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プロフィール

プロフィール

挑戦中の山リスト [?]

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ユーザ名 sm-vas
ニックネーム 未設定
登山経験 1970年〜 (登山歴54年) / 山行日数 0日
現住所 東京都世田谷区
性別 男性
年齢 65歳
誕生日 12月16日
血液型 B型
出身地 東京都港区
山以外の趣味 ヤマレコ鑑賞 スキー ゴルフ 囲碁 麻雀 simon & garfunkel 宮城谷昌光
職業 自営業
自己紹介 ヤマレコの皆様、今日は。普段から皆様の山行記録を拝見させて頂いております。ありがとうございます。私は40年ほど前は登山してましたが、今は全く無理。レコ拝見しても、歩いた山路を覚えているハズもなく、ただ、山容は当分の間変わりようがありませんから、十二分に楽しんでいます。これから述べるのは、私の退屈な回顧録です。こんな事しかもてなすことができません。御免なさい。***同年代の”山と渓谷”を愛する”岳人”諸兄、プロフィール拝見しているとやはり、”子育て山休”期間を経て復帰パターンの方が多い。尊敬します、私はダメでした(腹が・・安易な方へ流れた)、60年間お疲れ様‼(ヘッドラぁ〜イト、テイルラぁ〜イト、旅は〜未だ、終わらぁ〜ない〜〜)1964のオリンピックはほぼ記憶が無い。高度経済成長期を享受して成長。バブル期は夜な夜なタクシー拾えなくて往生したが、はじけたら、運ちゃんいきなり態度良くなりビックリポン。後半のおよそ30年はガマン、ガマン。気が付いたら60歳。我々の”時代”はこんなところか。「良い時に生まれた」と私は感謝しています。***私の”山”実動期間は、高校大学時代の7〜10年間ぐらいでした。なぜか? 並行してやっていたスキーでパラレルが出来るようになり、俄然おもしろくなったからです。大学4年間、2月は八方黒菱平の中大小屋にずっ〜と居たんですから当たり前ですが。勿論、夏場は山登り。暑い時期は沢登り。しかし 常に降雪を待っていた。階段では黒菱のコブをイメージして、一段一段降りていた。当時、八方SAJ1級の種目は、パラレル、ウェーデルン、谷開きシュテムでした。(私が受験した時)3種目210点で合格なのですが、シュテムが69点でした。(他は70点)ゆえに山仲間外には八方1級で通しています。白バッジは仲間に買ってもらった。私の唯一の勲章です。あの頃はSAJ花盛りで、浦佐、岩岳、八方尾根と言われていました。基礎スキー選手権大会なんてのもあった、今でもあるのかしらん。当時、コバヤシタダヤス様という高名なデモンストレイターに八方で会ったことがあります(名前に間違いはないと思いますが)。ユーザー名のsm-vasはその頃の”ロシ”の板です。その後継機の4skが、私の最後の板となりました、長さは2m。[因みに靴はノルディカ、ビンディングはマーカーM4FDSR(いわゆる”赤バネ”後に”FDR”)、ポールはシナノを愛用しました。山の背負子もシナノ]29才でした。その後一切ゲレンデに行っていません。なぜか? 社会人になって始めたゴルフに熱中したからです。球技は何でも人並み以上を自負していたので、衝撃でした。初めて思いどうりにならぬものに会いました。ある人に言われました。「止まっているボールを扱うのだから、球技ではない。」妙に納得できました。結局、クラブハンデ9が、最高でした。本当に上手い人は、片手シングルと言いまして、5以下の方です。両手の凡人は平気でハーフ50以上叩きます。(特にバックからの時、自分がそうだから)50歳頃だったと思います。急に車・電車の移動が辛くなり、嫌になりました。多分飽和したのでしょう。以来ラウンドしていません。***囲碁、麻雀についてはあまりにもべタなので、パスします。***S&Gを初めて耳にしたのは、中学生の時だったと思います。サウンドオブサイレンスです「なんて奇麗なメロディーだろう」、と感動しました(私は圧倒的に”アコギ”だけのが好き)。世代として私はひと世代遅いのですが、私の長男から、「友達にS&Gが好きな奴がいる。」と聞いて、やはり普遍的な存在であると、再認識させられました。あの頃毎夜、暗闇の自室で一人聴いて黄昏ていました。息子達には「俺が死んで焼く前に、サウンド〜とボクサーをヘッドホンで聴かせてくれ。それとお坊さんとお線香は無用」、と言ってあります。他に今でもよく聴いているのはMoodyBlues,MikeOldfield,ELP,ZEPPELIN,PURPLE,FLOYD,ENYA,・・・いわゆる”プログレ”と言われたジャンルが主です。よく言われる事ですが、やはり思春期に耳にしたものが一生を縛る。ビートルズ、ストーンズもいいのですが、感性としてS&G。常日頃新しい楽曲は、自然と耳に入りますが、特に無い。***宮城谷昌光(作家)は、歴史が好きでないと知らないと思いますが、中国古代、(主に春秋・戦国時代)を題材にした作品が多い人です。晏嬰、重耳、士会、介子推、楽毅etc、知っている方はそうそう居ないでしょう。この時代は戦争ばかりです(しかし中国史上、唯一思想の自由があった時代でしょう)。日本で言えば、室町〜戦国時代に当てはまります。中央政権がダラしなくなると、地方の封建諸侯はワガママ放題に好き勝手なことをやり始める。