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Yamareco

記録ID: 2825559
全員に公開
無雪期ピークハント/縦走
東海

大通寺山(110m) 医王寺山(121m) 天神山(100m) 愛宕本宮山(196.7m) 愛宕山(178m) 中久津山(217m) 天神山(185m)・長篠城跡 湯谷温泉

2020年12月29日(火) [日帰り]
 - 拍手
体力度
2
日帰りが可能
GPS
03:31
距離
10.7km
登り
530m
下り
525m
歩くペース
速い
0.80.9
ヤマレコの計画機能「らくルート」の標準コースタイムを「1.0」としたときの倍率です。

コースタイム

日帰り
山行
3:42
休憩
0:16
合計
3:58
10:18
7
10:24
10:25
18
10:42
10:43
6
10:49
10:54
20
11:14
11:14
6
11:20
11:23
147
13:50
13:50
4
13:54
13:59
4
14:03
14:04
8
14:11
14:14
2
14:16
ゴール地点
天候 晴れ
過去天気図(気象庁) 2020年12月の天気図
アクセス
利用交通機関:
自家用車
大通寺

長篠城跡より
「長篠の戦」歴史探訪コ−スが整備されています。

「長篠の戦い」歴史探求コース

城藪稲荷
長篠城鎮守の稲荷をお祭りしてあります。
杯井
天正三年五月十九日、武田四将の馬場信房、内藤昌豊、山県昌景及び土屋昌次が決死の腹を固め、この泉に水を汲んで別れの水杯をかわしたといわれる井です。
達磨山大通寺
この寺は応永十八年(一四一一)の創立と伝えられています。のちに、琴室契音大和尚(長篠山医王寺二世)が曹洞宗に改宗し、地蔵菩薩を本尊として草創開山しました。
天正三年(一五七五)「長篠の戦い」の時には武田軍の武将馬場信房、小山昌行らの陣地となった所です。



達磨山大通寺

本尊 地蔵大菩薩
本尊延命地蔵は、平安時代中期の京仏師である春日定朝作と伝えられている。
由緒
応永十八年(一四一一)の創立と伝えられるが、天正の兵乱で古記録、重宝を失った。のち琴室契音禅師が医王寺を曹洞宗に改宗し嗣法長徳首座を開基とした。故に草創開山は琴室契音大和尚である。由来暦住の大和尚が十六代続き、現在は医王寺住職が兼任している。
境内堂祠
庚申堂内の庚申像は昔、橋場にあったものを当地に移したという。彩色極美である。城跡にあった城藪稲荷の石祠は享保二年(一七一七)の建立であるが平成十九年大道寺境内に移転した。
史跡
長篠城の本丸、巴城郭、瓢郭を眼下に見る丘にあって、天正三年(一五七五)の長篠の戦いの時、武田軍の宿将軍馬場信房、武田信豊、小山昌行等諸将の率いる二千人がこの大通寺山に配備されていた。医王寺山本陣で軍議が開かれ、設楽原に進撃と決まった時、敗戦を覚悟して寺の裏山の清水の涌井戸で馬柄杓で別れの杯を汲み交わした杯井戸が本堂裏にあり、そのそばに杯井戸の碑と句碑、歌碑が、本堂前には菅沼琉山碑もある。
句碑(文政十年ー1827ー 三河の俳人 作)
二口とのまずにむせぶ清水かな
句碑(昭和五十四年建立、山川浩 作)
「これまでと汲みかはしたる盃のみずもみにしむ長篠の里」
2020年12月29日 10:22撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 10:22
大通寺

長篠城跡より
「長篠の戦」歴史探訪コ−スが整備されています。

「長篠の戦い」歴史探求コース

城藪稲荷
長篠城鎮守の稲荷をお祭りしてあります。
杯井
天正三年五月十九日、武田四将の馬場信房、内藤昌豊、山県昌景及び土屋昌次が決死の腹を固め、この泉に水を汲んで別れの水杯をかわしたといわれる井です。
達磨山大通寺
この寺は応永十八年(一四一一)の創立と伝えられています。のちに、琴室契音大和尚(長篠山医王寺二世)が曹洞宗に改宗し、地蔵菩薩を本尊として草創開山しました。
天正三年(一五七五)「長篠の戦い」の時には武田軍の武将馬場信房、小山昌行らの陣地となった所です。



