241103の(2) 常陸太田城周遊 関東7名城登城


- GPS
- 01:35
- 距離
- 4.8km
- 登り
- 24m
- 下り
- 24m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
7台 |
その他周辺情報 | ラーメン山岡家日立東店 湯楽の里日立店 |
写真
感想
関東七名城(かんとうしちめいじょう)は日本の関東地方にあった城のうち、以下の7つを指したものである。誰が最初に言い出したのかはわかりませんが・・・。また、7つ目が2か所候補があるのがなぜかもわかりませんが・・・。
・川越城(河越城)(埼玉県川越市)
・忍城(埼玉県行田市)
・前橋城(厩橋城)(群馬県前橋市)
・金山城(群馬県太田市)
・唐沢山城(栃木県佐野市)
・宇都宮城(栃木県宇都宮市)
・多気城(茨城県つくば市)あるいは太田城(茨城県常陸太田市)
上から6つはもうすでに行ったことがあり、レコにもなっている。多気城はなかなか城趾が見つけにくくなっているということで、今回は太田城に行くことにした。
なお、スタートする常陸太田駅には自宅からの赤線が到達しているので、赤線伸ばしになる。瓜連から常陸太田、大甕駅に続き、その後北上した赤線は、福島県いわき市勿来駅まで伸びている。
12時台にスタート。まだ昼食はとっていない。常陸太田市街地を歩きながら、いい店があれば昼食もとるつもりである。常陸太田駅から北を見渡すと、左から低地、高地、低地となっており、高地部分が太田城の縄張りとなっている。左側の低地を歩き、城跡近くで高地に登ることとした。
ここに城が築かれたのは天仁2年(1109年)とされている。藤原通延が、下野国からここに入り、築城したのが始まりであるという。
その後、新羅三郎義光の孫・源昌義が、後三年の役の功により領有することになった地名をとって「佐竹氏」を称した。二代佐竹隆義は当時の太田城主藤原通盛を服属させたのち、通盛を小野台地に移して「小野崎氏」を名乗らせ、自らが太田城に入った。入城の日、太田城の上空を鶴が舞いながら飛んだので「舞鶴城」と名づけたと伝わる。
以降、佐竹氏代々の居城であったが、戦国最末期の当主佐竹義宣が水戸城に本拠を移した。その後、江戸幕府(徳川家康)の一国一城令により廃城となったが、城の機能は一部残され「太田御殿」と呼ばれ、水戸藩の附家老の中山氏が管理することとなった。
なお、水戸城に本拠を移した佐竹家であるが、関ヶ原の戦いの際に、西軍にも東軍にもつかなかったことを家康に問われ、秋田久保田城に改易された。そのまま、秋田藩佐竹家として明治維新を迎えている。
かつて、ここにお城があったことを証明するのは、太田小学校の敷地内校門付近に「舞鶴城址」と書かれた石碑が残っていることのみである。その石碑を校門外から撮影して一応「登城」とした。
そして、その後旧市街地と思われる高地を歩きながら駅に戻ってきた。その中で、歴史的な街並みや郷土資料館、ずっと続いている醤油屋さんなどを訪れた。特に、旧大田町役場ほかさまざまな建物の建築や修繕に多大な寄付をした梅津福次郎関係の展示は興味をそそられた。
車を回収した私は、連休最終日にどこに行くか検討した。本日行くことができなかった雨引山にするか、それとも・・・。雨引山だったらいざとなったら休日おでかけパス+αで行くこともできる。こういう場面でなければ来ることができないターゲットを見つけて、さらに日立市、高萩市と北上した。
ラーメンを食べ、お湯につかったあと、北茨城市のPAで車中泊、日本シリーズ等を大いに楽しんだ。あれほどパ・リーグで強かったソフトバンクが4連敗なんて、ありえないような結末に涙した。
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