それは弱肉強食の世を蘇生させる、やがて時間的・地域的に複数の覇者を生む。彼らは後ろ盾の権威として、王・将軍の神輿を担ぐ。が、そのうちに降ろす輩が現れ、また統一に向かう。長期の混乱を思うと、徳川幕府は良くやったのではないか?黒船来航までに、諸侯間の戦争を私は知らない。岩波文庫の史記世家・列伝は、一部読みました。(本紀は売ってなかった)記述は某の何年、どこそこで、誰それが、どうした、的な感じが多く、時々エピソードや司馬遷の感想(太史公いわく)はありますが、ファクトの羅列です。他の史料の乏しいこの時代から、ひとつの小説に仕上げてしまう事は驚異的です。各々の作品、少なくとも5、6回は読み返していると思いますが、一番のお気に入り、なお且つ尊敬しているのは晏子(晏嬰、晏平仲嬰、B.C.500没)です。お墓が山東省に実在するらしい。司馬遷も「彼の御者(運転手)になりたい」、と書いています(私もドラえもんにお願いして会ってみたい)。私の妄想的希望は、魏志東夷伝から邪馬台国を書き下ろしていただくことです。***やっと本題の「山」です。4・50年ほど前のうろ覚えを徒然なるままに回顧しますので、なるべく時間軸に沿いますが、バラバラです。小学生の時、御多分に漏れず初登山は親父(昭和2年生まれ,故人、戦争には行っていない、ゆえに私が存在している)に連れられてでした。高水三山か御岳山〜大岳山だったと思います。山行より、よく覚えているのが、青梅線の車輛がチョコレート色で、床は木でギトギトしていて、要所要所に床から天井まで一本の金属製つかまり棒が立ってたこと。そして、終点の駅名は”氷川”だったと思います。(気のせい?)親父は奥多摩が好きだったのか、丹沢,奥武蔵へ行った記憶がありません。自慢話で覚えているのが、「昔はバスがなくて、駅から全部歩いたもんだ」です。特に、塩山駅から乾徳山への話しを繰り返すので、ココしか行ってないのかも。あと、当時(戦前?戦中?)の地図を見せてもらったら、マル秘マーク”㊙”が付いていました。高校生になって、ゆる〜い系のヤマ部に入り、初アルプスを体験。お決まりの表銀座、だけでなくプラス横尾から北穂ピストン。朝の急行アルプスで新宿から有明駅へ。その日は中房温泉でテン泊。(当時は有明からバスが出ていた)合宿初日の夕食は豚汁と決まっていて、当番は前日、肉を味噌漬けにします。そして味噌ごと大鍋へ投入、美味かった(屋外で食べると何でもうまい)。一週間なにを食べていたか。朝はたいてい雑煮だったか。餅を焼かないで鍋に入れるので、汁がトロトロになってしまう。私には喉を通りにくいシロモノで、それでも無理やり食べた。腹持ちは良い。このトロトロが好きな不思議な奴もいた。昼、魚肉ソーセージと・・・思い出せない。パンのわけ無いし(かさばるし、つぶれる)、飯炊いてるヒマ無いし、ビスケットかな?晴れている時、道すがら、残雪があると粉ジュースをふりかけてシャーベットにした。非常に美味し‼夜はやっぱりカレーとかの一品料理だったか。腐りにくい根菜を持って行くので、どうしてもシチュー系統になる。米は持っていきました。アルファ米は存在してましたが、高いしマズイし、最悪。一回食べて、二度と食べていない。今のは改良されてますか?美味しいですか?。(表銀座ではないが)食後、水場が遠い時は大鍋・食器をトイレペーパーで拭いていました。蛇口をひねれば飲める水が出てくる事が、どれだけスゴイ事か!実感できました。小梨平では鉄板焼きで打上パーティー。予定に有ったことではなく、先輩が、落ちていた鉄板を見て、閃いた。食材は残った物すべてと、終戦直後の子供みたいに、「ギブ・アス・チョコレート」。キレイなテントを二人一組で周回する。「何でもいいので、余りそうなモノ有ったら、お願い致します」。キタナクて汗クサイ高校生が行くと、皆さん何かしら恵んでくれた。ありがとうございました。テントは帆布製の家型6人用とか8人用、(6テン、8テンと呼んでいた)設営は最低でも3人必要でフライなし、半端なくヘビー。ザックは”キスリング”と呼ばれる横に長い非人道的な物体で、(背負子にセットすると少しは楽になる)これも頑丈な帆布製。駅の改札口を通る時、横向きになるから「カニ族」。麦わら帽子にカッターシャツという長袖シャツを着て、ウール製の二ッカーはいて、これまたウールのぶ厚いハイソックス(稜線に上がってウール製の意味がわかった。雨・ガスになると、東京の冬なみに寒くなるのにはビックリした。今でもはいている人いるのですか?)、そしてクソ重いザン靴、ソールは既にビブラムでした。キャラバンシューズという軽登山靴もあった。トレランシューズなんて有りません。ナイキはあった(通学時、履いていた)。調理火力はホエ―ブスという白ガソリン使用のものか、ラジュースという灯油使用のもの。ホエ―ブスの方が全々強かった。これらの燃料をエバニューのポリタンク(長方形で2リットル)に入れ、電車・バスに乗る。危険この上なく、今の常識では考えられません。実際一度、テントが燃えているのを見たことがあります(テン場で)。使っていた地図は、”エアリアマップ”というもの。紙製ではなく、おそらく最初のビニール製(ナイロン?)ではないか。「突然の雨にもポンチョ代わり」がうたい文句だが、別に真ん中に穴があるわけではない。変な臭いがした。これらが当時、アルプス登山のマストアイテムでした。縦走するパーティーは、まず間違いなく、このスタイルです。