達磨山大通寺

本尊 地蔵大菩薩
本尊延命地蔵は、平安時代中期の京仏師である春日定朝作と伝えられている。
由緒
応永十八年(一四一一)の創立と伝えられるが、天正の兵乱で古記録、重宝を失った。のち琴室契音禅師が医王寺を曹洞宗に改宗し嗣法長徳首座を開基とした。故に草創開山は琴室契音大和尚である。由来暦住の大和尚が十六代続き、現在は医王寺住職が兼任している。
境内堂祠
庚申堂内の庚申像は昔、橋場にあったものを当地に移したという。彩色極美である。城跡にあった城藪稲荷の石祠は享保二年(一七一七)の建立であるが平成十九年大道寺境内に移転した。
史跡
長篠城の本丸、巴城郭、瓢郭を眼下に見る丘にあって、天正三年(一五七五)の長篠の戦いの時、武田軍の宿将軍馬場信房、武田信豊、小山昌行等諸将の率いる二千人がこの大通寺山に配備されていた。医王寺山本陣で軍議が開かれ、設楽原に進撃と決まった時、敗戦を覚悟して寺の裏山の清水の涌井戸で馬柄杓で別れの杯を汲み交わした杯井戸が本堂裏にあり、そのそばに杯井戸の碑と句碑、歌碑が、本堂前には菅沼琉山碑もある。
句碑(文政十年ー1827ー 三河の俳人 作)
二口とのまずにむせぶ清水かな
句碑(昭和五十四年建立、山川浩 作)
「これまでと汲みかはしたる盃のみずもみにしむ長篠の里」
大通寺 盃井戸
決戦前夜に別れの水杯を酌み交わした井戸

大通寺と盃井戸

達磨山大通寺は応永18(1411)年の創立と伝えられるが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山した。
天正3(1575)年の長篠の戦の時には、武田軍の武将馬場信房、武田信豊、小山田昌行らの陣地となり、設楽が原に出撃して織田・徳川の連合軍と決戦することになった時、諸将がこの寺の井戸に集まり、その水をかわし合って訣別の盃として出陣して行った。その後このことから盃井戸と呼ばれている。
2020年12月29日 10:25撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 10:25
大通寺 盃井戸
決戦前夜に別れの水杯を酌み交わした井戸

大通寺と盃井戸

達磨山大通寺は応永18(1411)年の創立と伝えられるが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山した。
天正3(1575)年の長篠の戦の時には、武田軍の武将馬場信房、武田信豊、小山田昌行らの陣地となり、設楽が原に出撃して織田・徳川の連合軍と決戦することになった時、諸将がこの寺の井戸に集まり、その水をかわし合って訣別の盃として出陣して行った。その後このことから盃井戸と呼ばれている。
大通寺山陣跡 二千人
武田信豊 長野・北佐久・小諸の城主、信繁の子(勝頼の従兄)
馬場信房 長野・更科・牧の島の城主。
小山田昌行 山梨・中巨摩・上石田に住む・
五月十三日 長篠城瓢郭を攻めて兵糧庫を奪った。
  十四日 武田軍は長篠城総攻撃、それより後は長囲み(食料攻め)の構えをとる。
  十八日 織田・徳川連合軍は設楽原へ到着し陣地を築き始める
  十九日 武田軍医王寺本陣んで軍議。馬場信房はじめ重臣の主張はいれられず設楽原出撃決定。馬場信房・山県昌景・内藤昌豊・土屋昌次ら四名の武将は討死を覚悟して大通寺の泉で別れの水杯をかわした。
  二十日 豊川渡河、設楽原へ陣をしく。(小山田は長篠城押さえ)
  二十一日 設楽原決戦に連吾川上流方面で戦い、武田軍撤退の時に馬場信房は殿をつとめ、勝頼を見送ったのちに織田軍の士に首をあたえたという。
2020年12月29日 10:28撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 10:28
大通寺山陣跡 二千人
武田信豊 長野・北佐久・小諸の城主、信繁の子(勝頼の従兄)
馬場信房 長野・更科・牧の島の城主。
小山田昌行 山梨・中巨摩・上石田に住む・
五月十三日 長篠城瓢郭を攻めて兵糧庫を奪った。
  十四日 武田軍は長篠城総攻撃、それより後は長囲み(食料攻め)の構えをとる。
  十八日 織田・徳川連合軍は設楽原へ到着し陣地を築き始める
  十九日 武田軍医王寺本陣んで軍議。馬場信房はじめ重臣の主張はいれられず設楽原出撃決定。馬場信房・山県昌景・内藤昌豊・土屋昌次ら四名の武将は討死を覚悟して大通寺の泉で別れの水杯をかわした。
  二十日 豊川渡河、設楽原へ陣をしく。(小山田は長篠城押さえ)
  二十一日 設楽原決戦に連吾川上流方面で戦い、武田軍撤退の時に馬場信房は殿をつとめ、勝頼を見送ったのちに織田軍の士に首をあたえたという。
大通寺山(110m)
2020年12月29日 10:30撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 10:30
大通寺山(110m)
「長篠の戦い」歴史探求コース医王寺
医王寺は永正十一(一五一四)年克補契嶷(こくほかいぎょく)大和尚・二世琴室契音(きんしつかいおん)大和尚によって創立された曹洞宗にお寺です。
一年を通し、四季折々の花々が咲き乱れ、春にはコブシにモクレン、夏には弁財池に咲き誇るハスが多くに人々の目を楽しませ、心を落ち着かせてくれます。秋には弥陀池にほとりのモミジが色づき、参道を染めます。冬にはクロガネモチが赤い実をつけ、白にほんのり紅をさしたサザンカとのコントラストがすばらしく、鳥たちのさえずりがひときわ賑やかです。四季を通して訪れる人々の多いお寺です。
天正三(一五七五)年に、織田・徳川連合軍と武田軍の間に起こった「長篠の戦い」では、ここ医王寺に武田勝頼の本陣が置かれました。勝頼は長篠城を包囲し、窮地陥った奥平貞昌は徳川家康に救援を要請しました。武田軍と織田・徳川連合軍は設楽原で激突し、連合軍は織田信長の考えによる火縄銃を用いた戦法によって、武田軍に圧勝しました。医王寺には長篠の戦いにまつわる伝説が残っています。決戦前夜のこと、勝頼の枕元に白髪の老人が立ち、「明日の決戦は無謀だ、戦いをやめて故郷に帰れ」といさめたところ夢うつつに勝頼はとっさに傍らの太刀をとり、老人の肩口に切りつけました。老人は煙のように消えましたが、翌朝、弥陀池久葦がすべて片葉となったというお話です。

