記録ID: 7707536
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ハイキング
東海
家康ゆかりの地巡り
2025年01月18日(土) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 02:27
- 距離
- 11.1km
- 登り
- 36m
- 下り
- 45m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 2:17
- 休憩
- 0:11
- 合計
- 2:28
距離 11.1km
登り 36m
下り 45m
過去天気図(気象庁) | 2025年01月の天気図 |
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アクセス |
写真
城外に出るとカラフルなマンホールが
関ヶ原町のマンホール
岡崎市によると関ケ原町と昭和58年に「ゆかりのまち」提携を結び関ケ原町の特産物が販売されるなど両市間で交流が行われてるそうです
関ヶ原町のマンホール
岡崎市によると関ケ原町と昭和58年に「ゆかりのまち」提携を結び関ケ原町の特産物が販売されるなど両市間で交流が行われてるそうです
もう一つカラフルなマンホール発見
岡崎市によると広島県福山市と岡崎市は
親善都市との事
経緯は以下
①市制施行日が同じ
②面積・人口がほぼ等しい
③徳川家康公と福山城主水野勝成公が従兄弟
.etc
岡崎市によると広島県福山市と岡崎市は
親善都市との事
経緯は以下
①市制施行日が同じ
②面積・人口がほぼ等しい
③徳川家康公と福山城主水野勝成公が従兄弟
.etc
伊賀八幡宮大鳥居から参道に入ります
伊賀八幡宮は1470年、松平四代親忠が、松平家(徳川将軍家の祖)の氏神として、家運長久、子孫繁栄を祈願するため、三重県の伊賀からこの地へ社を移したと伝えられています
家康公は戦の前に戦勝祈願した神社で
岡崎随一のパワースポット
伊賀八幡宮は1470年、松平四代親忠が、松平家(徳川将軍家の祖)の氏神として、家運長久、子孫繁栄を祈願するため、三重県の伊賀からこの地へ社を移したと伝えられています
家康公は戦の前に戦勝祈願した神社で
岡崎随一のパワースポット
La Maison du R(ラメゾンデュアール)
東海オンエア(YouTubeバー)のメンバーりょうのパティスリー店と言う事もあり
若いお客さんで賑わってます
今日も店に入りきれない人たちが
10組ほど並んでいました
東海オンエア(YouTubeバー)のメンバーりょうのパティスリー店と言う事もあり
若いお客さんで賑わってます
今日も店に入りきれない人たちが
10組ほど並んでいました
德川家、菩提所
成道山大樹寺
永禄3年(1560)、松平元康(のちの徳川家康)が桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である大樹寺へと逃げ隠れ、前途を悲観し先祖の墓前で自害を試みましたが、その際に 13代住職
の登誉上人が「厭離穢土 欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われています。
成道山大樹寺
永禄3年(1560)、松平元康(のちの徳川家康)が桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である大樹寺へと逃げ隠れ、前途を悲観し先祖の墓前で自害を試みましたが、その際に 13代住職
の登誉上人が「厭離穢土 欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われています。
ここから岡崎城の天守閣が見えビスタラインと呼ばれてます
「ビスタ」は「眺望・展望」を意味し、大樹寺と岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」と呼んでいます。
これは徳川三代将軍家光公が、家康公の十七回忌を機に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、徳川家の祖先、松平家の菩提寺である大街寺の本堂から山門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城を望むように伽藍を整備したことに由来しています。
「ビスタ」は「眺望・展望」を意味し、大樹寺と岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」と呼んでいます。
これは徳川三代将軍家光公が、家康公の十七回忌を機に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、徳川家の祖先、松平家の菩提寺である大街寺の本堂から山門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城を望むように伽藍を整備したことに由来しています。
桜城橋
「さくらしろばし」と読めますが正式には
「さくらのしろはし」と読みます。 ひらがな表記に濁点を付けない橋名は日本各地に存在しているようで、「川が濁らないように」という願いが込められているとか…
「さくらしろばし」と読めますが正式には
「さくらのしろはし」と読みます。 ひらがな表記に濁点を付けない橋名は日本各地に存在しているようで、「川が濁らないように」という願いが込められているとか…
おまけ:家康公の騎馬像
(START地点からも見える東岡崎駅のシンボル)
厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)
とは、煩悩に覆れたこの世をい離れ、極楽浄土を望んで心から願い求めることです。平安中期の高僧源信(恵心僧都)が著した「往生要集」の中の言葉
永禄3年(1560)、松平元康(のちの徳川家康)が桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である大樹寺へと逃げ隠れ、前途を悲観し先祖の墓前で自害を試みましたが、その際に 13代住職
の登誉上人が「厭離穢土 欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われています。
家康公は以後戦国の世を穢土とし、平和な世を浄土として「厭離穢土 欣求浄土」を旗印に幾多の多の艱難辛苦を乗り越え戦国時代を平定、世界的にも類をみない 265 年もの長きにわたる天下泰平の世の礎を築きました。
家康公像は、徳川家康と改姓した 25歳当時の姿です。顔の表情は京都知恩院や豊田市隣松寺にある木像を、鎧兜は山形県鶴岡市の酒井家に保管されているものを参考に制作されました。
(START地点からも見える東岡崎駅のシンボル)
厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)
とは、煩悩に覆れたこの世をい離れ、極楽浄土を望んで心から願い求めることです。平安中期の高僧源信(恵心僧都)が著した「往生要集」の中の言葉
永禄3年(1560)、松平元康(のちの徳川家康)が桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である大樹寺へと逃げ隠れ、前途を悲観し先祖の墓前で自害を試みましたが、その際に 13代住職
の登誉上人が「厭離穢土 欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われています。
家康公は以後戦国の世を穢土とし、平和な世を浄土として「厭離穢土 欣求浄土」を旗印に幾多の多の艱難辛苦を乗り越え戦国時代を平定、世界的にも類をみない 265 年もの長きにわたる天下泰平の世の礎を築きました。
家康公像は、徳川家康と改姓した 25歳当時の姿です。顔の表情は京都知恩院や豊田市隣松寺にある木像を、鎧兜は山形県鶴岡市の酒井家に保管されているものを参考に制作されました。
撮影機器:
感想
今週はバディが体調不良のため
地元の岡崎市を観光しながらランニング
桜やふじの花が咲く3月~5月にたまにランニングするコースをヤマレコアプリを平地で使ってみました。
夏は猛暑、冬は偏西風が吹き荒れる極寒の岡崎市
今日は穏やかでとても走りやすかった。
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