今時のトレイルランナーが現れたら、皆どんな反応するだろうか?僭越ながら代表して私の感想を一つ、「水着で寒くないですか?」。我々の一日の始まりは「サ・シ・ゴ」と言いまして、3時起床・4時飯・5時出発ですが、ほとんど予定通り行かず、遅れた。喜作新道の記憶はない。雨だったから。あんなに梯子あったか‼、て感じです(今のレコを見て)。槍の穂先も行ってるはずですが、記憶がない。ただ槍沢に頭を突っこんで、‘’ゴクゴク”飲んだことは、はっきり覚えている。清冽でマジ美味でした。[3寸(およそ9僉卜れれば清い水、と言う格言があります〕高2の夏合宿は、たしか、南ア白峰三山プラス熊ノ平から塩見ピストン。高3の時か?、と言うのは、もう一つの夏合宿が思い出せない。北岳はその頃3192m、いつの間にか1m高くなっていた(奥穂は変わらず、劔は何回測っても2999)。重荷だから八本歯経由で行ってるはずですが、やっぱり頂上の記憶が無い。塩見は遠くて、バカでかかった。北岳とははっきり異質、正しく南部の入り口。「大学いったら、あっち縦走しよう」、東峰のてっペんから眺めました。(これを”望(ボウ)”と言う。南部縦走は後ほど。)西峰は踏んでないとおもいます。高3の冬休み年末に同僚と初アルプス冬季挑戦、北沢峠から駒・仙ピストンですが(黒戸尾根は無理)、凡人の冬山は、昔も八ッか南ア北部と決まっていた。カモシカスポーツでエスパースという冬用ドームを買い、夜行アルプスで辰野乗換え、伊那北へ(バスはココから)。[夜行列車と言えば、鈍行で新宿発23:55長野行き(松本経由)というのがあって、ほとんど山ヤと酔っ払い御用達だが、途中数ヶ所で1〜2時間ぐらいずつ停車するので、駅到着時間が山域によって早過ぎたり、遅すぎたりで使い勝手は悪い。長野着は9〜10時頃だったんじゃないか]。戸台から河原歩きして(渡渉無しの実線ルート),長衛小屋の沢沿いに天張ったと思います。林道は何処まで来ていたかは、覚えていない。夜叉神・広河原ルートの方は結構できていて、野呂川出合ぐらい迄、出来ていたんじゃないか?。と言うのは、夏休みに早川尾根縦走の為、広河原から仙水峠へ向かって歩いた事があるから(高校時代、個人山行、三人で)。夜出発だったので途中、林道のキレ〜イに整地された路肩でテン泊した。当時の名称は「南アルプススーパー林道」、奈良田まで開通していたと思うが?。早川尾根行くのに、何で広河原からなのか?何で夜出発なのか?今となっては解明不能です。脇道に逸れました。一日、仙水峠〜アサヨでアイゼン・ピッケルの練習して(これ以前に丹沢主脈で経験しているはず)、仙丈へ。トレースばっちり、ド快晴で素晴らしい体験でした。調子に乗って、頂上でウイスキー飲んじゃって、危なっかしいシリセードで降りたのを覚えてます。甲斐駒は覚えていない。途中撤退したかな。冷蔵庫用温度計をわざわざ持って行った。朝、−20度。テントの内張はバリバリでキラキラで美しかった。すでに羽毛製品は存在していてサレワ、モンクレー等ヨーロッパ製品は非常に高価で手がでないが、”天山”
という中国製品が有った。各段に安くて作りは雑だが、充分にヌクヌクできた。寒くて眠れなかった、という記憶は無い。大晦日に下山したのですが、たくさんの社会人パーティーとすれ違った。辰野で乗換待ちの際、カツ丼を注文したら、いわゆるソースカツ丼でカルチャーショック。初めて知った。小淵沢は「玉子とじ」だったと思うのですが、記憶違いか?。小淵沢と言えば、[カツと高原野菜のお弁当〕。いつの間にか、カツが豚から鳥になっちゃった。考えてみれば仙丈が私の冬季最高峰でして、(そうゆう人、結構多いと思う。北岳は無理、今時は塩見か)他は、雲取山〜笠取山、丹沢主脈、北八ッ、南八ッ硫黄岳〜赤岳、日光奥白根山、北ア唐松岳(八方合宿中、晴れの日にピストンする。昔も冬の北ア入門コース。視界さえ効けば困難は無い)、木曽駒、ぐらい。私は中アと縁が無く、この一回だけで往復ロープウェイ。「北ア、南ア南部、谷川岳なんてとんでもない、考えて見たこともない」て感じ。今でもここら辺行くのは、半端ないんじゃないでしょうか。仙丈もトレース付いていたからOKだったが、無ければ無理でしょう。やはり目の下が真っ黒になり、クラスメイトに不気味がられた(変な病気?)。大学1年の夏は(やはりゆる〜い系の山とスキーのサークルに入部)、後立プラス劔ピストン。(白馬大池〜針ノ木〜平〜五色〜劔沢)一週間晴続きで、最高の合宿でした。計画書は勿論作成され、OB諸兄にも渡りますので(登山ポストって有ったか?)、都合つけて一部分参加する方も、結構いた。その場合、”後立”は入山、下山が楽ですから入れ替わり立ち代わり、接待で忙しい。が、けっこうな差し入れも多いので、どちらかと言えばウエルカムでした。この頃は梅雨明けが計ったように7月20日で(1・2日は、ずれますよ)、”温暖化”と言う単語はなかった。が、後になって逆に印象は薄い。”山”で好天なのに薄いなんてバチが当たりそうですが、3,4年生になると「雨の山もいいねえ〜、情緒があって。」となる。この感じ共感していただける方、いると思う。写真で言えば、ドピーカンのモノより、雲・ガスで一部覆われている方を好む感覚です。また、白黒写真の山も風情があって良いですよ。風さえ弱ければビニール傘(有ったか?)差して歩いていた。万事、順調に終わる合宿よりも、何かしらハプニングが有った方が、(命に関わるのはダメですよ、勿論)10年後20年後再会した時、話しが大いに盛り上がる。