弥陀池のほとりには、
「忠言元耳に逆らうひとは反求の深さを要す片葉千秋の恨み誰が為に心を尽くす」
と書かれた横山良仙作の漢詩碑がたっています。
2020年12月29日 10:39撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 10:39
「長篠の戦い」歴史探求コース医王寺
医王寺は永正十一(一五一四)年克補契嶷(こくほかいぎょく)大和尚・二世琴室契音(きんしつかいおん)大和尚によって創立された曹洞宗にお寺です。
一年を通し、四季折々の花々が咲き乱れ、春にはコブシにモクレン、夏には弁財池に咲き誇るハスが多くに人々の目を楽しませ、心を落ち着かせてくれます。秋には弥陀池にほとりのモミジが色づき、参道を染めます。冬にはクロガネモチが赤い実をつけ、白にほんのり紅をさしたサザンカとのコントラストがすばらしく、鳥たちのさえずりがひときわ賑やかです。四季を通して訪れる人々の多いお寺です。
天正三(一五七五)年に、織田・徳川連合軍と武田軍の間に起こった「長篠の戦い」では、ここ医王寺に武田勝頼の本陣が置かれました。勝頼は長篠城を包囲し、窮地陥った奥平貞昌は徳川家康に救援を要請しました。武田軍と織田・徳川連合軍は設楽原で激突し、連合軍は織田信長の考えによる火縄銃を用いた戦法によって、武田軍に圧勝しました。医王寺には長篠の戦いにまつわる伝説が残っています。決戦前夜のこと、勝頼の枕元に白髪の老人が立ち、「明日の決戦は無謀だ、戦いをやめて故郷に帰れ」といさめたところ夢うつつに勝頼はとっさに傍らの太刀をとり、老人の肩口に切りつけました。老人は煙のように消えましたが、翌朝、弥陀池久葦がすべて片葉となったというお話です。

弥陀池のほとりには、
「忠言元耳に逆らうひとは反求の深さを要す片葉千秋の恨み誰が為に心を尽くす」
と書かれた横山良仙作の漢詩碑がたっています。
新城市指定文化財
種別・名称 (史跡)医王寺山武田勝頼本陣跡

この医王寺山は、天正3(1575)年武田勝頼が長篠城攻略に際し、陣城として使った跡といわれ、広島市立図書館、浅野文庫所蔵の諸国古城図のうち「勝頼陣城」として描かれた絵図と同様な平坦地(曲輪)が今に残っています。
なお、ここは国指定史跡「長篠城跡」、市指定史跡「馬場美濃守信房の墓」を南に控え、「鳶ヶ巣砦」跡はじめ武田軍陣地の全部が展望できる位置にあたります。
2020年12月29日 10:39撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 10:39
新城市指定文化財
種別・名称 (史跡)医王寺山武田勝頼本陣跡

