上野国分寺・山王廃寺跡・宝塔山古墳を歩く
- GPS
- 05:49
- 距離
- 19.1km
- 登り
- 39m
- 下り
- 20m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2014年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
感想
にわか考古学ファンとなった最近の私だが、どこにも熱心な考古学ファンがいることは昨日の川崎の前方後円墳発掘現地見学会でもよくわかった。今日は古代の東国で大きな役割を果たした上野国の国分寺跡とその前に東国最古の仏教寺院である山王廃寺跡を中心に、それらの寺院と関係が深いと思われる二つの古墳を見学し、古墳時代の東国(上野)の歴史の一断面に迫るツアーだ。
群馬県立歴史博物館友の会主催なので、出発は前橋、高崎駅付近に集合、大型バスだが会の定員はスタッフ、講師を含め30人、余裕のバス旅行だ。しかし高崎駅まではひやりとした。当初は大宮から新幹線の予定だった。高崎に8時半前後に到着してから、うどんでも食べて、待つつもりーーが、新宿で一本早い湘南ライン高崎行きに乗れて、このままいけば8時50分高崎到着、少し嫌な予感がしたが、そのまま大宮で降りずに乗り続けるーーしかししかし、嫌な予感が的中、北本駅手前で、線路内に人が入り、確認するまで時間がかかり、速度も遅くなり、次の駅では4分遅れ。やばい、次に何かあれば間に合わなくなるーー。やむを得ず、ケータイで次の新幹線乗り換え時間を確認し、熊谷で下車して特急券を買い、時間があるのでトイレを済ませ、少し待ってあさま507号に乗り込む。こんなことなら、6時前に出発して、埼京線と高崎線を乗り継いで来ればゆうゆう8時半前につくはずだが、連日の歩きで疲れていると思い、少し遅く出て新幹線と、予定を変えたのだったが――高崎着8時50分、東口を出てイーストタワーを探す。先日、ぐるりんバスで群馬歴史博物館(今日はその友の会主催)に向かったが、そのバス停の先に大きな細長いビルーー上の方にイーストタワー表示、送付された地図をよく見ると、タワーの左端の道路沿いに集合場所がある。大きなバスが待っていた。
何とか乗り込んで受付を済ませ、資料が配られた。ちゃんと名前が入っていて一安心。参加者リストを見ると、大半が高崎、前橋、伊勢崎、安中、渋川、みどり市など、近場の県内の人で、埼玉一人、東京は私一人だった。配布された大きな封筒の中には国分寺、山王廃寺、上野国府跡などのカラー刷りのパンフレットとともに、「群馬の古代史を探る見学会」という講師手作りの資料が入っている。
9時半前に最初の見学地である上野国分寺跡に到着。最初に南大門跡手前で、立地地点の風景を見る。今日は素晴らしい晴天で、左奥に榛名山、右に赤城山、西に浅間山、正面奥に子持ち山、さらに奥に谷川岳など、素晴らしい絶景が望まれる。すばらしい立地条件で、聖武天皇の詔勅にあるような最高の立地だ。おそらく全国的にも最高の場所の一つだろう。ガイダンス館に入り、前澤講師が資料を使って、今日の見学会の背景を解説。とりわけ国宝「九条家本延喜式」の紙背文書の一部の「上野国交替実録帳」の記述を取り上げて、国分寺に関する詳細を検証。
この実録帳は、京都から赴任する上野国の国司が交代する時に国分寺の施設や仏像などの財産の状況を記録、この管理記録がある。「破損」と「無実=失われている状態」なども記載されている。この実録帳は長元3年(1030)に、上野国介(親王任国であるため、守は不在で介が実質的な国守)の藤原朝臣家業から藤原朝臣良任へ交替する時の「不与解由状」で、前任者の職務上の不備をチェックするもの。この文書は「不与解由状」がまとまって残る貴重なもので、地方政治の実情を物語るもの。抹消や書き換えなどが多く、国司の名前、年号の書き換えなどが多いことから、そもそも、この実録帳は、雛型があり、それをカットアンドペーストのように、必要な場所を書き換えて作成していることがわかる。各項目の破損、無実や修理の状況などを知ることができる。
