勝間田城跡駐車場に車を停めます、トイレは男女別ではなく男用1つと和式が1つあり綺麗に保たれています。
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勝間田城跡駐車場に車を停めます、トイレは男女別ではなく男用1つと和式が1つあり綺麗に保たれています。
トイレの建物壁の説明版の下にポストがあり中に案内パンフレットが入っています、登城前に忘れずに貰っていきましょう。
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トイレの建物壁の説明版の下にポストがあり中に案内パンフレットが入っています、登城前に忘れずに貰っていきましょう。
車道を歩き始めるとすぐの所の道脇にボケの花が咲いていました。
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車道を歩き始めるとすぐの所の道脇にボケの花が咲いていました。
車道歩き10分ちょっとで右側に小さな茶畑になっている出曲輪跡が現れ城域に入ります、正面には三の曲輪の土壁とその下の一重の土塁が見えてきます。
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車道歩き10分ちょっとで右側に小さな茶畑になっている出曲輪跡が現れ城域に入ります、正面には三の曲輪の土壁とその下の一重の土塁が見えてきます。
まずは三の曲輪に入ります、次の二の曲輪の土塁と虎口が見えていますがまずは三の曲輪をぐるっと一回りします。
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まずは三の曲輪に入ります、次の二の曲輪の土塁と虎口が見えていますがまずは三の曲輪をぐるっと一回りします。
三の曲輪の全景です、イノシシが地面を掘り返した跡がそこかしこに有ります、まずは奥に見える土塁の上に登ってみます。
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三の曲輪の全景です、イノシシが地面を掘り返した跡がそこかしこに有ります、まずは奥に見える土塁の上に登ってみます。
下を見下ろすと登ってきた道と茶畑になっている出曲輪(的場)跡が見えます、ずっと奥には富士山静岡空港の管制塔が見えています。
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下を見下ろすと登ってきた道と茶畑になっている出曲輪(的場)跡が見えます、ずっと奥には富士山静岡空港の管制塔が見えています。
振り返ると一段上の二の曲輪の土塁と奥の東尾根曲輪が見えます、本曲輪は東尾根曲輪の右の木々の中にあります、城を築いた勝間田氏が応仁の乱以降に今川氏に滅ぼされ廃城となった中世の山城としてはなかなか壮大な姿を見せてくれます。
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振り返ると一段上の二の曲輪の土塁と奥の東尾根曲輪が見えます、本曲輪は東尾根曲輪の右の木々の中にあります、城を築いた勝間田氏が応仁の乱以降に今川氏に滅ぼされ廃城となった中世の山城としてはなかなか壮大な姿を見せてくれます。
三の曲輪の東端まで行くと東へ伸びている尾根の防御力を高める為の堀切が二本残っています。
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三の曲輪の東端まで行くと東へ伸びている尾根の防御力を高める為の堀切が二本残っています。
三の曲輪から二の曲輪へ登る虎口です、この後ここを通って二の曲輪へ進みます。
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三の曲輪から二の曲輪へ登る虎口です、この後ここを通って二の曲輪へ進みます。
二の曲輪の全景です、道から写真を撮っていますが背中側にも同じぐらいの広さの平地が広がっていてどちらにも建物が建っていた遺構が残っていて重要な拠点だった様です。
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二の曲輪の全景です、道から写真を撮っていますが背中側にも同じぐらいの広さの平地が広がっていてどちらにも建物が建っていた遺構が残っていて重要な拠点だった様です。
二の曲輪の土塁上から三の曲輪の全体を見渡す事が出来ます。
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二の曲輪の土塁上から三の曲輪の全体を見渡す事が出来ます。
二の曲輪から東尾根曲輪を見ると近付いた分迫力が増します、その先の尾根に作られている五連続堀切の内の二つの堀切も綺麗に見えています。
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二の曲輪から東尾根曲輪を見ると近付いた分迫力が増します、その先の尾根に作られている五連続堀切の内の二つの堀切も綺麗に見えています。
二の曲輪からから本曲輪一帯の間には勝間田城で一番大きい堀切が有ります、パンフレットに大堀切と記載されている堀切ですね。
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二の曲輪からから本曲輪一帯の間には勝間田城で一番大きい堀切が有ります、パンフレットに大堀切と記載されている堀切ですね。
東尾根曲輪へ登ってきました、広さはそれ程ありませんが柵が巡らされていて物見台も作られていた様です。
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東尾根曲輪へ登ってきました、広さはそれ程ありませんが柵が巡らされていて物見台も作られていた様です。
東尾根曲輪から見下ろすと二の曲輪・三の曲輪が見渡せて見事です、本曲輪区域と二・三の曲輪区域で規模が全然違うので戦国時代に武田信玄が高天神城攻めの為に小山城と諏訪原城の繋ぎの城として手を入れたという説も信憑性が増します。
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東尾根曲輪から見下ろすと二の曲輪・三の曲輪が見渡せて見事です、本曲輪区域と二・三の曲輪区域で規模が全然違うので戦国時代に武田信玄が高天神城攻めの為に小山城と諏訪原城の繋ぎの城として手を入れたという説も信憑性が増します。
東尾根曲輪から先の尾根まで右側に見学路が続いているので見に行ってみます。
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東尾根曲輪から先の尾根まで右側に見学路が続いているので見に行ってみます。
東尾根先端の平地付近から五連続堀切方向を見たところです、最後の堀切は大分浅くなってしまっています。
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東尾根先端の平地付近から五連続堀切方向を見たところです、最後の堀切は大分浅くなってしまっています。
東尾根先端の平地です、周りの斜面も緩やかなので防御力は弱そうで見張り所ぐらいの役目かなという感じです。