この医王寺山は、天正3(1575)年武田勝頼が長篠城攻略に際し、陣城として使った跡といわれ、広島市立図書館、浅野文庫所蔵の諸国古城図のうち「勝頼陣城」として描かれた絵図と同様な平坦地(曲輪)が今に残っています。
なお、ここは国指定史跡「長篠城跡」、市指定史跡「馬場美濃守信房の墓」を南に控え、「鳶ヶ巣砦」跡はじめ武田軍陣地の全部が展望できる位置にあたります。
医王寺と医王寺山
2020年12月29日 10:40撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 10:40
医王寺と医王寺山
医王寺 山門 本殿は改修工事中
2020年12月29日 10:41撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 10:41
医王寺 山門 本殿は改修工事中
医王寺と武田勝頼本陣跡
長篠山医王寺は永正11(1514)年に創立され、曹洞宗で薬師如来を本尊とし、克補契嶽大和尚によって開山され、現在7つの末寺がある。
天正3(1575)年の長篠の戦の時、武田勝頼がここに本陣をしいた。境内の弥陀が池には、勝頼の設楽原出撃を諌めたアシが、勝頼の勘気にあって切りつけられ、片葉になったという「片葉のアシ」が生えている。
また長篠の戦の時使用した槍の穂先、矢尻、陣茶釜などが保存され、庫裡には民俗資料を豊富に集めた資料館がある。
2020年12月29日 10:41撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 10:41
医王寺と武田勝頼本陣跡
長篠山医王寺は永正11(1514)年に創立され、曹洞宗で薬師如来を本尊とし、克補契嶽大和尚によって開山され、現在7つの末寺がある。
天正3(1575)年の長篠の戦の時、武田勝頼がここに本陣をしいた。境内の弥陀が池には、勝頼の設楽原出撃を諌めたアシが、勝頼の勘気にあって切りつけられ、片葉になったという「片葉のアシ」が生えている。
また長篠の戦の時使用した槍の穂先、矢尻、陣茶釜などが保存され、庫裡には民俗資料を豊富に集めた資料館がある。
物見櫓が建つ医王寺山(121m)
「武田勝頼本陣跡」
2020年12月29日 10:48撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 10:48
物見櫓が建つ医王寺山(121m)
「武田勝頼本陣跡」
ここ医王寺山では、長篠の戦いで、武田勝頼の本陣があったところです。天正3年(1575)4月、長篠城攻略のために1万5千の大軍を率いて甲斐の国を出発した武田軍は、4月20日〜5月1日の間に4つの軍に分かれて三河に進出しているます。勝頼は4月下旬長篠城周辺に包囲網を敷き、ここ医王寺山に本陣を置きました。
5月8日 包囲を強め集中攻撃を始める
5月11日 野牛門方面で攻撃を開始
5月14日 強右衛門と金七郎は城を抜け岡崎城へ走る 二の丸・糧庫を奪われる
5月18日織田・徳川連合軍が設楽原に陣地をつくり始め、5月19日、武田本体は設楽原へ進軍を開始します。つまり、4月下旬から5月19日まで、勝頼はここ医王寺山にいたことになります。医王寺を出発して寒狭川(滝川)を渡った勝頼は、本陣を清井田へ、そして才ノ神へと進めます。5月21日早朝、背後の鳶ヶ巣山襲撃を知った勝頼は、馬防柵で待ち構える織田・徳川連合軍に決戦を挑みます。そして、最後の望みをかけ本陣を才ノ神より天王山へと移動していきます。決着は一日でつきました。連吾川を挟み、最前線で指揮をしていた勝頼でしたが、徐々に味方の敗北を知り、戦場から甲斐に向けて退却しました。勝頼にとってここ医王寺は、4つの本陣の中で唯一、勝利を夢見、幸せなときを刻んだ場所だったのかもしれません。
2020年12月29日 10:49撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 10:49
ここ医王寺山では、長篠の戦いで、武田勝頼の本陣があったところです。天正3年(1575)4月、長篠城攻略のために1万5千の大軍を率いて甲斐の国を出発した武田軍は、4月20日〜5月1日の間に4つの軍に分かれて三河に進出しているます。勝頼は4月下旬長篠城周辺に包囲網を敷き、ここ医王寺山に本陣を置きました。
5月8日 包囲を強め集中攻撃を始める
5月11日 野牛門方面で攻撃を開始
5月14日 強右衛門と金七郎は城を抜け岡崎城へ走る 二の丸・糧庫を奪われる
5月18日織田・徳川連合軍が設楽原に陣地をつくり始め、5月19日、武田本体は設楽原へ進軍を開始します。つまり、4月下旬から5月19日まで、勝頼はここ医王寺山にいたことになります。医王寺を出発して寒狭川(滝川)を渡った勝頼は、本陣を清井田へ、そして才ノ神へと進めます。5月21日早朝、背後の鳶ヶ巣山襲撃を知った勝頼は、馬防柵で待ち構える織田・徳川連合軍に決戦を挑みます。そして、最後の望みをかけ本陣を才ノ神より天王山へと移動していきます。決着は一日でつきました。連吾川を挟み、最前線で指揮をしていた勝頼でしたが、徐々に味方の敗北を知り、戦場から甲斐に向けて退却しました。勝頼にとってここ医王寺は、4つの本陣の中で唯一、勝利を夢見、幸せなときを刻んだ場所だったのかもしれません。
大通寺山 天神山の間に長篠城跡
常寒山〜船着山の稜線下
5つのピークに武田軍の砦がありました
2020年12月29日 10:50撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 10:50
大通寺山 天神山の間に長篠城跡
常寒山〜船着山の稜線下
5つのピークに武田軍の砦がありました
岩代陣地 二千人
内藤昌豊 群馬・西群馬・箕輪城代
小幡信貞 群馬・北甘楽・国峯城主
内藤昌豊のひきいる西上野(群馬県西部)の将士は豊川左岸に陣し長篠城を攻めた。設楽原決戦では、武田軍中央決隊としてはげしく戦い内藤はじめ多くの人が討死した。

有海村陣地 一千人
山県昌景 静岡・庵原・江尻城代
高坂昌澄 長野・松代・海津城の弾正昌宣の子
長篠攻めでは遊軍として豊川の対岸に陣をしく、設楽原決戦では、山県は左翼隊として戦って討死。高坂昌澄は長篠城の押さえとして残ったが後段の乱戦で討死。

