西大寺(別名観音院)は地方屈指の大寺で吉井川の河口に位置していたことから庶民信仰を集め門前町が形成されていました。
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12/1 10:26
西大寺(別名観音院)は地方屈指の大寺で吉井川の河口に位置していたことから庶民信仰を集め門前町が形成されていました。
現存する三重塔は1675年のもの。写真の仁王門や本堂など境内の建物は江戸時代のものです。
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12/1 10:24
現存する三重塔は1675年のもの。写真の仁王門や本堂など境内の建物は江戸時代のものです。
吉井川の堤防付近にあった常夜灯。西大寺からの牛窓方面の船はこの場所か少し北側にある河本町から発着していたと思われます。ちなみに西大寺を経由しない岡山-牛窓直行ルートは金岡で渡っていたようです。
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12/1 10:31
吉井川の堤防付近にあった常夜灯。西大寺からの牛窓方面の船はこの場所か少し北側にある河本町から発着していたと思われます。ちなみに西大寺を経由しない岡山-牛窓直行ルートは金岡で渡っていたようです。
仁王門の前にある石橋を渡ってスタート。
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12/1 10:38
仁王門の前にある石橋を渡ってスタート。
そのまま道なりに。右手の中国銀行の建物が立派です。こういう立派な建物がある場所は町の中心である場合が多いですね。
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12/1 10:41
そのまま道なりに。右手の中国銀行の建物が立派です。こういう立派な建物がある場所は町の中心である場合が多いですね。
西大寺の門前は雰囲気のある街並みが残ります。ここから河本町にかけては映画の撮影が行われたりと人気のある場所です。
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12/1 10:42
西大寺の門前は雰囲気のある街並みが残ります。ここから河本町にかけては映画の撮影が行われたりと人気のある場所です。
西川に架かる橋。この千年橋は1917年のもの。この地の繁栄を願って命名されたもののようです。
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12/1 10:44
西川に架かる橋。この千年橋は1917年のもの。この地の繁栄を願って命名されたもののようです。
西川沿いに進みます。灌漑用に作られた川で吉井川の西側にある川なので西川となっています。
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12/1 10:46
西川沿いに進みます。灌漑用に作られた川で吉井川の西側にある川なので西川となっています。
ここを左。
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ここを左。
直進していくと西大寺バスターミナルが目の前に現れます。ここは両備グループ創業の地。
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12/1 10:53
直進していくと西大寺バスターミナルが目の前に現れます。ここは両備グループ創業の地。
かつての西大寺鉄道はこの場所(西大寺市駅)から岡山城下の後楽園まで走っていました。経営は良かったものの赤穂線開通のため廃止に。補償交渉は何かと大変だったみたいです。
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12/1 10:56
かつての西大寺鉄道はこの場所(西大寺市駅)から岡山城下の後楽園まで走っていました。経営は良かったものの赤穂線開通のため廃止に。補償交渉は何かと大変だったみたいです。
昭和11年製の車両。前後のデッキには荷物や自転車を載せていたそうです。街道は大多羅あたりまで廃線跡(自転車道)に沿って進んでいきます。
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12/1 11:11
昭和11年製の車両。前後のデッキには荷物や自転車を載せていたそうです。街道は大多羅あたりまで廃線跡(自転車道)に沿って進んでいきます。
ここを右へ。西大寺集落の出入り口だからなのか桝形のような屈曲した道筋になっています。
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12/1 11:15
ここを右へ。西大寺集落の出入り口だからなのか桝形のような屈曲した道筋になっています。
道なりに左へ。鳥居の奥にある自転車道が西大寺鉄道の廃線跡になります。
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道なりに左へ。鳥居の奥にある自転車道が西大寺鉄道の廃線跡になります。
地下道がありますがそのまま直進します。
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地下道がありますがそのまま直進します。
砂川の堤防が見えてきました。かつて新橋が架かっていた場所です。右手の橋で迂回して川向うへ。
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12/1 11:25
砂川の堤防が見えてきました。かつて新橋が架かっていた場所です。右手の橋で迂回して川向うへ。
この川を境にして西大寺の集落を抜けます。
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12/1 11:28
この川を境にして西大寺の集落を抜けます。
旧道復活。新橋を渡ると旧道は2つに分かれます。今回の道は古地図に多く描かれたルートですが、ここで分かれるもう一つの道は伊能図に描かれた道で現在の県道沿いになります。
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12/1 11:31
旧道復活。新橋を渡ると旧道は2つに分かれます。今回の道は古地図に多く描かれたルートですが、ここで分かれるもう一つの道は伊能図に描かれた道で現在の県道沿いになります。
住宅街を進み旧西大寺鉄道の廃線跡を横切ります。
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12/1 11:40
住宅街を進み旧西大寺鉄道の廃線跡を横切ります。