「あの時、誰それがホニャララしてさー、アーだコーだ、笑っちゃうよネ〜」合宿経験者の「アルアル」ですよね。アルプスの稜線を歩いている幸せを感じられる時とは、花崗岩のザレ道を歩いている時、稜線の片側から吹き上がるガス、雲海、日の出、日の入、でしょうが、私はそれらにプラスして、しとしと降る雨もいれたい。今時は、温暖化で半端ない降りかたをするのでしょうから、情緒云々どころではないか。くどいようですが、都会に居ても雨の降り方は半世紀前と全然違う。そのうち、”夕立”という俳句の季語は無くなるでしょう。富山から帰ってきて、1・2週間後には南ア南部縦走に向かったと思います。高校時代の同僚3人と、予定では三伏から光まで。(光は茶臼からピストン)いたってベタなルートです。伊那大島から塩川小屋経由三伏へ。これがメインルート。鳥倉ルートなんて知らない。悪沢ピストンまでは、まずまずの天気だったと思います。どこでテン泊したか一切覚えていませんが、赤石へ向かう頃から雨、ガス、風。頂上は素通りしたはずです。(写真1枚ぐらいは撮ったか、避難小屋はなかったとおもうが)一目散に百間洞へ。盟主”赤石岳”を感じるヒマはなかった。多分その後も、雨続きの予報だったんでしょう、しらびそ峠経由で下山する事になった。しかし、事はそう簡単に終わらない。ここからじっくり”南部”を味わうこととなった。重も〜い雨しきる中、大沢山荘へ。長かった。ビショビショで、とてもすぐ峠まで登り返す気になれず、小屋泊まり。中は質素だが整頓されていて、すでに数パーティー居た。管理人は不在だったはず。(すでに無人小屋?覚えていない)近頃のレコを見ると、2階があるが気がつかなかった。40年前と同じ建物?翌朝も雨。同じ事情の四国から来た2人組のOLさんと共に出発。ルートは今で言う”第一登山口”のようで、(その時たぶん第2は無い)沢沿いに暫く行き、右岸から林道目がけて直登。路ははっきりしていたが、とんでもなく急。ほうほうの態で登り切る。当時は峠上に小屋があり、ハイランドは無かったはず。「さあ、下界に帰れるゾ‼」ところがギッチョンチョン、「鍵がかかってる⁉」スマホはありません。これから始まる果てしない林道歩きに、チェスト〜〜。が、一人の知恵者がいた。「ダメもとで窓、見てみよう」、手分けしてガタガタ〜ガタ、「あ、開いた‼‼〜」神の雄叫び。この後タクシー呼んで、管理人に事の次第を説明して、(電話はあります)平岡駅へ。そばの旅館で至福の一晩を経て、翌朝帰京、私の一番強烈な山行となりました。南部は恐ろしい。それ以来足を向ける事は無く、鬼籍に入ります。ゆえに、拝見するレコは憧れの南部、深南部が中心です。聖、光、笊、伝付峠、行ってみたかった。特に笊ケ岳、今は亡き保川ルート(昔は一般ルート)標高差2千mオーバーで、深田久弥様も途中撤退した(私もたぶん無理)。当時も鋸岳や大無間の悪場は有名で、実態を写真、動画で見られるのは幸せです。坊主山、離山は知らなかった。今、一番興味ひかれるのは左岸林道や日向林道など廃道の崩壊状況と、その周辺の山々。今日は令和2年7月2日。昨日、一昨日、大雨に襲われている(珍しい事じゃ無いか)。どこかでゴッソリ逝っているのではないか、近いうちにオベリスクも光岩も崩落しないか心配です。今やロストワールドと化した山域、無想吊橋スゴ〜イ‼‼ホテルアケ河内シンジラレナ〜イ‼柴沢小屋・鎌崩・・・ホームにしている鉄人28号諸兄、くれぐれもご自愛ください。それにしても、ココの沢に入って来る釣り師の技量はどうなっているのか?***岩と沢について***ゲレンデとしたのは、埼玉県高麗(コマ)の日和田山。駅から近く、高度感は無いが基本習得はできた。本番で行ったのは3級ルートのみ(今のレベル分けは知らないが、練習すれば誰でも行けるレベル)。谷川岳幽ノ沢、北岳バットレス、両神山の北にある二子山、覚えているのはこれだけ。練習と違うのは高度感だけ、やはりビビる。岩よりも沢が気持ち良くて、ハマッタ。丹沢水無水系の枝沢は、沢登り入門コースとして有名でした。足回りは地下足袋に草鞋(わらじ)、これが信じられないぐらい滑らない(亀の子たわしで、岩のヌルヌルを取る人もいるらしい)。山の店で買っていたが、登山口の茶屋にもあった。土曜日夕方、三々五々、大倉のキャンプ場に集合して宴会、翌朝パーティーごとに目的の沢へ入って、バカ尾根を駆け下る。何回繰り返しても楽しかった(何より涼しい)。経験を積んでから、評判のよい沢へ。記憶に有るのは上越の米子沢、西ゼン、黒部源流の赤木沢、沢の醍醐味はやはり明るいナメ滝。お天道様の下、フリクション利かせて、弾けた清冽な飛沫を浴び、思わず「涼しい〜‼」。岩登り要素が濃く面白かったのが、西丹沢玄倉川のモチコシ沢。入渓すると右に大滝が見え、雰囲気が日本じゃない、キングコングでも出てきそうな感じだった。大滝は右岸水際を登ったと思う。一部ヤバイ所があり、「俺にはトップ無理」。結局ココが核心で、上流の記憶は無い。詰めて尾根を乗越し、同角沢で下山した。女郎小屋沢は難しいという評判でパス、裸山沢は知らなかった。中川川水系はどうゆう理由か、行かなかったと思う。私は同行させてもらえなかったが、先輩たちは越後駒のオツルミズに挑戦した。雨もあって徹退、相当ヤバかったらしく、詳細は答えてくれなかった。***単独行について***勿論、加藤文太郎様は書籍で足跡を追い、多いに感動し、静かに泣き、御冥福をお祈りした。なぜ北鎌で・・・私もいつかは墓参山行に行くはずだったのですが、CCRの"someday never comes”となってしまった
