2024年09月14日生駒越えから大東市・八尾市の遺跡と資料館巡り


- GPS
- --:--
- 距離
- 22.0km
- 登り
- 37m
- 下り
- 166m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2024年09月の天気図 |
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アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
|
写真
感想
今回、なぜ生駒山越えをして大阪側、大東市、八尾市の遺跡と資料館を巡ろうと考えたかというと、7月に大阪弥生文化博物館の「土器研究の可能性」展、同関連講演会などから、生駒山西麓産土器の重要性を理解するようになり、そのため、一度生駒山を超えて西麓を走って地形などを確認してみようと考えたことによる。
しかしながら運動不足、久しぶりの山歩きで早朝生駒山を超えて日下コース入口まで下り、急な下りと暑さでかなりへばった。初めの予定より30分以上早く5時前に出発したにもかかわらず、ひざの問題から下りで時間がかかり、結局30分以上遅れて当初の9時過ぎに東石切公園に出る。若いころのようにはいかない。予約したシェアサイクルで出発、最初に日下貝塚に向かう。貝塚の木柱碑を見つけ損ね、解説版のある場所を見つける。あまり多くの貝塚が見つかっていない大坂湾エリアでは貴重な存在で国史跡となっているが、史跡整備はなく草ボーボーの藪となっている。次に予定では堂山古墳群を見学するつもりだったが、すでに時間が厳しく、古墳に至る階段や坂を上る体力が失われている。今回はあきらめて直接大東市歴史民俗資料館に向かう。途中、一度方向を間違えて道迷い。なんとかたどり着く。
当初は生駒山越えでなく、住道駅からチャリで走る予定だった。その時は古堤街道道標や江戸時代の平野屋新田会所跡、野崎まいり関連の地などを巡り、大東市、八尾市の資料館や古墳を巡るつもりだったが、生駒山越えルートに変えたので、古堤街道以下は断念、とりあえず大東市歴史民俗資料館を見学する。ここは以前一度見学したことがあるように思えた。
今回は常設展示ではあるが、最近の発掘成果を展示、北新町遺跡の主として土器と宮谷古墳群の埴輪が展示されていた。北新町遺跡ではやはり韓式系土器などが出土している。この土器などをスケッチし、次の常設展示室2を見学、大東市の旧石器時代から近世までの歴史の推移、出土品の展示がある。特に大阪湾、河内湖、河内平野の地形の変遷、出土土器などの変遷を展示、また中世・戦国時代の飯盛城跡は国指定史跡となっていることから、市としては大々的にこの遺跡をPRし、様々な行事・イベントを実施しているようだ。また近くの野崎には「野崎まいり公園」など江戸時代に大きな話題となった野崎まいりにまつわる場所があり、野崎まいりに関する展示図録があったので購入した。
野崎まいりは若いころ、古い歌謡を聞いていた時に東海林太郎(しょうじたろう)さんの歌う野崎小唄の「のざきまいりは屋形船でまいろ〜」を思い出した。
大東市歴史民俗資料館を見学し、10時半過ぎ八尾市に向かう。疲れたので途中びっくりドンキーで昼食休憩。このあたりでは11時前に開いている飲食店は少ない。とりあえず目玉焼き付きハンバーグ+味噌汁とアイスコーヒーを注文、冷房に体を当てて身体を休め、また発熱して動きの鈍ったスマホを少しでも冷やす。12時前に再びチャリで八尾市に向かう。何度か道を誤り、結局恩智川に近い170号線を進んで心合山寺古墳を通過し、資料館に出る。
八尾市はこれまで歴史民俗資料館のほかに埋蔵文化財センターがあり、八尾市文化財調査会が久宝寺遺跡をはじめ、様々な発掘調査を行ってきたが、文化財を巡る環境が激変し、この春解散した。埋蔵文化財センターには展示施設もあったがなくなり、埋蔵文化財行政は大きく変化したようだ。