すぐに赤穂線と横切ります。
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すぐに赤穂線と横切ります。
このタイプの車両はめっきり少なくなりましたが岡山地区ではまだまだ多いです。
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このタイプの車両はめっきり少なくなりましたが岡山地区ではまだまだ多いです。
石橋。橋脚は昔のまま。橋は下を覗き込んでみると意外な発見があります。
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12/1 11:47
石橋。橋脚は昔のまま。橋は下を覗き込んでみると意外な発見があります。
この先で倉安川と合流します。左へ。
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12/1 11:49
この先で倉安川と合流します。左へ。
野菜を洗う昔ながらの光景。倉安川は吉井川と旭川を結ぶ1679年に築かれた人口河川で元々あった用水路などを繋ぎ合わせて作られています。南部の干拓地への水路であるとともに高瀬舟の運河でもありました。
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12/1 11:53
野菜を洗う昔ながらの光景。倉安川は吉井川と旭川を結ぶ1679年に築かれた人口河川で元々あった用水路などを繋ぎ合わせて作られています。南部の干拓地への水路であるとともに高瀬舟の運河でもありました。
赤穂線の踏切の名前に「倉安川」
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12/1 12:02
赤穂線の踏切の名前に「倉安川」
大多羅付近。車は結構頻繁に走っています。
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大多羅付近。車は結構頻繁に走っています。
たんたんと西に向かいます。
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12/1 12:17
たんたんと西に向かいます。
南の方角を見ると平地が広がっていますが児島湾を干拓したもので、かつては大部分が海でした。
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12/1 12:18
南の方角を見ると平地が広がっていますが児島湾を干拓したもので、かつては大部分が海でした。
百間川の堤防が見えてきました。奥に正木城跡も見えます。
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12/1 12:25
百間川の堤防が見えてきました。奥に正木城跡も見えます。
百間川。現在はそこそこの川幅ですが、昭和40年代までは通常時は用水路のような川筋しかなく街道には小さな橋が架けられていた程度で、正木城跡横まで一直線で伸びていました。古い航空写真を見れば一目瞭然です。
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12/1 12:26
百間川。現在はそこそこの川幅ですが、昭和40年代までは通常時は用水路のような川筋しかなく街道には小さな橋が架けられていた程度で、正木城跡横まで一直線で伸びていました。古い航空写真を見れば一目瞭然です。
百間川は岡山城付近を流れる旭川を外堀の役目をもたせるための付け替えが誕生の発端で蛇行する水路は洪水をたびたび引き起こすのでバイパスとして作られています。
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12/1 12:27
百間川は岡山城付近を流れる旭川を外堀の役目をもたせるための付け替えが誕生の発端で蛇行する水路は洪水をたびたび引き起こすのでバイパスとして作られています。
橋で迂回します。南の方角に鷲羽山が見えてきました。かつては海だった児島湾。生まれた新田は沖新田と名付けられています。
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12/1 12:54
橋で迂回します。南の方角に鷲羽山が見えてきました。かつては海だった児島湾。生まれた新田は沖新田と名付けられています。
旧道復帰。右手に正木城跡があります。
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12/1 12:58
旧道復帰。右手に正木城跡があります。
追分。右に進むと西国街道の勅旨へ通ずる古くからの道筋です。古地図には江戸末期にかけても描かれてるルートで東山峠を避けたい人など距離は多少長くなっても重宝されていたと思われます。ちなみに現在は勅旨という地名はなく乙多見あたりになります。
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12/1 13:01
追分。右に進むと西国街道の勅旨へ通ずる古くからの道筋です。古地図には江戸末期にかけても描かれてるルートで東山峠を避けたい人など距離は多少長くなっても重宝されていたと思われます。ちなみに現在は勅旨という地名はなく乙多見あたりになります。
その道筋はこのような感じです。脇に石仏がありいかにも古くからの道といった風情でした。
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12/1 13:02
その道筋はこのような感じです。脇に石仏がありいかにも古くからの道といった風情でした。
倉安川沿いのルートに戻ります。この辺り海面山などの名前にかつては海沿いだったことを連想させる地名が続きます。
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12/1 13:04
倉安川沿いのルートに戻ります。この辺り海面山などの名前にかつては海沿いだったことを連想させる地名が続きます。
倉安川の水路図。昭和40年代より改修が行われていて今の立派な河川になったようです。
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12/1 13:09
倉安川の水路図。昭和40年代より改修が行われていて今の立派な河川になったようです。
橋の上に立つ常夜灯と天照大御神の石柱。もちろん元々橋の上にあったものではなく車の通行の邪魔になるからと移設されたものです。
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12/1 13:13
橋の上に立つ常夜灯と天照大御神の石柱。もちろん元々橋の上にあったものではなく車の通行の邪魔になるからと移設されたものです。