「金光明寺項」
大項目の「国分二寺諸定額寺仏像経論資財雑具堂塔雑舎幷(ならびに)府院(=国府)諸郡官舎破損無実事」の最初に「金光明寺」の項目がある。これは国分僧寺が金光明寺と呼ばれていたことを示す。法華寺(国分尼寺)の記載はなく、当時国分尼寺は失われていたと考えられる。以下、
仏像、築垣と門、僧坊、その他の建物、寺田などについて、その破損、無実などが記載されている。
仏像の破損状態から、国分僧寺には、釈迦三尊像(丈六釈迦仏と普賢菩薩+文殊師利菩薩=金色で金箔の脱落、光背や蓮華座の傷みが記録されている)の他、四天王、吉祥天、毘沙門天など少なくとも16体があり、その中の11体は金堂に置かれていたことがわかる。前任者の家業も若干の修理を行っていた。
築垣と門は「築垣一廻 四面二町 長三百二丈一尺」と記載され、国分寺の伽藍の規模を示す唯一の歴史資料となっている。この記載で国分僧寺は二町四方=2−00m四方であると考えられてきたが、発掘により、築垣(版築土塀)は288丈で、記載とは異なる。おそらく記載は標準規模をそのまま記載死したのではないかと考えられる。この築垣は1024年時点ではすでに無実(失われていた)だった。無実の記載の中には、南大門(長五丈八尺、広一丈五尺、高一丈三尺」とあるが、失われていた。東門、西門も同様であった。北大門の記載がなく、その時点で存在していたのか、あるいは記載漏れですでになかったかは不明だが、築垣がすべて失われていれば、なかったと考える方が自然か?
僧坊:無実の中に茅葺僧坊一宇 長一五条などとある。国分僧寺の僧の定員は二十名、その割には茅葺の貧相な建物であり、おそらく伽藍建立当初はより大きな僧坊があったが、失われて寺院衰退とともに僧が定員割れし、小さな茅葺の僧坊になていたのかもしれないが、それも失われている。国分僧寺内には少数の僧が別の建物内で活動、生活していたかもしれないが、建立から三〇〇年たち、伽藍の荒廃が進んでいたと思われる。ただ三〇〇年はよく持った方らしく、この時代にはすでに失われた国分寺も多かったらしい。大伽藍を維持管理していく財力はすでに当時の律令体制の中にはなくなり、こうした寺の維持管理は地元の力に頼るしかなかったようだ。
11世紀の上野国分寺の姿は、これらを総合すると金堂と講堂が姿を保ち、記載のない七重ノ塔は、おそらく存在していたと考えられる。定額寺である法林寺では金堂が失われており、300年の間、良く保っている方であるらしい。伽藍の中心部は残っている(発掘調査では火災跡は出なかった)が、僧坊や築垣、大門は失われ、残っている管理施設などで僧が細々と活動していたらしい。僧尼の資格証明書などの書類も無実になっていることから、国司は僧尼の管理は行われなくなっていたようだ。伽藍の維持管理のための財源である寺田も失われ、国府のわずかな財源と地域の人々の力で何とか支えられていたと考えられる。
発掘調査で分かったこと:
1)南大門の東半分が残っており、一度改修工事が行われた(時期不明)痕跡があった。
2)南面築垣の壊れた後に竪穴住居の跡がみられ、築垣は再建されなかったことが確認された
3)金堂の基壇上および南側から多数の墓が出土、埋設された土器や五輪塔が出土、石塔の文字から14世紀には金堂は失われ、墓地になっていた。
4)金堂の北半分では小さな建物や井戸の痕跡があり、15世紀には住居になっていた。
5)伽藍の北半分で大規模な土取り、たまった水を染谷川に流す水路・大溝が建設された(15世紀以降)。これにより、講堂、金堂西端、南大門の西半分(土地そのもの)が破壊された。