。【レコにて墓碑銘プレートを発見し、手を合わす事ができました。登録者様、ありがとうございました。】私は根っからの臆病者なので記憶してるは2回だけ。学校の文化祭の休み(平日)を利用しての、センチメンタルジャーニー。奥多摩東日原から三ツドッケ、蕎麦粒、酉谷、小川谷林道を下山。山中、誰にも会わず不安になり(熊が怖い、山で一番偉い)天祖山をカットして林道(どこも壊れていない)を小走りで、たいして楽しむ事なく、自分が情けなくなった。しかし長沢背稜は目立たないが、静かな山旅が楽しめる事は間違いない。もう一つも平日、一泊二日で谷川岳。西黒尾根〜一ノ倉岳避難小屋泊〜蓬峠〜土樽駅のはずだった。が、避難小屋があまりにもキタナくて(結局この辺、みんなキタナかった。当時は)、その日のうちに茂倉岳から下山したはず。しかし、この単独行は生涯ピカイチの”もみじ狩り”となった。土合駅の階段を登攀して(核心部はココ)、上州側は全く感じなかったのに、国境稜線に着いた途端、まばたきを忘れる程の越後側斜面の素晴らしさ・・流れる雲に合わせて紅、黄、緑が点滅する。蔭の瞬間があるから、天照ラスと、その鮮やかさが止めども無く神々しい。回りを見渡せば誰もいない。天上天下唯我独【神】、あらゆる物に神が宿るとする、日本人の宗教観の一片を理解したつもりになった。間違いなく、私は”日本教”の信者です。***熊との遭遇***私は一度だけ見た(鹿,猿、猪、蛭は見たことない)。夏の北ア、栂海新道を蓮華温泉から北上中、もうすぐ犬ヶ岳避難小屋(無人、栂海山荘の前身?)という所で、越後側からヒ〜〜ヒ〜〜ヒ〜〜と甲高い音。何と〜⁉、今、通過したばかりの稜線に向かって、真っ黒い物体が駆け上がって来る〜〜。距離的には結構離れているのだが、ビビリまくって小屋へ。その夜は我々3人だけ。武器になりそうな物探したり(結局、木の枝)、戸締り確認したり(入るんなら壊すよね)、で大変だった。翌日は海の事なんか、すっかり忘れて二本松峠から南へ下山。途中、1パーティーとすれ違ったが、クマ情報したかどうか?。集落に着いた時には八百万の神々、全ての如来・菩薩様に感謝を奉げた。当時エスケープルートはなかったはずで、全ての小ピークを踏んでいくのが初めての我々は疲労困憊。クソ暑くて、奥多摩とかわんない。ブーブー言いながら歩いていると、結構な頻度で蛇がいる。「奥多摩の方がいい」、3人の結論。(南ア深南部もこんな感じなのかしら?)朝日岳から北、池塘がある所までは本当に気持ちの良いハイキングができたのに、その先は・・雪国の低山がどうゆうものなのか、身に沁みた山行でした。今の地図をみると、下山した集落は上路(あげろ)というらしい。当時は郵便局があって、タクシーが来るまで前でたむろしてた。近場の急行停車駅は”泊”。銭湯、ビール、飯食って、夜行に乗った。こんなザマですから、北海道なんかとてもとても。勿論、人並みに憧れはありまして、幌尻、カムエク、ぺテガリ、日高山系はスゴイな〜、いいな〜と。栂海新道が「おまえには無理‼」、ハッキリと宣言してくれました。後日、情報で可能な山、利尻岳と羅臼岳を知った。利尻は最後の一頭が本土に泳いで行ったから大丈夫(都市伝説的)、羅臼は岩尾別ユースホステル宿泊者でパーティー組んで行くので大丈夫(大人数で行くから、万が一の時、確率は低くなる)、で行きました、まず羅臼岳。大学4年の6月、友人と2人で道東旅行を兼ねて(私は初北海道)、勿論YH
泊り。寝台特急はくつる(はつかり?)、青函連絡船(トンネルは未通)、急行すずらん?(小樽経由)、札幌からの急行の名は忘れたが、まずサロマ湖へ(旭岳は無視した)。分かってはいたが、長く広く果てしないのは本当だった、車窓の向こうは日本じゃない。列車移動にしたのが良かったようです(ディ―ゼル起動車に初めて乗った)。観光名所を忙しく回るのではなく(元々そうゆう趣味はない)、一般の人には無駄であろう時間(移動・待ち)のほうが好きな「アマノジャク」です。駅前のいわゆる大衆食堂でビール飲んでカツ丼食べて(中華屋ならレバニラ、タンメン、どこで食べても同じ味。あえて名物料理は食べない)、周囲をブラブラする(キョロキョロはしない、したら捕まる)。なぜか楽しい(知ぃ〜らな〜い〜まぁ〜ちぃ〜に、行ぃいきぃたあ〜い〜)。サロマ湖のYHにはビックリした。北欧風の木の温もり感満載で清潔、モーニングコールがバロック音楽。全てがおサレで、この旅最高の宿だった。岩尾別YHでは情報通り10人ほどでパーティーを組み、安心してピークを踏めた。(北海道での唯一の登山)残念ながらガスッていて何も見えなかったが、シマリスと遭遇、カワ(・∀・)イイ!!、クマさんじゃなければウエルカムです。カムイワッカも最高。缶ビールは持って行ったのだが、水を忘れて困った。喉が・・しょうがないから、ぬる〜い沢水を飲んだ。マズイ。野付半島は晴れていたかな。霧多布岬は本当に霧で、雰囲気十分。どちらもマイナーなのか、人がいない(下界はその方がいい)ココまでは覚えているが、その先は・・?。上野駅に帰ってきて、連れ添った周遊券を記念に貰おうとお願いしたが、ダメの一点張りだった(まだ国鉄か?)。社会人になりゴルフに浸食され尽くされた頃、友人から「お盆に利尻へ行こうよ」、とお誘い。大事な友達の一人なので、無下に断るわけにもいかず「あ、あぁ〜
