記録ID: 6914755
全員に公開
ハイキング
霊仙・伊吹・藤原
歩いて辿る八風街道(永源寺→近江八幡)
2024年06月11日(火) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 07:03
- 距離
- 24.9km
- 登り
- 29m
- 下り
- 146m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2024年06月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
→近江鉄道(八日市線)八日市駅 近江鉄道バス→永源寺バス停 帰り:JR(琵琶湖線)近江八幡駅 |
写真
永源寺の由来
康安元年(一三六一年)近江の国守佐々木六角氏頼公が寂室禅師を招請して永源寺を創建されると当地には少なからぬ影響を与え、すなわち寂室の高弟越筷禅師による政所茶の栽培ならびに堀越井の開削また応仁文明の乱では小倉実澄郷の保護により横川・桃源・景徐ら京都の名僧がこの地に難をさけ、五山文学史上「文教の地、近江に移る」とさえいわしめたが戦国時代には二度も兵火にかかり往古の面影を失った。 その後寛永八年(一六三一年)別峯紹印続いて同二十年後水尾天皇の勅令による仏頂国師の入寺で法灯が再び輝いた。
康安元年(一三六一年)近江の国守佐々木六角氏頼公が寂室禅師を招請して永源寺を創建されると当地には少なからぬ影響を与え、すなわち寂室の高弟越筷禅師による政所茶の栽培ならびに堀越井の開削また応仁文明の乱では小倉実澄郷の保護により横川・桃源・景徐ら京都の名僧がこの地に難をさけ、五山文学史上「文教の地、近江に移る」とさえいわしめたが戦国時代には二度も兵火にかかり往古の面影を失った。 その後寛永八年(一六三一年)別峯紹印続いて同二十年後水尾天皇の勅令による仏頂国師の入寺で法灯が再び輝いた。
永源寺 山門
永源寺は臨済宗永源寺派の本山で、康安元年(一三六一)に、近江国守護佐々木氏頼が臨済宗の僧、寂室元光を開山として開いた。 山門は棟札などにより享和二年(一八〇二) に上梁され、棟梁は坂田郡常喜村(現長浜市常喜町)の中村出羽であったことがわかる。
山門は五間三戸二階二重門だが、下階には扉を吊らずに開放とし、上階には釈迦如来および十六羅漢像を安置された。
様式的には組物は下階は出組、上階は尾垂木付二手先でそれぞれ詰組とし、上階の軒を扇垂木とするなど複雑な技法を用い、花頭窓と共に禅宗様の特徴を備える。構造的には通例と異なり、上下階とも隅以外の柱上の大斗に束を立て、上部荷重を受けている。
この建物は、県内で遺構の少ない禅宗様を取り入れ、江戸時代後期の建築として独特な構造を用い、後世の改造も少ない。 さらに、禅宗本山寺院の山門にふさわしく、門としては最も重厚な二重門の形式をとり、五間三戸とする県内唯一の建物として貴重である。
永源寺は臨済宗永源寺派の本山で、康安元年(一三六一)に、近江国守護佐々木氏頼が臨済宗の僧、寂室元光を開山として開いた。 山門は棟札などにより享和二年(一八〇二) に上梁され、棟梁は坂田郡常喜村(現長浜市常喜町)の中村出羽であったことがわかる。
山門は五間三戸二階二重門だが、下階には扉を吊らずに開放とし、上階には釈迦如来および十六羅漢像を安置された。
様式的には組物は下階は出組、上階は尾垂木付二手先でそれぞれ詰組とし、上階の軒を扇垂木とするなど複雑な技法を用い、花頭窓と共に禅宗様の特徴を備える。構造的には通例と異なり、上下階とも隅以外の柱上の大斗に束を立て、上部荷重を受けている。
この建物は、県内で遺構の少ない禅宗様を取り入れ、江戸時代後期の建築として独特な構造を用い、後世の改造も少ない。 さらに、禅宗本山寺院の山門にふさわしく、門としては最も重厚な二重門の形式をとり、五間三戸とする県内唯一の建物として貴重である。
山上藩の陣屋跡
元禄十一年(一六九八)、譜代大名稲垣長茂の孫、稲垣重定は一万三千石の大名で、常陸国の所領が近江へ移され、以降山上は稲垣氏が領主となった。
寛政六年(一七九四)定淳の時、大津蔵屋敷から山上の当地周辺に陣屋が移され、寛政九年以降、山上陣屋の代官を中心に、藩の財政運営が行われた。
天保十一年には、稲荷大明神の社殿が陣屋内に造営された。 山上藩鎮守として祭礼を執り行い、藩領の村々と藩との一体感を創出するために造られた。
