行きわびぬいざ浜村に立ち寄らん朝明過ぎれば日永なりけり」と詠んだという歌が歌集『夫木集』に記載されているとのこと
・浜田城跡碑文(現代語訳)
ペリー来航の1853年に鵜森神主の神主である源潔と言う人がまとめたもののよう
【訪城記録】自転車で訪城。
【見残し】腰曲輪址推定地、城主墓(鈴鹿市山本町)
▼ガーミン軌跡
https://connect.garmin.com/modern/activity/11354704290
▼これまでの訪城記録
http://nack1003.livedoor.blog/archives/6463470.html
▼攻城団
https://kojodan.jp/profile/11671/
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