川筋は真新しい感じですが周辺は古さを感じさせるものが幾つも残っています。
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12/1 13:14
川筋は真新しい感じですが周辺は古さを感じさせるものが幾つも残っています。
丸端の井戸。この辺りの山沿いには湧水が多く水質は良好だそうです。上水道が出来てからは使う人が減ったと書かれてあります。
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12/1 13:21
丸端の井戸。この辺りの山沿いには湧水が多く水質は良好だそうです。上水道が出来てからは使う人が減ったと書かれてあります。
岡山名物のメタル茅葺き。
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12/1 13:29
岡山名物のメタル茅葺き。
左手から西大寺の新橋で分かれた伊能忠敬ルートと合流します。
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左手から西大寺の新橋で分かれた伊能忠敬ルートと合流します。
道なりに進み倉安川の右岸へ。
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12/1 13:38
道なりに進み倉安川の右岸へ。
古地図でもここで橋を渡っていたことから橋は古い時代からあったものと思われます。
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12/1 13:42
古地図でもここで橋を渡っていたことから橋は古い時代からあったものと思われます。
所々で古い常夜灯を見かけます。
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12/1 13:45
所々で古い常夜灯を見かけます。
ここを右へ。
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12/1 13:48
ここを右へ。
岡山藩主の菩提寺である曹源寺が山のほうに見え街道からは参道が伸びています。紅葉の名所のようで観光で訪れる人が多いようです。
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12/1 13:51
岡山藩主の菩提寺である曹源寺が山のほうに見え街道からは参道が伸びています。紅葉の名所のようで観光で訪れる人が多いようです。
圓山とはこの辺りの地名です。不動尊への道標がありました。
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12/1 13:54
圓山とはこの辺りの地名です。不動尊への道標がありました。
石高神社からの眺め。石段が大変でしたがせっかくなら登っておきたいものです。古い時代は海原が広がっていたことでしょう。
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12/1 13:56
石高神社からの眺め。石段が大変でしたがせっかくなら登っておきたいものです。古い時代は海原が広がっていたことでしょう。
石高神社は現存する神名帳で一番古い備前国総社神名帳綿抜本または総社本(863年頃)に既に載っている古社です。現在地は移転でのもので新田開発の折に地域を守護するため、この場所になったという話があります。
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12/1 13:57
石高神社は現存する神名帳で一番古い備前国総社神名帳綿抜本または総社本(863年頃)に既に載っている古社です。現在地は移転でのもので新田開発の折に地域を守護するため、この場所になったという話があります。
この辺り古くからの寺や古墳が多いことから古い時代から安定した土地であったことがわかります。
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12/1 14:05
この辺り古くからの寺や古墳が多いことから古い時代から安定した土地であったことがわかります。
追分。左から西大寺を経由しない牛窓からの直行ルートと合流します。新田開発で出来た土地の上をほぼ直線で結ぶ道筋で牛窓往来の中でも新しい時代のものです。
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12/1 14:15
追分。左から西大寺を経由しない牛窓からの直行ルートと合流します。新田開発で出来た土地の上をほぼ直線で結ぶ道筋で牛窓往来の中でも新しい時代のものです。
ここは左。右は明治道になります。明治道は勾配を緩和するような道筋をとっています。
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12/1 14:20
ここは左。右は明治道になります。明治道は勾配を緩和するような道筋をとっています。
県道と合流します。
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12/1 14:21
県道と合流します。
その交差点付近にあった池ノ内大池。大池は江戸時代に出来た灌漑用の池で茶屋などが立ち並び街道を行く人々に親しまれたそうです。
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12/1 14:21
その交差点付近にあった池ノ内大池。大池は江戸時代に出来た灌漑用の池で茶屋などが立ち並び街道を行く人々に親しまれたそうです。
県道を進みます。明治道が出来てから通過交通は明治道に移行しましたが、かつての旧道は民家が残り旧態依然の様子が長年あったそうです。県道を改修するおり旧道が原点回帰でメインとして復活するようになります。
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12/1 14:21
県道を進みます。明治道が出来てから通過交通は明治道に移行しましたが、かつての旧道は民家が残り旧態依然の様子が長年あったそうです。県道を改修するおり旧道が原点回帰でメインとして復活するようになります。
県道の右脇に残る旧道。
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12/1 14:23
県道の右脇に残る旧道。
県道の右脇に残る旧道その2。
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12/1 14:23
県道の右脇に残る旧道その2。
この交差点で県道に合流します。