幕末の藩主は稲垣太清で、子の太祥が明治二年に藩知事となり、明治三年に安養寺の隣接地に知事住居が建設された。 山上藩は、近世を通じて藩主は江戸詰めで参勤交代がなかったため、人々は明治になって初めて身近に殿様の姿をみることになった。 明治四年の廃藩置県により山上県が設置されたが、同年廃止。 山上県陣屋の建物は払い下げられ、新しい時代が展開された。
元禄十一年(一六九八)、譜代大名稲垣長茂の孫、稲垣重定は一万三千石の大名で、常陸国の所領が近江へ移され、以降山上は稲垣氏が領主となった。
寛政六年(一七九四)定淳の時、大津蔵屋敷から山上の当地周辺に陣屋が移され、寛政九年以降、山上陣屋の代官を中心に、藩の財政運営が行われた。
天保十一年には、稲荷大明神の社殿が陣屋内に造営された。 山上藩鎮守として祭礼を執り行い、藩領の村々と藩との一体感を創出するために造られた。
幕末の藩主は稲垣太清で、子の太祥が明治二年に藩知事となり、明治三年に安養寺の隣接地に知事住居が建設された。 山上藩は、近世を通じて藩主は江戸詰めで参勤交代がなかったため、人々は明治になって初めて身近に殿様の姿をみることになった。 明治四年の廃藩置県により山上県が設置されたが、同年廃止。 山上県陣屋の建物は払い下げられ、新しい時代が展開された。
東近江大凧会館
日本一の大きさを誇る100畳敷東近江大凧の実物展示を中心に、過去に揚げられた大凧のミニチュア、歴史的過程などを東近江大凧のすべてを紹介している。 図柄豊かな東近江大凧を紹介。
北海道から沖縄まで、各地の特色ある凧を約500点常設展示している。 日本の凧は絵柄や形、そして大きさなど変化に富んでいる。 また、凧には地域性や時代、また製作者が凧に込めた思いなど表されている。
日本の凧の世界を紹介。
日本一の大きさを誇る100畳敷東近江大凧の実物展示を中心に、過去に揚げられた大凧のミニチュア、歴史的過程などを東近江大凧のすべてを紹介している。 図柄豊かな東近江大凧を紹介。
北海道から沖縄まで、各地の特色ある凧を約500点常設展示している。 日本の凧は絵柄や形、そして大きさなど変化に富んでいる。 また、凧には地域性や時代、また製作者が凧に込めた思いなど表されている。
日本の凧の世界を紹介。
「九之里氏館跡」と「常夜燈跡」
九之里氏
この付近一帯を九里村と称していましたが、明治初年の廃藩置県により金剛寺村と改称した。
「九里」という名称は古く(鎌倉時代)から当地に住んでいた豪族の九里氏より付けられたと言われている。
九里氏は藤原氏の流れと伝えられ、享徳二年(一四五二年)東大寺文書の記録では伊庭氏の又代官九里治任の名が残っている。
明応七年(一四九八年) 金剛寺居館の佐々木六角の臣、九之里三郎右衛門高雄が伊賀守形部少輔と名乗り、岡山村牧の岡に移村されましたが、当地の 館はそのまま所領となった。
大永三年(一五二三年)牧の岡城にいた伊庭・九里の両氏は佐々木氏に反抗、同年十二月二十日佐々木氏の居城である観音寺城に進まんとしましたが城兵が黒橋に出て防ぎ、両軍血戦の結果伊庭氏・九里氏(九里三重郎) は戦死。九里館は消滅しましたが地名として九里村が残った。
常夜燈
現在地には伊勢参拝の要所として江戸時代(天保十一年)常夜燈「角屋前」と称した燈籠が建てられましたが、近年の交通事情により金剛寺町児童公園に移築された。
九之里氏
この付近一帯を九里村と称していましたが、明治初年の廃藩置県により金剛寺村と改称した。
「九里」という名称は古く(鎌倉時代)から当地に住んでいた豪族の九里氏より付けられたと言われている。
九里氏は藤原氏の流れと伝えられ、享徳二年(一四五二年)東大寺文書の記録では伊庭氏の又代官九里治任の名が残っている。
明応七年(一四九八年) 金剛寺居館の佐々木六角の臣、九之里三郎右衛門高雄が伊賀守形部少輔と名乗り、岡山村牧の岡に移村されましたが、当地の 館はそのまま所領となった。
大永三年(一五二三年)牧の岡城にいた伊庭・九里の両氏は佐々木氏に反抗、同年十二月二十日佐々木氏の居城である観音寺城に進まんとしましたが城兵が黒橋に出て防ぎ、両軍血戦の結果伊庭氏・九里氏(九里三重郎) は戦死。九里館は消滅しましたが地名として九里村が残った。
常夜燈
現在地には伊勢参拝の要所として江戸時代(天保十一年)常夜燈「角屋前」と称した燈籠が建てられましたが、近年の交通事情により金剛寺町児童公園に移築された。
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