いいよ」、言ってしまった。気の弱い俺、友達思いの凡人。仕方ない、気分かえて稚内までの鉄旅、駅弁を楽しむ事にした。そして麓のテン場までは行ったが、登る気はサラサラ無く、二日酔いを装い、一人で行ってもらった。下から山が見えたかどうかさえ
覚えていないが(全く興味が無い)、ドロドロの合羽姿で撤退してきた。「ダメだ、スゲー風だった‼」。さすが最果ての洋上アルプス。夏ということもあり何を調べるで無く、北アの稜線ぐらい、と勝手にレベリングしていた。今はヤマレコという、大変結構なものが存在する。言わずもがなだが、下調べは必ずしましょう。帰り掛け札幌近郊で2日ラウンドしたが、東京と変わらない暑さに地元の人も「今年は変だ」、と言っていた。温暖化の先駆けだったか。***グレートトラバース***子供2人が野球少年団を卒業し(私、コーチしていた)、ゴルフも飽和しきって、週末はテレビの前から離れない月日が続いていた頃(囲碁・将棋NHK杯の記録係が唱える「10秒〜20秒〜25秒〜〜」は、究極の催眠呪文です。もっともビール飲みながらなのだが、至高のお昼寝タイム)、「日本百名山グレートトラバース」エッ⁈、何、どうゆう事?どうゆう番組?。”山”がテレビに映るのは、遭難事件だけと思っていた。世間一般(富士山と高尾山しか知らない人々)では、山で遭難と聞くと「どうして?何でそんなとこ行くの?」、て感じで非難ゴウゴウとなる。が、水の事故は日常茶飯事の如く(確かに夏には、ほぼ毎日起きているだろう)スルーされ「可哀そうに、残念でしょうね」、と同情を獲得して終わる。「この差って何?」、と考え込むのは私だけ?。水遊びに行く方々へ、「ボーッと生きていると危ないですよ」。話を田中陽希さんに戻します。この番組を見て、若かりし頃の自分が少々、戻ってきたことは間違いない。ヤマレコを知り、今度はパソコンの前にいる時間が大幅に増えた。”トレラン”というジャンルも知り、その驚異的なコースタイム、距離の長さにビックリした。(4〜50代のオジサンランナーもいるじゃないか‼)。代表の一人が陽希さんだが、アプローチも全部歩くというのには「ドヒャー‼」。一日に50腺僑悪繊▲灰鵐リートの上を歩けば、そりゃあおかしくなる。知床から稚内まで歩く気分というのは、どうゆうものなのか、凡人には???。平ノ渡しの船は本当に悩んでいたが(泳ぐとか、カヤック持ってくるとか、真剣に考えたんじゃないか)、私が説得するとしたら、「吊橋だよ、ただ、目をつぶっていてくれ」(誰でもそう言うか)。針ノ木谷は相当、崩壊が進んでいるようですね、私が歩いた時はそれこそボーッとしていても、迷いようのない実線ルートでした。岳沢の周回ルート(前穂〜奥穂〜天狗ノコル)も、高度感はとんでもなく素晴らしかったが、ヤバイ〜、と感じた記憶は無い。天狗沢は実線ルートだったはず。ヘルメット必要なし。しかし、今のレコ拝見すると浮石、落石、怖すぎて無理。足がすくむ。(昔も浮石はいっぱいあったが。)陽希さんとドローンのおかげで、行けなかったピークの様子がわかり、行った気になれるのはありがたいです。それを可能にしている撮影スタッフにも脱帽です。無論、山の素人ではないでしょう。1チーム何人なのか、何チームで廻しているのか、とか、山の経歴とか色々気になります。(まさか一緒にアプローチも歩いている?)***東京の山登ラーなら普通行っているだろうが、行かなかった有名所***富士山、光、聖、甲斐駒黒戸尾根、中ア木曽駒以外全山、北ア笠ヶ岳、大キレット、西穂、ブナ立尾根、裏銀、白馬大雪溪、剣早月尾根、尾瀬、両神山、奥武蔵、筑波山、***東急電鉄田園都市線二子玉川駅***この駅を普段利用しているのですが、ホームの一部が多摩川河川敷にはみ出ている。冬になると、北西方向に山々が連なっているのが良く見える。左端はすぐわかる、神奈備の姿が美しい相州大山。その右はビルが邪魔してる。ネットで調べると蛭ヶ岳らしい。大室山と続き、遥かかなたの真白いのは、何と!南ア農鳥岳とある。隣、尖がっているのは滝子山、三頭山、飛竜山,雲取山、長沢背稜、そして右端、北岳かと思わせるような三角錐形は武甲山。(その右は駅前のマンションが全てを隠している)山座同定できると、昔、踏んだことのある山々はやっぱり懐かしい。冬の大きな楽しみとなっております。***大学時代の一つの夏合宿***北ア、折立ー太郎平(赤木沢溯上)ー薬師沢ー雲ノ平(高天原温泉ピストン)ー読売新道―平―五色ー劔沢。やはり夏合宿は思い出しやすい。(1年間のツートップがこれと、八方ですから)赤木沢は本当に美しく、明るくて、評判どうりでした。何より易しいのがいい。北アの奥の奥まで来て、困難は求めたくない、快楽のみ。皆、上機嫌でテントに戻った。こんなこと言うと、溪相すべて覚えているように聞こえるでしょうが、実は何も覚えていない。今のレコの画像を拝見しても、記憶を取り戻すことはありません。ただ、ザイル他登攀用具は一切持って行かなかったし(縦走中ジャマ)、全身ズブ濡れになっていない事だけは確かです。なぜなら、それらが必要な沢だったら行かないから。薬師沢の下り、雲ノ平への登り返しもどうゆうわけか、スッポリ記憶が抜けている。(雲ノ平は皆さんご存じの通り。)そしてこの合宿のメインディッシュ、高天原‼ここは、明確に覚えている。ワクワクしながらザン靴で、トレランもどきに駆け下りていく。