記録ID: 7379821
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ハイキング
近畿
熊野街道(熊野古道)を行く 3(仁徳天皇陵〜貝塚市・石才駅)
2024年10月19日(土) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 07:56
- 距離
- 23.2km
- 登り
- 29m
- 下り
- 8m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 7:57
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 7:57
距離 23.2km
登り 29m
下り 8m
9:00
477分
スタート地点
16:57
ゴール地点
天候 | 晴れ|雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
ユース前に小泉純一郎総理とロシアのプーチン大統領署名の「日ロ友好記念碑」があった
日露戦争当時この地に収容したロシア兵捕虜を丁重に扱ったことでの友好記念だそうだ
今のロシアにそんな余裕があれば良いのだが
日露戦争当時この地に収容したロシア兵捕虜を丁重に扱ったことでの友好記念だそうだ
今のロシアにそんな余裕があれば良いのだが
本殿は大鳥造と言い、切妻造の妻入りで出雲大社に次ぐ古い形式
*切妻屋根において、軒先側にあたる平側に入り口を設置するものを「平入り」、横から見て屋根が八の字のように見える面(妻側)に入り口を設置するものを「妻入り」
*切妻屋根において、軒先側にあたる平側に入り口を設置するものを「平入り」、横から見て屋根が八の字のように見える面(妻側)に入り口を設置するものを「妻入り」
「泉井上神社は 「和泉」の地名の発祥となつたと伝えられる「和泉清水」を祭る神社である
五社総社は 奈良時代に河内国から分離し和泉国が設置された際 国府の所在地府中に
国内の五大社である大鳥・穴師・聖・積川・日根を総合して勧請し参詣の便を図つたといわれている
現在の本殿は 慶長10年(1605)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したと伝えられるもので
国の重要文化財に指定されている」(解説版)
五社総社は 奈良時代に河内国から分離し和泉国が設置された際 国府の所在地府中に
国内の五大社である大鳥・穴師・聖・積川・日根を総合して勧請し参詣の便を図つたといわれている
現在の本殿は 慶長10年(1605)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したと伝えられるもので
国の重要文化財に指定されている」(解説版)
積川神社(つがわ)の鳥居(積川神社遥拝所)
神社は5キロも東にあるが、遠方の氏子が積川神社に参拝できるよう遥拝所が設けられた。
熊野古道沿いにあるため、熊野参詣をする皇族・公家が勅願社である積川神社を遥拝する(額づく)場所にもなった。また、白河上皇が扁額を書かれたこの「額」と「額づく」から地名が「額」になったという。
神社は5キロも東にあるが、遠方の氏子が積川神社に参拝できるよう遥拝所が設けられた。
熊野古道沿いにあるため、熊野参詣をする皇族・公家が勅願社である積川神社を遥拝する(額づく)場所にもなった。また、白河上皇が扁額を書かれたこの「額」と「額づく」から地名が「額」になったという。
感想
熊野街道は鎌倉時代以降、秀吉時代以降から近代に至るまで戦災や開発などで、街並みや川筋、川を渡る場所、丘陵などの自然地形も著しく変化しており、平安・鎌倉時代のルートは失われてしまって再現は困難と思われる。
参考にしている大阪府発行のウオーキングマップもルートから外れたところに王子跡がある。江戸時代に拓かれた五街道より以前の道を探して歩くのは難しいが、見所は沢山ある街道でもありそれなりに楽しい今日この頃でもあります。
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