霧ヶ峰 1925m

コースタイム
5/16(水)ヒュッテ霧ヶ峰――強清水6:50ーー7:22上諏訪ーー高島城ーー諏訪湖畔、間欠泉ーー上諏訪10:48――13:50新宿――赤羽――15:00尾久17:00――田端――羽田18:45――20:15新千歳20:34――札幌――21:22桑園
電車の中で、新千歳が近くなってから、愛用のデジカメを家に忘れたことに気が付いた。何たること。現地で使い捨てカメラを買って、帰ってからフィルムをスキャンした。使い捨てカメラもスキャナも初めてで写真は不本意なものばかりである。
天候 | 晴れ |
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過去天気図(気象庁) | 2007年05月の天気図 |
写真
昨日、蓼科山の岩礫の道に参ってしまい、疲れがとれず足も痛い。今日はズルをしてリフトで山頂まで上がることにした。好都合なことにここは車山の北斜面で、車山高原スキー場である。リフトは夏も運行している。
この観測所は1999年(平成11年)に設置したレーダーによる気象観測を行うための施設です。建物上部の丸いドームの中には直径4mのパラボラアンテナがあり、このアンテナを回転させながら電波を発射し、雨や雪による反射波を測定することで広い範囲の雨や雪の強さや移動を時々刻々観測しています。
レーダーで観測されるデータは日々の気象予報をはじめ集中豪雨などによる災害を未然に防ぐための防災気象情報の発表に利用しています。
尚この建物に危険はありませんが内部には高周波高電圧を使用している機器が入っています。建物内部には絶対に立ち入らないで下さい。
長野地方気象台
新田次郎、本名藤原寛人は甥である。壮絶な、満州からの引き揚げ記でベストセラーになった「流れる星は生きている」の著者・藤原ていは彼の奥さんである。
彼はM45諏訪市角間新田に次男として生まれた。
S7中央気象台に就職、5年間富士山測候所に勤務した。
無線ロボット雨量計を発明し、運輸大臣賞を受賞したこともある。
満州から引き揚げ、復職した彼は、生計の足しに、書く事を始める。
富士を知り尽くし、郷土を愛した彼は、二足の草鞋で、富士山にまつわるものや、山や気象に関係したものを書き、S31「強力伝」が直木賞に入選した。
測器課長当時、富士山気象レーダー設置の責任者だった。標高3700mでの工事である、資材の荷揚げだけでも大変である。厳しい気象や高山病と戦いながらの、前例のない難工事だったが、S39完工した。この経緯は「富士山頂」に詳しい。
S30代、日本列島には相次いで大型台風が上陸、甚大な被害をもたらした。
台風をいち早くとらえ、精確に観測することが急務となった。「富士山頂に気象レーダーを!」これが当時の関係者の悲願だったのである。
現在は気象衛星に取って代わられたが、当時は最新鋭のそして必要不可欠の観測施設だった。平成13年9月に取り壊され、富士吉田市の「富士山レーダードーム館」に展示されている。
S41、定年を6年余して気象庁を退職、筆1本に専念。
「孤高の人」刊行に当たって彼は「なぜ山に登るのか」を解いてみたくて、といっている。
S48「武田信玄」と1連の山岳小説で吉川英治賞受賞。
彼は、僕としては司馬遼太郎に次いで多く読んだ作家であり、山の知識やノウハウを広げ、深めることができたと思う。
今話題になっている「国家の品格」の著者・藤原正彦はあの時「正彦」で数学者である。
長女・咲子は、生後1月で引き揚げの旅に出、全く奇跡的に帰国を果した。しかしその時の栄養失調などのため身体的、精神的後遺症に苦しむ。母・ていともしっくりいかない。かろうじて支えたのは父・次郎の溺愛(?)だった。
12才になった彼女は恐る恐る「流れる星は生きている」を読む。「正広と正彦を生かすために咲子を犠牲に・・・」「まだ生きている」などに衝撃を受け、母に反抗する。母も「・・・だから咲子を必死で連れ帰った甲斐がない」とやり返す。全くやり切れない諍いである。どちらも悪くはない。悪いのはそのような状況を作った戦争である。
彼女はこれらのことを「父への恋文」「母への詫び状」に綴っている。
9 「グライダー滑空場入口 立入禁止」
藤原咲平はドイツ留学当時グライダーを見て興味を持ち、帰国後、ここ霧ヶ峰がグライダー滑空に適していることを発見、ここに日本で初めてグライダー協会を設立した。