篠場野陣地 千五百人
武田信廉 山梨・東山梨・桜井に住む、信玄の弟
穴山信君 山梨・南巨摩・下山城主、勝頼の従弟
原 昌  譜代の家老、陣場奉行
菅沼貞直 愛知北設楽・田峯城主・定忠
対岸に陣し、長篠城野牛郭を攻撃した。設楽原決戦では、左翼隊として戦い原は討死した。
2020年12月29日 11:04撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:04
岩代陣地 二千人
内藤昌豊 群馬・西群馬・箕輪城代
小幡信貞 群馬・北甘楽・国峯城主
内藤昌豊のひきいる西上野(群馬県西部)の将士は豊川左岸に陣し長篠城を攻めた。設楽原決戦では、武田軍中央決隊としてはげしく戦い内藤はじめ多くの人が討死した。

有海村陣地 一千人
山県昌景 静岡・庵原・江尻城代
高坂昌澄 長野・松代・海津城の弾正昌宣の子
長篠攻めでは遊軍として豊川の対岸に陣をしく、設楽原決戦では、山県は左翼隊として戦って討死。高坂昌澄は長篠城の押さえとして残ったが後段の乱戦で討死。

篠場野陣地 千五百人
武田信廉 山梨・東山梨・桜井に住む、信玄の弟
穴山信君 山梨・南巨摩・下山城主、勝頼の従弟
原 昌  譜代の家老、陣場奉行
菅沼貞直 愛知北設楽・田峯城主・定忠
対岸に陣し、長篠城野牛郭を攻撃した。設楽原決戦では、左翼隊として戦い原は討死した。
荏柄天神社
2020年12月29日 11:06撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:06
荏柄天神社
荏柄天神社の縁起

この荏柄天神社は、八百年に歴史をもつ由緒あるお宮ですが、ただ古いというだけではなく、これほど数奇な運命をたどってきたお宮はほかに例がないでしょう。この社に伝わる「荏柄山天満宮縁起」によりますと源頼朝が鎌倉の荏柄の地に草創したことにはじまります。足利尊氏や一族も大変尊崇しました。応仁の乱のころ、戦乱を避けて古河に移されました。ここは大福田村といって立派な社であったようです。のちに足利氏が一族の一色氏に祭祀を委任しましたので、その後は一色氏の所領がかわるたびに社も遷されました。武州幸手の庄から下総の小文間、そして葛飾群木の崎村と関東の地を三、四たびとかわって、この長篠の地へは、元禄十一年またまた一色氏の所領替えにともなって移ってこられたのです。この時、別当職であった満福寺の僧匠仙が、これまでの五百年の変遷を書き留めたものが「荏柄山天満宮縁起」なのです。
それから長篠の地でお祀りして三百年が経ちました。文政九年に再び新社殿造営が行われました。それまでのできごとや普請の様子など詳しい記録があります。明治になって一色氏はこのお宮のすべてを長篠の村人に委ねることになりました。今日まで百年余、たびたびの補修も時の流れに勝てず、平成四年長篠で三たびの御普請となってものです。ただ、黒末塗極上細美の神殿は覆殿の中にあって何百年もの風雪から護られ一点の腐朽もなく御神体とともに今日に伝えられております。
医王寺東塔尚行先老師依御遣志書之 平成四年十一月
2020年12月29日 11:07撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:07
荏柄天神社の縁起