「八尾を掘る」展は最近の郡川遺跡および久宝寺遺跡の発掘調査における出土品の展示。郡川遺跡は八尾市郡川一丁目〜服部川一丁目にかけて広がる遺跡で令和元年から土地区画整理事業に伴う発掘調査をこの春解散した八尾市文化財調査研究会が発掘調査したもの。縄文時代から近世までの遺構や遺物が出土したが、特に弥生時代中期から後期にかけての居住域・墓域、古墳時代の郡川西塚古墳(史跡)の周溝の検出などのこの地域の弥生時代の居住域の理解の上で重要な成果があった。
久宝寺遺跡では古代の石製帯飾りや銭貨、完形の古代の土師器、寺と読める墨書土器などが出土した。
特に郡川遺跡の弥生中期〜後期の土師器及び古墳時代前期の土器では、生駒山西麓産とみられるチョコ色の土器が多く見られた。
「八尾を掘る」展を見学し、13時半から関連講演会「古代久宝寺遺跡に迫る」を聴講、「八尾を掘る」展では古代の久宝寺遺跡出土品を展示している。講演は3月まで八尾市文化財調査研究会におられ、解散後八尾市文化財課に異動された坪田真一氏。
久宝寺遺跡(八尾市観光データベース)遺跡の広がりは東大阪市大蓮から八尾市神武町に及ぶ。現地表下0.6mから4.1mまでの間に、弥生時代の方形周溝墓群など弥生時代から近世にかけての多数の遺構、遺物が検出されており、特に久宝寺遺跡の南地区で三世紀末から四世紀初めの船材が出土したのが有名である。 【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室・八尾市郷土文化研究会、1998年)より抜粋】
長瀬川の西岸にかかる久宝寺一帯は古代より水陸交通の要衝として発展してきた土地で、弥生・古墳時代の大規模な集落遺跡として知られている。近畿自動車道の発掘調査では古墳時代の準構造船や韓式系土器が出土しており、古代の運搬や交易の様子が明らかにされている。久宝寺小学校体育館敷地では、平成三年に発掘調査が実施され、竪穴式住居二棟をはじめ多くの溝や小穴が検出されたことから、弥生時代末〜古墳時代初頭の集落の一角であることが判明した。【出典:『史跡の道・説明石板)
これまで大阪府や八尾市により99件もの発掘調査が行われてきた巨大遺跡で、昭和の最初の調査で準構造船が出土して全国的に有名になった。特に弥生時代から古墳時代にかけての様々な遺構や出土品が出ているが、今回の講演はこれまでの久宝寺遺跡の発掘調査の歴史を振り返りつつ、第84次調査における古代の久宝寺遺跡について話をされた。久宝寺遺跡は昭和10年に発見され、昭和60年の八尾を掘る」展を見学し、13時半から関連講演会「古代久宝寺遺跡に迫る」を聴講、「八尾を掘る」展では古代の久宝寺遺跡出土品を展示している。講演は3月まで八尾市文化財調査研究会におられ、解散後八尾市文化財課に異動された坪田真一氏。
久宝寺遺跡(八尾市観光データベース)遺跡の広がりは東大阪市大蓮から八尾市神武町に及ぶ。現地表下0.6mから4.1mまでの間に、弥生時代の方形周溝墓群など弥生時代から近世にかけての多数の遺構、遺物が検出されており、特に久宝寺遺跡の南地区で三世紀末から四世紀初めの船材が出土したのが有名である。 【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室・八尾市郷土文化研究会、1998年)より抜粋】
長瀬川の西岸にかかる久宝寺一帯は古代より水陸交通の要衝として発展してきた土地で、弥生・古墳時代の大規模な集落遺跡として知られている。近畿自動車道の発掘調査では古墳時代の準構造船や韓式系土器が出土しており、古代の運搬や交易の様子が明らかにされている。久宝寺小学校体育館敷地では、平成三年に発掘調査が実施され、竪穴式住居二棟をはじめ多くの溝や小穴が検出されたことから、弥生時代末〜古墳時代初頭の集落の一角であることが判明した。【出典:『史跡の道・説明石板)
