宇陀城山へ。


- GPS
- 02:45
- 距離
- 4.1km
- 登り
- 211m
- 下り
- 214m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2025年02月の天気図 |
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アクセス |
写真
享保14年、森野賽郭翁により開かれた森野薬園は、民間の薬草園としては日本最古のもので、大正15年に国の史跡に指定されている。園内には約250種類の薬草が栽培されており、今も建築当時の面影を残している。
かつて松山町が「宇陀千軒」と呼ばれるほどの賑わいを見せていたことから、現代の「宇陀千軒」を実現したいとの気持ちを込めて「千軒舎」と名づけられたそうです。
感想
以前から気になっていた宇陀の街並み。
伊那佐山登った時に訪ねた澤城。
高山右近が幼少期を過ごした澤城を
調べて興味が出てきた宇陀松山城。
やっと訪ねることが出来ましたが
やはり下調べ不足で、時間も足りなかった。
もっと宇陀のことを調べてから、
ゆっくり時間かけて巡りたいですね。
宇陀市松山地区観光案内ホームページより
大宇陀・松山地区について
2006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された宇陀松山地区は、かつての大宇陀町である奈良県宇陀市の南西部に位置している、長い歴史を持った町です。
周囲を吉野山地、竜門山地、大和高原などの山々に囲まれた辺境の地ではありましたが、京都や奈良と伊勢をつなぐ交通の要衝だったことから、古くから中央の影響を受けながら発達してきました。
日本の歴史に宇陀が登場するのはかなり早く、飛鳥時代まで遡ることになります。宇陀地域の山々は鳥獣が豊富だったために絶好の狩猟場として見いだされ、「阿騎野」という呼び名で日本書紀に登場しています。
また柿本人麻呂が軽皇子(文武天皇)の狩猟の情景を詠んだ歌も阿騎野でのことと知られています。
交通の要衝となっていた宇陀地域が、町として形を成し始めるのは戦国時代、秋山庄の荘官から国人領主に成長した秋山氏が城を築き、その城下町として山腹に栄えたのが現在の松山の起源であると言われています。 その後、秋山氏は豊臣氏に追放され、秋山城には秀吉の弟、秀長の家臣が入り、この頃に城の大規模改修と城下町の拡大整備が行われ、現在の骨格が整えられました。この時に阿貴町から松山町に名前が変えられたと考えられています。 元和元年に城は壊されましたが、宇陀松山藩となってからは長山に藩屋敷を置き、織田信長の次男信雄(のぶかつ)が初代藩主となり4代にわたって松山藩を治めました。
やがて近代になると郡役所や裁判所ができ、政治の中心地として栄えたほか、県内初の乗り合いバスが走り、十数件の料理旅館がひしめいた時期があり、昭和の半ばまでその賑わいは続きました。それが宇陀松山の町並みです。
一時期に一気に繁栄した訳ではなく、色んな時代の影響を受けながら積み上がってきたために、家毎にそれぞれ異なる時代の特徴を持ち、町並みを眺め歩くだけでも町家の向こうの「時代」を垣間見ることが出来ます。
ただの古い町並みではない「日本の家屋建築の博物館」と言えるのが、この宇陀松山なのです。
コメント
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宇陀の松山城はいいからおすすめですよ、と古道歩きで知り合った方に聞いて行きたいなと思ってました
よい感じですね😊
おはようございます♪
以前から気になっていた場所🏯🏔️
やっと行く事が出来ましたよ〜
今度は青空の日に、西山岳とセットで歩いてみたいですね🤗
私も道の駅宇陀で休憩する時にいつも気になっていながら調査不足で素通りしていました。
バラさんのレコで魅力が判りましたので調査バッチリでまた行かせてもらいます
おはようございます♪
飛鳥時代からの歴史もあり、南北朝時代から戦国時代までの歴史に触れ合える街並み。
城跡から見渡した景色は、青空の時にもう一度眺めたいと思いますね♪
少し歴史を調べてから、歩くことをオススメしますよ😊👍
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