この荏柄天神社は、八百年に歴史をもつ由緒あるお宮ですが、ただ古いというだけではなく、これほど数奇な運命をたどってきたお宮はほかに例がないでしょう。この社に伝わる「荏柄山天満宮縁起」によりますと源頼朝が鎌倉の荏柄の地に草創したことにはじまります。足利尊氏や一族も大変尊崇しました。応仁の乱のころ、戦乱を避けて古河に移されました。ここは大福田村といって立派な社であったようです。のちに足利氏が一族の一色氏に祭祀を委任しましたので、その後は一色氏の所領がかわるたびに社も遷されました。武州幸手の庄から下総の小文間、そして葛飾群木の崎村と関東の地を三、四たびとかわって、この長篠の地へは、元禄十一年またまた一色氏の所領替えにともなって移ってこられたのです。この時、別当職であった満福寺の僧匠仙が、これまでの五百年の変遷を書き留めたものが「荏柄山天満宮縁起」なのです。
それから長篠の地でお祀りして三百年が経ちました。文政九年に再び新社殿造営が行われました。それまでのできごとや普請の様子など詳しい記録があります。明治になって一色氏はこのお宮のすべてを長篠の村人に委ねることになりました。今日まで百年余、たびたびの補修も時の流れに勝てず、平成四年長篠で三たびの御普請となってものです。ただ、黒末塗極上細美の神殿は覆殿の中にあって何百年もの風雪から護られ一点の腐朽もなく御神体とともに今日に伝えられております。
医王寺東塔尚行先老師依御遣志書之 平成四年十一月
天神山陣地 二千人 
一条信龍 山梨・西八代・上野の城主、信玄の弟
真田信綱 長野・小県・松尾の城主、幸隆の長男
真田昌輝 信綱の弟
土屋昌次 山梨・中巨摩・島上条に住む。
東方に長篠城を望み、また西方の設楽原方面が監視出来る場所である。この陣地から長篠城を盛んに攻めた。
五月十三日の夜、大手門の前へ望楼を建て城中を見おろそうとしたが、城中から鉄砲で壊された。
同二十日、豊川を渡って設楽原へ進出し、連吾川上流付近へ陣をしく。
同二十一日、織田・徳川連合軍との決戦、真田兄弟・土屋昌次は戦死した。
天神山・・・元禄十一年(一六六八)旗本一色氏が旧領から天神社をこの場に移した。それより天神山という。
2020年12月29日 11:07撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:07
天神山陣地 二千人 
一条信龍 山梨・西八代・上野の城主、信玄の弟
真田信綱 長野・小県・松尾の城主、幸隆の長男
真田昌輝 信綱の弟
土屋昌次 山梨・中巨摩・島上条に住む。
東方に長篠城を望み、また西方の設楽原方面が監視出来る場所である。この陣地から長篠城を盛んに攻めた。
五月十三日の夜、大手門の前へ望楼を建て城中を見おろそうとしたが、城中から鉄砲で壊された。
同二十日、豊川を渡って設楽原へ進出し、連吾川上流付近へ陣をしく。
同二十一日、織田・徳川連合軍との決戦、真田兄弟・土屋昌次は戦死した。
天神山・・・元禄十一年(一六六八)旗本一色氏が旧領から天神社をこの場に移した。それより天神山という。
新城市指定文化財
(建造物)荏柄天神社本殿
新城市長篠字碁石
由来
本社は源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神になった(縁起)。元禄11年(1689)10月、一色氏の所領変えにより、下総国(千葉県)木之崎村より現在地に遷宮造営された。本殿は、全体的に形姿がよく整い細部に唐様(からよう)や天竺様(てんじくよう)を折衷しりほか、袈溝、組物なでの随所に奇抜がみられる。虹梁(こうりょう)、木鼻(きばな)、懸魚(けぎょ)などの繰(く)り形、絵様や擬宝珠(ぎぼし)の形も優れ、蛙股(かえるまた)、脇障子(わきしょうじ)の彫刻なでも意匠にも見るべき点が多く、桃山建築装飾の名残をよくとどめている。
構造
一間社流造(いっけんしゃながれつくり)
こけら萱 正面唐破風付
裄行:1.39m 梁間:1.39m
2020年12月29日 11:09撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:09
新城市指定文化財
(建造物)荏柄天神社本殿
新城市長篠字碁石
由来
本社は源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神になった(縁起)。元禄11年(1689)10月、一色氏の所領変えにより、下総国(千葉県)木之崎村より現在地に遷宮造営された。本殿は、全体的に形姿がよく整い細部に唐様(からよう)や天竺様(てんじくよう)を折衷しりほか、袈溝、組物なでの随所に奇抜がみられる。虹梁(こうりょう)、木鼻(きばな)、懸魚(けぎょ)などの繰(く)り形、絵様や擬宝珠(ぎぼし)の形も優れ、蛙股(かえるまた)、脇障子(わきしょうじ)の彫刻なでも意匠にも見るべき点が多く、桃山建築装飾の名残をよくとどめている。
構造
一間社流造(いっけんしゃながれつくり)
こけら萱 正面唐破風付
裄行:1.39m 梁間:1.39m
国指定史跡
長篠城跡
2020年12月29日 11:17撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:17
国指定史跡
長篠城跡
長篠城跡縄張概図
2020年12月29日 11:19撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:19
長篠城跡縄張概図
武田軍5つの砦
物凄い数で囲まれていた事がわかります
2020年12月29日 11:20撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:20
武田軍5つの砦
物凄い数で囲まれていた事がわかります
磔に散る烈士 鳥居強右衛門

5月14日、武田軍は総攻撃をしかけた。
城中の食料はあと4、5日分だけ。
その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ救援を依頼する使者として
長篠城を抜けてた。
梅雨の時、増水の寒狭川へおりて豊川をくだること4km。
15日朝、かんぼう山で脱出成功の狼煙をあげ、岡崎へ走った。
(長篠〜岡崎は50km)
岡崎には援軍の織田信長も到着していた。
家康、そして信長の前で城の危急を訴えまわりの人々も感動した。
使命を果たして休養をすすめられたが、彼はすぐ引き返した。
16日の朝、再びかんぼう山で「援軍きたる」の狼煙3発。
そして長篠城の対岸まできたが厳重に警戒する武田軍に捕えられた。
武田軍から「援軍はこない城を開け、武田軍は厚くもてなす」と呼ばるよう説得されて
長篠城二の丸近くに立った。(この時城は本丸と二の丸だけが残っていた)
しかし「援軍は来る。この眼で見てきた。あと2、3日、堅固に守れ」とさけんだので、
対岸の篠場野の地で磔にされた。
強右衛門その時36才。
18日、織田、徳川3万8千の軍は設楽原に到着して陣をしいた。
2020年12月29日 11:22撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:22
磔に散る烈士 鳥居強右衛門