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東尾根先端の平地です、周りの斜面も緩やかなので防御力は弱そうで見張り所ぐらいの役目かなという感じです。
東尾根曲輪へ戻る途中最初の堀切の先まで行ってみたところ、ヒメカンスゲが咲いていました。
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東尾根曲輪へ戻る途中最初の堀切の先まで行ってみたところ、ヒメカンスゲが咲いていました。
ヒメカンスゲのそばにはスミレも、葉の形からタチツボスミレで良いのでしょうか、いよいよ春本番と感じさせられました。
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ヒメカンスゲのそばにはスミレも、葉の形からタチツボスミレで良いのでしょうか、いよいよ春本番と感じさせられました。
高度が上がった東尾根曲輪から見ると富士山静岡空港が管制塔だけでは無く他の建物も良く見えます、今日は春霞が掛かって遠目が効きませんが空気が澄んでいれば空港左の辺りに富士山が見えます。
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高度が上がった東尾根曲輪から見ると富士山静岡空港が管制塔だけでは無く他の建物も良く見えます、今日は春霞が掛かって遠目が効きませんが空気が澄んでいれば空港左の辺りに富士山が見えます。
東尾根曲輪から見た本曲輪です、意外と小振りな本曲輪です。
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東尾根曲輪から見た本曲輪です、意外と小振りな本曲輪です。
本曲輪には祠が有り印野親和会というところが奉納した石塔が建っています、パンフレットにも記載がありますが勝間田城落城後散り散りになった勝間田氏の一部が御殿場市印野に移り住んだとされていますので、その子孫の方々からの奉納なのですね、ちなみに武田二十四将の一人小畠(幡)虎盛も勝間田氏の一族と言われています。
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本曲輪には祠が有り印野親和会というところが奉納した石塔が建っています、パンフレットにも記載がありますが勝間田城落城後散り散りになった勝間田氏の一部が御殿場市印野に移り住んだとされていますので、その子孫の方々からの奉納なのですね、ちなみに武田二十四将の一人小畠(幡)虎盛も勝間田氏の一族と言われています。
南尾根曲輪から見た本曲輪です、この後西へ伸びる一騎駆けと呼ばれる落城時の避難経路と思われる山道で牧之原台地へ向かいます。
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南尾根曲輪から見た本曲輪です、この後西へ伸びる一騎駆けと呼ばれる落城時の避難経路と思われる山道で牧之原台地へ向かいます。
何と牧之原台地の標高は勝間田城より高かったので、山道は最後は細かい九折の急登となって茶畑の端に出てきました、入口には何の標識も有りませんが途中には矢印と勝間田城跡の道標が何か所かありました。
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何と牧之原台地の標高は勝間田城より高かったので、山道は最後は細かい九折の急登となって茶畑の端に出てきました、入口には何の標識も有りませんが途中には矢印と勝間田城跡の道標が何か所かありました。
お茶畑が広がっているのを見ると牧之原台地に来た実感が沸きます、この後本日二つ目の目的である大井海軍航空隊の遺構を見に行きます。
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お茶畑が広がっているのを見ると牧之原台地に来た実感が沸きます、この後本日二つ目の目的である大井海軍航空隊の遺構を見に行きます。
茶畑に出てから700mほど進むと元電探講堂と呼ばれている建物が見えてきます、電探というのですからレーダー機器が設置されていたのでしょうか。
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茶畑に出てから700mほど進むと元電探講堂と呼ばれている建物が見えてきます、電探というのですからレーダー機器が設置されていたのでしょうか。
次に近くの牧之原コミュニティセンターへ向かい入り口付近に屋外展示してある練習機のエンジンと車輪を見学します、この後センター内にある何枚かのパネル展示を見せていただきカラーコピーの資料まで頂きました。
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次に近くの牧之原コミュニティセンターへ向かい入り口付近に屋外展示してある練習機のエンジンと車輪を見学します、この後センター内にある何枚かのパネル展示を見せていただきカラーコピーの資料まで頂きました。
コミュニティセンターから県道79号に出て北へ100m進むと正門の門柱を利用した記念碑が有ります、門柱は県道を挟んだ反対側にもあった様ですがこちら側だけ保存されています。
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コミュニティセンターから県道79号に出て北へ100m進むと正門の門柱を利用した記念碑が有ります、門柱は県道を挟んだ反対側にもあった様ですがこちら側だけ保存されています。
記念碑脇には沿革を記した案内板が有ります。
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記念碑脇には沿革を記した案内板が有ります。
記念碑の先を茶畑方向へ少し入ると隊舎の壁だったレンガ塀が一部ですが残っていました。
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記念碑の先を茶畑方向へ少し入ると隊舎の壁だったレンガ塀が一部ですが残っていました。
最後に記念碑から県道を南に200m程行った所の茶畑の中に残る退避壕跡です、この下には地下壕が掘られているのでしょうか、帰ってから分かったのですが、退避壕跡の近くに古いコンクリートの塊が有り近くへは行かなかったのですがそこが戦闘指揮所(司令所)跡だった様です、遠目に石碑の様に見えたコンクリートの柱が空気管と呼ばれる換気孔でした、一応見ましたw
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最後に記念碑から県道を南に200m程行った所の茶畑の中に残る退避壕跡です、この下には地下壕が掘られているのでしょうか、帰ってから分かったのですが、退避壕跡の近くに古いコンクリートの塊が有り近くへは行かなかったのですがそこが戦闘指揮所(司令所)跡だった様です、遠目に石碑の様に見えたコンクリートの柱が空気管と呼ばれる換気孔でした、一応見ましたw
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