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12/1 14:25
この交差点で県道に合流します。
こう見るとなかなかの勾配です。ただこれは改修後のもので、かつてのレベルはもう少し緩やかで次に出てくる神社あたりで一気に勾配をあげる感じだったのではと思います。
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12/1 14:30
こう見るとなかなかの勾配です。ただこれは改修後のもので、かつてのレベルはもう少し緩やかで次に出てくる神社あたりで一気に勾配をあげる感じだったのではと思います。
神社横に残る旧道の痕跡。スロープ状の道を上っていきます。
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12/1 14:35
神社横に残る旧道の痕跡。スロープ状の道を上っていきます。
石段を上って明治道へ。
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石段を上って明治道へ。
この辺りが明治道と旧道の合流地点。明らかに不自然な地形で盛り土がなされたりしているのがわかります。
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12/1 14:39
この辺りが明治道と旧道の合流地点。明らかに不自然な地形で盛り土がなされたりしているのがわかります。
峠の集落。紅葉が多くきれいでした。
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12/1 14:40
峠の集落。紅葉が多くきれいでした。
ここを左へ。右は明治道。
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12/1 14:43
ここを左へ。右は明治道。
東山峠の交差点。不自然に旧道が下がっているのは新道を通す際に掘り下げられたもの。一丈あまり(3メートル強)掘り下げたと文献に残っています。
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12/1 14:43
東山峠の交差点。不自然に旧道が下がっているのは新道を通す際に掘り下げられたもの。一丈あまり(3メートル強)掘り下げたと文献に残っています。
車道の右脇に旧道の痕跡。
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12/1 14:44
車道の右脇に旧道の痕跡。
道なりに直進。
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道なりに直進。
道幅を広げた跡があります。
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12/1 14:50
道幅を広げた跡があります。
峠道路改修記念碑。江戸初期は倉益新田・曹源寺への道としての 意味が大きかった峠道は農業、商業が盛んになるにつれ西大寺や牛窓への道として重視されるようになります。明治9年に大改修工事が行われています。
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12/1 14:50
峠道路改修記念碑。江戸初期は倉益新田・曹源寺への道としての 意味が大きかった峠道は農業、商業が盛んになるにつれ西大寺や牛窓への道として重視されるようになります。明治9年に大改修工事が行われています。
ここを左へ。
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12/1 14:53
ここを左へ。
わかりづらいですがなかなかの勾配です。
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12/1 14:55
わかりづらいですがなかなかの勾配です。
道なりに左へ。
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12/1 14:56
道なりに左へ。
峠道に石仏が多いのは難所であった証し。
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12/1 14:57
峠道に石仏が多いのは難所であった証し。
権現坂から岡山市街を望む。
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権現坂から岡山市街を望む。
道なりにたんたんと下ります。
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道なりにたんたんと下ります。
東山公園の脇の道へと入ります。
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東山公園の脇の道へと入ります。
新道に合流。左へ。
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新道に合流。左へ。
しばらく路面電車と並行して進みます。
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しばらく路面電車と並行して進みます。
ここを右へ。資料によっては曲がる場所が違いますが城下の古地図を見ると明らかにここで曲がっています。
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ここを右へ。資料によっては曲がる場所が違いますが城下の古地図を見ると明らかにここで曲がっています。
道なりに進みます。
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道なりに進みます。
ここで右手から西国街道と合流します。
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ここで右手から西国街道と合流します。
旭川を渡って道路元標のある場所まで。
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旭川を渡って道路元標のある場所まで。
京橋の古い欄干と新型路面電車。
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12/1 15:37
京橋の古い欄干と新型路面電車。
京橋のたもとでゴールとしました。
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12/1 15:41
京橋のたもとでゴールとしました。
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