5月14日、武田軍は総攻撃をしかけた。
城中の食料はあと4、5日分だけ。
その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ救援を依頼する使者として
長篠城を抜けてた。
梅雨の時、増水の寒狭川へおりて豊川をくだること4km。
15日朝、かんぼう山で脱出成功の狼煙をあげ、岡崎へ走った。
(長篠〜岡崎は50km)
岡崎には援軍の織田信長も到着していた。
家康、そして信長の前で城の危急を訴えまわりの人々も感動した。
使命を果たして休養をすすめられたが、彼はすぐ引き返した。
16日の朝、再びかんぼう山で「援軍きたる」の狼煙3発。
そして長篠城の対岸まできたが厳重に警戒する武田軍に捕えられた。
武田軍から「援軍はこない城を開け、武田軍は厚くもてなす」と呼ばるよう説得されて
長篠城二の丸近くに立った。(この時城は本丸と二の丸だけが残っていた)
しかし「援軍は来る。この眼で見てきた。あと2、3日、堅固に守れ」とさけんだので、
対岸の篠場野の地で磔にされた。
強右衛門その時36才。
18日、織田、徳川3万8千の軍は設楽原に到着して陣をしいた。
長篠城址史跡保存館と医王寺山
2020年12月29日 11:24撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:24
長篠城址史跡保存館と医王寺山
長篠戦図
この後 決戦地の設楽原へ
2020年12月29日 11:24撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:24
長篠戦図
この後 決戦地の設楽原へ
「長篠の戦」歴史探訪コ−ス 案内板
2020年12月29日 11:26撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:26
「長篠の戦」歴史探訪コ−ス 案内板
愛知県道32号「長篠東栄線」より
愛宕本宮山
2020年12月29日 11:43撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:43
愛知県道32号「長篠東栄線」より
愛宕本宮山
愛宕神社記
祭神 愛宕大神
合祀 秋葉大権現
「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕様へは月参り」と親しまれ、火伏せ、災難防除の神として信仰された愛宕様は、家内安全、家運隆昌の守り神として古くから人々に崇敬されている。旧本宮は、すでに安永三年(一七七四年)に勧請されその後たびたび改築が行われてきた。平成七年(一九九五年)九月区民の熱意により再建に着手し、献身的な奉仕作業により山頂に新本宮麓に遥拝殿が立派に完成し、平成八年(一九九六年)一月三日、区挙げて盛大な竣工祭を行うことができた。霊験あらたかな愛宕本宮への参道は入口より四〇メートル、山頂からの眺望は絶景である。このコースを散策することにより心を豊にし健康な体力づくりをして、明るく住みよい町づくりに努められるよう念願する。 平成九年三月吉日 内金区
2020年12月29日 11:46撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:46
愛宕神社記
祭神 愛宕大神
合祀 秋葉大権現
「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕様へは月参り」と親しまれ、火伏せ、災難防除の神として信仰された愛宕様は、家内安全、家運隆昌の守り神として古くから人々に崇敬されている。旧本宮は、すでに安永三年(一七七四年)に勧請されその後たびたび改築が行われてきた。平成七年(一九九五年)九月区民の熱意により再建に着手し、献身的な奉仕作業により山頂に新本宮麓に遥拝殿が立派に完成し、平成八年(一九九六年)一月三日、区挙げて盛大な竣工祭を行うことができた。霊験あらたかな愛宕本宮への参道は入口より四〇メートル、山頂からの眺望は絶景である。このコースを散策することにより心を豊にし健康な体力づくりをして、明るく住みよい町づくりに努められるよう念願する。 平成九年三月吉日 内金区
愛宕本宮遥拝殿

遥拝殿の裏から参道へ
2020年12月29日 11:46撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:46
愛宕本宮遥拝殿

遥拝殿の裏から参道へ
愛宕本宮
2020年12月29日 11:55撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:55
愛宕本宮
愛宕本宮山(196.7m)
三等三角点(富保村)
2020年12月29日 11:57撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 11:57
愛宕本宮山(196.7m)
三等三角点(富保村)
湯谷温泉駐車場
国道152号「別所街道」より愛宕山へ

愛宕山縁起
当地井代は大宝年中(七〇一〜七〇三)に開村、その後長年中(八二四〜八三三)当村城主佐竹右近大将が八幡神社を勧請し、この愛宕山頂へも同年中愛宕神社を建立したものと伝えられています。その後天安中(八五七〜八五九)に竹田式武将監が、この地に築城したといわれています。
この山頂にある愛宕神社は火伏の神 火産雷神が祭られており、又この奥には金比羅大権現の社もあります。その後幾度か改築されましたが現社は天正三年(一五七五)再建され修繕を重ねて来ましたが、平成六年にここに再び改築しました。愛宕神社は災難防除、家運隆昌の神社として村の安全と繁栄を願って建立されたもので、現在でも村中はもちらん村外からも多数の人々の信仰の対象となっています。 平成六年十二月吉日 井代区・鳳来町
2020年12月29日 12:25撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 12:25
湯谷温泉駐車場
国道152号「別所街道」より愛宕山へ

