4月11日(木)上平寺跡めざすも足の痙攣で途中下山
- GPS
- 01:17
- 距離
- 2.3km
- 登り
- 161m
- 下り
- 159m
コースタイム
- 山行
- 0:58
- 休憩
- 0:21
- 合計
- 1:19
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 自家用車
|
写真
感想
伊吹山文化資料館を後にして、京極氏の遺跡、上平寺跡を目指す。チャリで100m以上登り、足が痙攣しそうで厳しくなる。早朝、太尾山視路跡まで走り、その後もチャリの登りが多く足に来たようだ。伊吹山登山口でもあり、駐車場にチャリを止める算段だったが、予定より時間が押しているので、さらにチャリで登山口から簡易舗装路を登っていく。初めは傾斜がきついので押したが、途中から電動を最大限にして登って行った。すると奥に伊吹神社があり、その手前に伊吹山への登山道が始まる。現在は登山道崩落で伊吹山の土地所有者が入山禁止措置をとっているらしい。こちらは伊吹山に向かう予定はなく、途中にある上平寺跡まで歩くつもりだった。伊吹神社を横上に見ながら、登山コースを進む。しかし次第に傾斜がきつくなり、足が持ちそうもなくなる。ここ数か月はいろいろ多忙なことが多く、すっかり運動不足で、足が良く痙攣するような事態に。だましだまし途中まで頑張ったが上平寺城跡まではまだまだ遠く、標高差も大きいので、途中傾斜がさらにきつくなりそうなので、その壁を見てこれ以上進むのをあきらめ、引き返す。痙攣寸前の足をだましだまし動かして下り、なんとかチャリを止めた京極氏の庭園跡まで戻り、、次の目的地、関ヶ原に向かおうとしたが、大きな石や池の跡が目に入り、奥まで行ってみると、そうした庭園遺構を感じさせる大きな石や池跡が残っていた。しばらく散策して撮影し、次の関ヶ原に向かった。
参考:京極氏と上平寺城跡(近江の城巡り―滋賀の城HP=)https://shiroexpo-shiga.jp/column/no15.html より
京極氏は鎌倉時代から江戸時代の末まで続いた稀有けうな、また日本史上でも有名な一族です。この京極氏の足跡が伊吹山の南麓の上平寺じょうへいじに京極氏遺跡として残っています。
佐々木氏の分家に過ぎなかった京極氏ですが、南北朝時代の京極道誉どうよや、室町時代の京極持清もちきよのころには、本家六角氏をしのぐ力を持ちました。持清の死後、京極氏は家督争いによる内紛で衰退しますが、1505(永正2)年に京極高清たかきよが争いを収拾し、上平寺の地に居館や山城を整備しました。
高清は鎌倉時代からの本拠地であった柏原館かしわばらやかたを廃し、伊吹山の南麓に新たに京極氏館を整備しました。館の全体の規模は東西約170m、南北約250mで、この奥には巨石を用いた庭園があり、ここでは京極氏と家臣団の主従関係を確認する儀式「式三献しきさんごん」が行われました。
この居館を中心として、南西に家臣団の屋敷を、南に城下町を整備し、北には戦に備えた詰め城の上平寺城を築きました。上平寺城は、元々山寺があったところに築城され、この西側にある弥高寺やたかでらも山城として利用されました。京極氏が築城した山城には太平寺たいへいじ城や勝楽寺しょうらくじ城など、山寺を利用したものがあります。これは信仰の対象地に山城を築くことによって、自らの権威を高める目的があったものと思われます。
このように京極氏遺跡は、「庭園のある館」「家臣団の屋敷」「詰め城」がセットで良好に残る全国的にも稀まれな遺跡群であるため、2004年に国史跡に指定されました。
京極氏館や上平寺城は約20年間、北近江の政治や文化の中心でした。しかし1523(大永3)年に起きた家臣団のクーデターで落城、廃絶し、これによって京極氏は衰退、北近江は家臣の浅井氏が実権を握ることになります。そして京極氏は高次・高知兄弟に再興されるまで、歴史の表舞台から消えてしまいます。
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