感想
5/15(火)
朝目が覚めると、体全体に疲れが残っている。特に脚は筋肉痛で、立ち居も辛い。
今日は霧ヶ峰の最高峰・車山の予定だが、霧ヶ峰ロイヤルイン前からだと標高差200m足らずだが元気が出ない。
車山高原までバスで行って、スキー場のリフトで山頂まで行くことにした。最近はスキー場のリフトやロープウエーを、観光客をターゲットに夏も運行する所が多い。
昼近くなって、強清水からバスで、昨日行った車山高原へ。リフトを2本乗り継いで車山山頂に着いた。
山頂には気象庁の気象レーダーがある。これは富士山レーダーが気象衛星に取って代わられたが、これまで富士山レーダーが受け持っていた地上部分の観測をカバーするために新に設置されたものである。
山頂には新婚ほやほやか交際中と思われるカップルがいてシャッターを押してもらった。2000mに足りない山だが山頂は風が強い。
山頂を後に緩やかな整備された道を足を引きずりながら降りて行く。バス停は見えているが遠く感ずる。
緩やかに草原続き果てしなし 林こんもり道うねうねと
霧ヶ峰ロイヤルインに入って、トイレにいったり、バス時間まで暇をつぶす。修学旅行か遠足だろう、障害児学校と思われる子供たちの団体が来ていてトイレ特に女子の方は混んでいた。
バスが強清水に着くと、まだ時間が早い、このまま帰るのが惜しい気がして忘れじの丘に登ってみることにした。ここは緩やかな、横に広いスキー場である。
スキー場の原っぱでは多くの人と警察犬がいて訓練をしていた。
右端の方を登って行くとすぐ平坦な大地である。そこに藤原咲平の銅像があった。
彼は第5代気象庁長官(S16〜S22)で新田次郎の叔父に当たる人である。
忘れじの塔と鐘がある。
グライダーの滑走路もある。これは藤原咲平がドイツ留学中グライダーに興味を持ち、帰国後、グライダー滑空に適したここに日本で初めてのグライダークラブを創った。
ここからは南アルプスや北アルプスは山や林の影になって見えないが、車山や蓼科山、八ヶ岳がよくみえる。遊歩道が整備されていて手頃な散策路である。
5/16(水)今日は美ヶ原の予定であるが、今の時期はバスも無く、タクシーだと2万円近くもかかるという。この近辺にはまた来る機会もあるので美ヶ原はその時に、ということにして、今日は先日見損なった諏訪湖の間欠泉を見て、早めに東京の尾久へ行くことにした。強清水から上諏訪までは道の両側の新緑特にカラマツが鮮やかだった。
上諏訪からは、この前と同じ湖畔を通るバスに乗るつもりだったが駅前にレンタサイクルがあったので借りることにした。
これは便利だ。荷物だって。篭に積める。早速駅前から少し迂回して線路を渡って湖の方へ。東の方へより過ぎたなと思ったがお城が見える。近づいて行くと高島城・由布姫ゆかりの城である。足が痛いので中には入らなかったが立派な城である。
湖畔の間欠泉の所へ向かう。自転車で走っても結構遠い。
予定の時間が近くなると人が集まって来た。それにしても、毎日ほぼ決まった時間に噴出する、実に不思議な現象だ。予定時間になると、水蒸気を噴き始めた。吹き方が次第に強くなり、3階ぐらいの高さまで勢いよく吹き上げた。少し間をおいてまた噴き上げる。何回か繰り返して終わった。引き際も鮮やかである。
仕組みを説明した看板があり写真を撮ったが、使い捨てカメラの悲しさ、うまく写っていなかった。
上諏訪の駅で由美子さんに電話した。雨が降っているから迎えに行く。田端へ着いたら電話くれ、と。
無事田端に着いた。電話すると結梨が出て、前に大きなパチンコ屋のある出口で待っておれ、と。かくて4カ月振りに再会することとなった。
電車の中で、新千歳が近くなってから、愛用のデジカメを家に忘れたことに気が付いた。何たること。現地で使い捨てカメラを買って、帰ってからフィルムをスキャンした。使い捨てカメラもスキャナも初めてで写真は不本意なものばかりである。
写真1;蓼科山中腹の新緑。
写真2;登山道の左右の林にはまだ雪が残っていた。
写真3;南アルプスの山々。手前は八ヶ岳の裾野である。
写真4;蓼科山山頂。
写真5;蓼科山山頂の祠。蓼科山山頂は岩礫の広い原っぱだった。
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