途中から硫黄臭がしてきて(正確には硫化水素、硫黄は無臭)、桃源郷着。山ヤしか知らない、来ることができない露天風呂、最高〜〜。帰りがどうなるか、誰も考えずにハシャイだ。当たり前だが帰りは登り、せっかく汗流して気持ちいいのに、元の木阿弥。お湯は結構臭いがきつくて、タオルで汗ふくと「グェ〜〜ッ」気持ち悪い。というよりも、首に掛けた時点で臭う。タオルは2枚必要です。水晶から赤牛にかけても「気持ちイ〜ッ」。当時は我々も含めて若い連中で、山は混んでいた。(だから現在オジサン、オバサンが多い。若い人もいるのかしらん。それゆえ、テン場確保は重要なことで(斜面はイヤ)、先に一人二人、急行させていた)が、この稜線は空いていた。山名どうり、それらしき石があちらこちらにあり、それが段々と赤茶色のザレ道に変わっていく。傾斜は緩く、左を観れば、北アの”ジャイアン”薬師如来様が鎮座なさる。仲間の無病息災を念じながら歩む(私自身も大病すること無かった)、まさしく天空の散歩道。長〜い下り坂を経て、平ノ渡しまで整備された良い路でした(今は、酷いようですね)。渡った先の河原で、昼めしはソーメン。毎年ココを通過する隊はこれが習慣でして、ダダッピロい岩ゴロゴロの所、貸し切り状態でズ〜、ズズ〜ッ、横の沢で〆た”黒部ソーメン”はサイコーでした。食後の登り返しは忘れたい。五色、立山、劔沢の区間は毎年歩いたので、記憶が錯綜して、何が何年生の事件だったのか???(雄山神社は一度だけ高い拝観料を払い、お祓いをしてもらった。そのおかげか、還暦まで無事に過ごしてこれました。そう思い込みたい)。我々の夏合宿は3ッ4ッ、隊を分けて(たいてい後立、表銀、裏銀、黒部。笠ヶ岳を入れようと言い出す奴はいなかった。東京から一番行きずらいエリアだろう)、劔沢で合流するというもの。テン場から乗越を見ていると、それらしきパーティーが下りてくる。顔が視認でき両手を大きく振ると、振り返してくる。何かしらんが、猛烈に感動が湧き上がる(繰り返すがスマホは無い)。お互い臭いから、ハグはしない。いきなり”事件”の報告会が始まる。私の代の4年間は、笑いっぱなしのいい時間だった。テン場での強力な印象があります。それは関西弁が飛び交っていたこと。ココは関西圏なのだ、と感じた。(なので涸沢の方が居心地は良い)後輩に一人、奈良県人がいたが、やはり声がでかい(酒が入るとさらに・・愛知県人もいたが同じ)。逆に、彼らに言わせると、「サ〜」が煩わしいそうだ(あのサ〜、それでサ〜、だからサ〜)。東京人は気を付けましょう。肝心の頂上は1回だけと思う。カニのタテヨコの順番待ちに辟易したから。下山は当然、室堂へ。乗越まで上がると気が抜けるのか、バス停までの小さな登りがキツイ。一度、称名の滝を見物に大日岳経由にした。滝は全容を見られるわけではないが、さすがのサスガの流石。これこそ「百聞は一見に如かず」。水量・飛沫・高さ、圧倒的な迫力に「見に来て良かった」。観光名所で、こう感じられる場所はそうそう無い。その後に、どう下山したか記憶は無い。絶壁を登ったのか、林道を下ったのか?それとも観光地だから、そばにバス停がある? そしてフェ―ン現象で暑苦しい富山へ。20人ほどのクサイ連中に居合わせた一般観光の皆様には、大変申し訳ございませんでした。迷惑はまだ続く。富山駅の上だったか、駅前だったかにある食堂へそのまま入る。(ビールは我慢)私は毎年、”ヤングステーキ”という名のモノを注文した。何がヤングなのか理解不能(安い?仔牛?大盛り?若者限定?)。何でこんな、どうしようない事を覚えているのかも、理解不能。腹を満たして、やっと銭湯へ。そしてお待ちかねの、乾杯ビール。後は夜行列車(能登だったか)まで、思い思いに過ごす。一度、駅から南へ真っ直ぐ歩いた。さほど行かないうちに、田畑に突き当たったように記憶している。地方都市の規模に少々戸惑った。皆で喫茶店や鮨屋、居酒屋等、町の経済にささやかながら貢献しました。繰り返しになるが、夏の富山市は、昔も暑かった。***雲取山(2017m)***言わずと知れた、東京の西の果ての最高峰、1千万都民の心の拠り所ですが、琵琶湖より西に2千m以上が無い事をおもえば、けっこう貴重な気がする。イメージは山というより、”丘”、他の山域から山座同定するのは難しいのではないだろうか(隣の飛龍山の方が目立つ)。我々は冬場しか行かなかった。勿論、暑いのがイヤだから。沢は暗いイメージがあり(深山幽谷)、アプローチも長い、ということで敬って遠ざけた。近場の沢は丹沢にかぎる。冬の平日の雲取山はすごくいい。まずクマさんは寝ている、うるさい虫もいない、人もいない、ほとんど晴れる、ラッセルするほど積もらない(スパッツ、今のゲイターは必要。アイゼン・ピッケル不要)、カヤトが美しい、そして、何よりも無料の避難小屋がある。今の小屋はログハウス風のようですが、朧げな記憶と明らかに違う。ということで、過去レコ渉猟するとありました、4・5回お世話になった旧小屋の写真。こんな感じだったか、本当に懐かしい、懐かしさが染みる。内部は結構キレイで、居心地良かったです。仲間と酒を飲んだ、楽しい小屋でした。ここで一泊する為の山行です。暁闇、東の空が明るくなってくると東京の街がムア〜ッと姿を現す。新宿の位置だけはすぐわかる。西新宿の高層ビルが、シャーペン芯のように立ってたから。東京タワーは記憶に無い。スカイツリーなんて有るわけない。当然、下山ルートはバス代が浮くから、石尾根。