曽我丘陵ー国府津から曽我別所梅園+松田山河津桜ライトアップ+称名寺貝塚展
- GPS
- 02:12
- 距離
- 6.8km
- 登り
- 192m
- 下り
- 173m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2016年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
感想
2月28日(日)、横浜市立歴史博物館の称名寺貝塚展でフロア解説があるので参加した。称名寺貝塚はかなり以前に発見され、何度か発掘がなされて、今やその全貌を知ることは難しいが、これまでの断片的な調査とその出土遺物、報告書などを詳細に調べ上げ、称名寺貝塚と称名寺式土器の全貌に迫ろうとしたのが今回の展示で、その意欲的な調査と展示は感動的だった。氷河期が終わり、気温が上昇して、海面が上昇して海進が進んだのは縄文早期、今から9千年前位に海進はピークに達したらしい。東京湾は氷河期には海面が100m以上低かったため、干上がって古東京川が流れて削られ、その後の気温上昇で一気に海水が入り、群馬県板倉町(藤岡台地の先端部=寺西貝塚)栃木県藤岡町、茨城県古河市あたりまで海進が及んでいたらしい。その時期は縄文早期で海進のピークだったらしい。東京湾沿岸に多くの貝塚が出現したのは、内湾が形成され、人々が貝などの採取や漁労活動がやりやすくなった縄文中期以降らしい(東京湾湾の入り口近くの夏島貝塚は約9千年前の縄文早期)。その後海進はピークを過ぎて海退が始まり、称名寺貝塚は主として縄文後期に繁栄した貝塚だった。縄文中期の繁栄期を過ぎ、朱楽の数が減少した時期に、突如としているかの群れが現れ、称名寺地域に人々が集まってイルカの追込み漁を行ったようだ。時期は300年余り続いて称名寺式土器の時代となる。その短い期間の中でどのような活動が行われ、どのような社会の変化があったのか、これまでの研究を整理して、その姿を復元しようという貴重な試みだったようだ。充実した内容で図録の解説も詳しく、近来ない充実した展示基だったと思う。これらは同博物館の高橋学芸員(北海道などで縄文時代やアイヌの漁労活動を研究)ら、多くの関係者の努力のたまものだ。称名寺貝塚の重要性は、後期縄文時代の社会変動・変化の様子を知るうえでとても重要だと理解できた。
その帰りに横浜から東海道線で国府津駅に出て曽我丘陵を歩いて曽我梅林を散策・撮影し、最後に御殿場線松田駅から松田山の河津桜のライトアップを見て撮影し、新松田から帰宅した。この日は日差しは余り無かったが、辛うじて撮影出来て満足。
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