これまで大阪府や八尾市により99件もの発掘調査が行われてきた巨大遺跡で、昭和の最初の調査で準構造船が出土して全国的に有名になった。特に弥生時代から古墳時代にかけての様々な遺構や出土品が出ているが、今回の講演はこれまでの久宝寺遺跡の発掘調査の歴史を振り返りつつ、第84次調査における古代の久宝寺遺跡について話をされた。久宝寺遺跡は昭和10年に発見され、昭和60年(1985)以降の(JR龍華地区操車場の再開発事業に伴う発掘調査)でも多くの遺物遺構の出土で知られる。1985年の龍華地区で出土した土器に関しては、今年初めに大阪文化財センターに申請して土器を実見したことがある。
久宝寺遺跡南地区出土準構造船、加美地区出土陶質土器壺(朝鮮半島に起源をもつ土器=須恵器のもと)、環形付木製品の「払子」「塵尾=しゅび)」、韓式系土器(台脚付短頸壺)、久宝寺1号墳、1996年の大阪府調査による合掌型堰の出土(古墳時代中期)など、多くの調査から朝鮮半島とかかわりの深い遺物や以降が出ている。これらの調査の歴史を説明した後、令和以降の調査、94次調査における古代の移行、出土品を解説した。井戸や掘立柱建物、帯につける石帯、銭貨、土師器坏、黒色土器椀、灰釉陶器皿、「寺」の墨書土器など役所や寺院にかかわる遺構、遺物が出土し、久宝寺遺跡の重要性と広がりがさらに深く認識されつつあるようだ。展示会場におられた坪田氏に少しお話を伺い、館を後にしてチャリで近鉄八尾駅まで走り、チャリをポートに返却し、帰宅の途に就いた。
参考 野崎まいりとは(野崎観音慈眼寺のHPより)
「のざきまいりは屋形船でまいろ〜」は東海林太郎(しょうじたろう)さんの歌う野崎小唄の歌い出しです。
のざきまいりとは、五月一日〜八日までの無縁経の御開帳に本尊十一面観音にお参りする行事です。
現在でも、駅からの参道の両側には200軒以上の露店が並び、30万人以上の人出があります。
『のざきまいり』のはじまり
元禄時代、曹洞宗になってから五代目の大真慈門和尚が寺門興隆を願い参詣誘致に努め、それまで秘仏であったご本尊の特別開帳をおこなったことがはじまりです。
当時の大坂の商人層から篤く信仰を受け、大変な賑わいをみせました。
古典芸能の舞台として
当時、大阪の行楽地として人々の親しまれたことから古典芸能にも多く登場します。近松門左衛門の「曽根崎心中」や「心中天網島」などと共に「女殺し油地獄」や近松半二の「新版歌祭文」で描かれたお染久松の心中物語では久松の実家が野崎にあり、お染が野崎観音へお参りに来る様子が描かれています。
元禄時代の当時は恋愛も、生まれや身分で勝手にすることは出来ない社会であり、男女が出会い愛し合いながらも結ばれることはできず、共に命を捨てて心を共にする心中物語が人気となり多くの話が作られています。
また、上方落語『野崎まいり』では、桂春団治をはじめ古典落語の演目として多く導入部分に関西三まいりとして、京都祇園の『おけらまいり』と讃岐の『こんぴらまいり』そして大阪の『野崎まいり』と紹介されます。
当時の賑わいは今以上であったことと思われます。
道中の参拝者同士の口喧嘩に勝つと良いことがある運定めと言われ、船に乗る人と土手を歩く人との掛け合いが河内弁で面白おかしく描かれています。
屋形船の風景
屋形船は大阪城の北にある八軒屋浜から寝屋川を遡り徳庵から住道を経由して、現在の野崎駅の南の観音浜まで運行されていました。江戸時代はじめまで、深野池と呼ばれる大きな池が大阪と野崎の間にありました。
1740年に大和川の付け替え工事が行われ深野池は干拓され新田開発が盛んになり、それまでの池が陸地となり、その中を水路が通り船や徒歩で少ない時間で往来が出来るようになりました。
天満橋の八軒家浜から約17kmという近すぎず遠すぎず、日帰り行楽地としては絶好の距離となり、新しく干拓された陸地の中の水路を大小の船、または土手を歩いてお参りする道中は目新しく楽しかったことでしょう。
明治28年に片町線が開通してからだんだんと川は人の生活から離れたものとなり、昭和の初期にはほぼ船は無くなったそうです。
残念ながら現在では屋形船をはじめ、『野崎小唄』の風景はなくなってしまいました。
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