愛宕山縁起
当地井代は大宝年中(七〇一〜七〇三)に開村、その後長年中(八二四〜八三三)当村城主佐竹右近大将が八幡神社を勧請し、この愛宕山頂へも同年中愛宕神社を建立したものと伝えられています。その後天安中(八五七〜八五九)に竹田式武将監が、この地に築城したといわれています。
この山頂にある愛宕神社は火伏の神 火産雷神が祭られており、又この奥には金比羅大権現の社もあります。その後幾度か改築されましたが現社は天正三年(一五七五)再建され修繕を重ねて来ましたが、平成六年にここに再び改築しました。愛宕神社は災難防除、家運隆昌の神社として村の安全と繁栄を願って建立されたもので、現在でも村中はもちらん村外からも多数の人々の信仰の対象となっています。 平成六年十二月吉日 井代区・鳳来町
井代古城跡(愛宕山)
この山は愛宕山と呼ばれ天安年中(八五七〜八五九)に竹田式武将監という人物が、この付近を支配し、この山に城を築いたといわれている。その後、戦国時代になった永正年中(一五〇四〜一五二一)に、三河の三大豪族であった山家三方衆に一人、田峯城主菅沼定広に五男菅沼定仙が、この井代付近を領有し、この城に在城したといわれているが、城は山城程度のもので、居館は山の麓の平坦地の字大貝津地区にあったと思われる。井代部落に東北に当たり(鬼門)山頂には愛宕神社がある。井代区
2020年12月29日 12:25撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 12:25
井代古城跡(愛宕山)
この山は愛宕山と呼ばれ天安年中(八五七〜八五九)に竹田式武将監という人物が、この付近を支配し、この山に城を築いたといわれている。その後、戦国時代になった永正年中(一五〇四〜一五二一)に、三河の三大豪族であった山家三方衆に一人、田峯城主菅沼定広に五男菅沼定仙が、この井代付近を領有し、この城に在城したといわれているが、城は山城程度のもので、居館は山の麓の平坦地の字大貝津地区にあったと思われる。井代部落に東北に当たり(鬼門)山頂には愛宕神社がある。井代区
愛宕神社

神社裏が愛宕山(178m) 山頂
2020年12月29日 12:32撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 12:32
愛宕神社

神社裏が愛宕山(178m) 山頂
愛宕山より
鳳来寺山 宇連山
2020年12月29日 12:35撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 12:35
愛宕山より
鳳来寺山 宇連山
中久津山(217.7m)
三等三角点(217.71m)(井代村)
2020年12月29日 13:03撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 13:03
中久津山(217.7m)
三等三角点(217.71m)(井代村)
天神山(193m)山頂

尾根沿いに進むと神社へ至ります
2020年12月29日 13:18撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 13:18
天神山(193m)山頂

尾根沿いに進むと神社へ至ります
菅原神社 参道

大野の聖地 天神山
この天神様は、南北朝時代に領主鈴木喜三郎が、城山に山城を築いた時、北の守護神として祀ったのが始めといい、又、大野の有力者荘田氏が、部落の鬼門に当たるこの山に、魔除けてして祭ったともいわれている。その後、天神様に菅原道真が、魔除けと知恵の神として祭られ、この天神様も菅原神社と名をかえている。一九一段を上りつめた上にあり社殿の脇には、秋葉・金比羅の両大権現も祭られ、全山が天下泰平・五穀豊穣・村中安全を祈る聖地であると共に、景勝の地、天神公園として親しまれ、社務所前にある石灯篭は、見事な形をした町内屈指の道標銘である。
2020年12月29日 13:30撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 13:30
菅原神社 参道

大野の聖地 天神山
この天神様は、南北朝時代に領主鈴木喜三郎が、城山に山城を築いた時、北の守護神として祀ったのが始めといい、又、大野の有力者荘田氏が、部落の鬼門に当たるこの山に、魔除けてして祭ったともいわれている。その後、天神様に菅原道真が、魔除けと知恵の神として祭られ、この天神様も菅原神社と名をかえている。一九一段を上りつめた上にあり社殿の脇には、秋葉・金比羅の両大権現も祭られ、全山が天下泰平・五穀豊穣・村中安全を祈る聖地であると共に、景勝の地、天神公園として親しまれ、社務所前にある石灯篭は、見事な形をした町内屈指の道標銘である。
湯谷温泉 宇連川と馬背岩
2020年12月29日 14:10撮影 by  iPhone SE (1st generation), Apple
12/29 14:10
湯谷温泉 宇連川と馬背岩

感想

愛知県新城市にある長篠城跡より
「長篠の戦」歴史探訪コ−ス を歩いて来ました。
医王寺山には本陣跡、大通寺山 天神山には武田軍の各陣跡があります。

その後、愛知県新城市富保の愛宕本宮山へ
県道32号の起点、鳳来寺山の参道 門谷へと至る道の途中にあります。
麓には遥拝殿、山頂の手前には愛宕大神と秋葉大権現が合祀られています。

最後に湯谷温泉近くの里山
「愛宕山 中久津山 天神山」3座を登り
湯谷温泉を散策して来ました。

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