ほとんどのピークは巻いて(鷹ノ巣山ぐらいは上まで行ったか)、楽ないい路です。なんにせよ、私の心の山は雲取山で決まりです。***Happo、ケッコー、直滑降***一時期、八方尾根のポスターに書かれたキャッチコピーです。前に書きましたが,黒菱で合宿していました。そうしますと、朝一番に誰もいないゲレンデを滑れるわけです。16時の漁業気象から気圧配置図を描き下ろし(毎日、縦じま模様)、天気予報も見る(ほとんど、こちら頼み)。明朝晴れるとなると皆、血沸き肉躍る状態になるが、小屋当番は茫然自失(実際には翌朝にならなければわからない)。そして朝、本当に晴れていたら(強風はダメ、リフトが動かない)、名木山リフトの始発時間から逆算して出発。小屋前の短いリフト一本分を、板かついで登坂し、左へトラバースすると、兎のコブコブ急斜面に出る。さらに進み、リーゼンのコース上に立つ。ここが「朝イチリーゼン」のスタート地点。後立の稜線を見れば、まっ白で優美な曲線を描く、女王”鹿島槍”、ゴツゴツの”五竜”、しばし見惚れる。白馬三山は見飽きた。さぁ、スタート、誰かにぶつかる心配なしに、かっ飛ばし放題に滑れる快感は月並みな表現ですが、例えようがないエクスタシー。”ロシ”の2mは高速安定性が良く(K2との比較)、雪面さえ見えていれば、全く怖くなかった。かといって、直滑降じゃつまらない、大きな大きなパラレルターン。名木の壁の上で集合して、下に集まりつつある一般スキーヤーにデモンストレーション。コブはウェーデルン、緩斜面に入ってパラレル、ステップ。基礎スキー界で言うところの総合滑降です。緩斜面でトレーンやったこともある。そういえば、SAJの事務所は名木山にあった、見られていたはず。いつ頃からか早朝、雪上車で整地するようになった。当然、コブも削る。名前どうり、「リーゼンスラロームコース」になるわけです。まるで我々の為にやっているようでした。そうなるとウェーデルンはいらない、更にスピードアップして、ノンストップで名木山へ行ける(名木の壁は左から巻いた)。本当に直滑降する奴もいて、後ろから「ドケ〜」、危ないったらない(何処まで続けられたかは知らない)。ゴールすると、ジンジンとキタキタ〜ッ、足裏(土踏まず)の疲労感が半端ないことに。即、バックルを全開放して、仰向けに寝そべり、荒い息の中で快楽に耽る。1年に数回しか味わえない贅沢な時間でした。国内で他の名のあるビッグゲレンデも行きましたが(全部行ったわけではない)、ココに勝るコースは無い。2ndは野沢温泉のスカイライン、(一部狭いのが難点)3rdはニセコ。「ビバ!、リーゼン‼」***山の歌***合宿中、良く歌いました。高校でも大学でも、サークル自作の歌集が代々受け継がれていて、メロディー教えてもらうと酒の力もあって、結構早く覚えられた。私の一番のお気に入りは「エーデルワイスの歌」。有名なサウンドオブミュージックのそれではなく、法政大学山岳部歌です。まさかあるまいと思いつつ、YouTubeで検索すると、何と‼3件ヒットした。中でもAndrea様の「ピアノ演奏」が、我々のバージョンに一番近い。伸ばす場所が違うぐらいで、違和感は無い。もっとも我々の方が亜流である可能性が高いのですが。ありがたいことに、歌詞も添付されています。この歌はヨーロッパアルプスの四季(+結び。ここは日本的)を歌っているのですが、北アルプスを想いながらでも、さほど変ではありません。添付された歌詞は春・秋・夏・冬になっておりますが?、我々は四季通り歌った。雰囲気たっぷりの詞なので、是非一度ご覧ください。ここでは私の好きな”結び”だけ借用させていただきます。
ああ〜玲瓏(れいろ〜う)の雪の高嶺(たかね)に〜
心(こ〜ころ)静か〜に頂(いただき)に立ち〜
尊き(とおと〜き)山(や〜ま)の教えを受〜けん    
身(み〜)も〜、魂(ここ〜ろ)も穢れ(けがれ)は消えて〜
永久(と〜わ〜)に輝く(か〜がやく)、白光(びゃっこう)の内に〜 
清き(き〜よ〜き)幸を〜ば、求めーーよ、得(う)るらんーー。
【玲瓏】 宝石の玉(ぎょく)のように、透き通り美しく輝いているさま。
【白光】 白い色の光、つまり昼間の太陽の光のことらしい。
我々のバージョンのクライマックスは、最後の「求めよ得るらん」ですが、一段、声を大きくして、息の続く限りーーの部分を伸ばします。
 2nd,  昭和40年3月に日高山系で、起きてしまった遭難事故の鎮魂歌です。北大山岳部の6人パーティーが、札内川十ノ沢にて雪崩に巻き込まれ、全員帰らぬ人となってしまいました。YouTubeにもupされていますが(「緑咲香澄が歌う山の歌」より)、これは詞・曲ともに、我々の知るものとは全く別物です。思い出せる限りの詞を披露して、彼らのご冥福をお祈りしたいと思います。
銀雪(ぎんせつ)光り、空青く、大地の歴史、秘めて立つ、
日高山系、縦走を、目指すは、北大山の会。
パーティー6人、札内を、起ちて、登るは十ノ沢、
悲運は来たる、一瞬に、ビバ―ク襲う、底雪崩。
仲間よ許せ、父、母よ、友よ、下宿のおばさんよ、 
瞼(まぶた)に、浮かぶ、走馬灯、ああ白き闇、黒き影。
若きリーダー、二十三、青春、悲しき新調の、
背広に、未練を、残しつつ、天に登ると、ペンの跡(あと)
 紙面が無くなりました。以後、思い出した事・書きたい事、有る時は「日記」にて記したいと思います。ありがとうございました、とりあえずは獲麟。


続く