この講義の後、ガイダンス館の展示物の解説があり、五重塔の模型を見る。実際の設計図はなく(当時設計図のようなものは作られず、模型だけで作ったと専門家は考えているらしい)、当時の仏塔や様々な記録、現存塔などから、宗教建築や国宝修復に実績のある大林組が専門家と相談しながら模型を製作したようだ。七重ノ塔を実際に当時のような形で再現できるかと尋ねると、大林組は可能だという。ただし50年保障となどと言う条件が付くとできないという。費用は少なくとも数百億はくだらないだろう。当時、芯柱は直径80センチで建物とは別の動きをして、大地震にも耐えられる構造であったらしい。こうした構造を研究してスカイタワーの芯柱も作られているという。高さが60m以上あり、現在の県庁と同じくらいの高さである高層建築だ。七段の塔の上に20mもの相輪がある。専門家によるとこのくらいの大きさがないと建物全体のバランスが取れないようだ。短いと下から見たバランスが悪いという。
外に出て再現された築垣(版築土塀)、金堂基壇、五重塔基壇や礎石などの遺構を見る。巨大な石が榛名山系などのどこからか運ばれ、加工されている。七重ノ塔の基壇を取り囲む石は、
ガイダンス館は飲食禁止なので昼食はバスの中か、外。せっかくだから、榛名山、赤城山、浅間山の雪山を見ながら五重塔基壇の階段に座って冬山用に購入しといたソーセージの缶詰とバターロール、家から持ってきた残ったサラダとタラコスパゲティを食す。外で食べたのは4−5名だろう。食事を終えて散策しながら撮影する。鳥の鳴き声が多く聞こえるがヒヨドリ以外の姿は見えない。その後、版築塀を見学しながら、バスに戻る。
昼食後、最初の移動。関越自動車道の反対側に山王廃寺跡がある。大正時代に塔の心礎が発見され、その後の発掘調査などで、根巻石、鴟尾、礎石、露盤など、精密に加工された石造物が出土した。山王廃寺の石造加工は、近くにある宝塔山古墳、蛇穴山古墳と同様の高度なもので、これらが密接に関係するものではないかと予想される。こうした高度な石造加工技術はおそらく大和朝廷と関係の深い豪族の氏寺として建立されたのではないかと考えられる。また山王廃寺は別の考古資料(瓦のヘラ書きなど)から放光寺であることが判明。放光寺は国特別史跡「山上石碑」の建立者である僧が所属する寺で、「上野国交替実録帳」によれば、格式高い「定額寺」であった。しかし350年以上が経過した1030年の時点では、荒廃が進み、定額寺指定から外してほしいという願いが寺側から出されている。
またこの廃寺跡から粘土製の塑像が発見され、その製作技術の水準は法隆寺のそれと同等で極めて高いことがわかり、中央から仏師が派遣されて製作されたことが想像される。そのほか、瓦や緑釉陶器や金箔を貼った木製品など様々な注目すべき美術品(破片)が出土しているようだ。
現在、山王廃寺跡は日枝神社のわきに史跡の看板と標柱があり、境内の中に塔心礎と根巻石、鴟尾の一つなどが展示されている。心礎は発見された位置に今もそのまま残っている。巨大な石を丸く加工している。その心礎の丸い穴とぴったり一致するのが、後からバラバラに発見された根巻石だ。
また石製鴟尾は珍しく、これまで日本全国で3つしか発見されていない。そのうち二つがこの山王廃寺跡から出土している。鴟尾は火除けの意味を持つ架空の生き物らしい。奈良にある鴟尾は石製でなく焼き物でできている。この付近は都丸一族の土地と屋敷がいくつもあり、鴟尾の一つは現在も都丸家の一つに保管されている。
その家を訪ねて見学し、家の方から少しお話を伺った。この一帯は都丸一族の家が多く、江戸時代からの豪農で、江戸時代の教育への貢献による功績で石碑もたっている。
最後に、総社古墳群の中の宝塔山古墳と蛇穴山古墳を見学。出土品から7世紀後半の古墳と判明、この時期としては最大級の方墳で大きな石材が巧みに加工され、積まれて大きな石室になっている。奥に大きな家形石棺がある。家型石棺は仏教に詳しく、位の高い豪族しか許されないものらしい。この石室は羨道(えんどう)、前室、玄室(後室)とで構成され、壁や天井には綺麗に面取り加工した安山岩の切石で、こうした硬質の石の巧みな加工技術は地方のものでなく、中央の技術者が関係していたとみられ、古墳建設者の豪族が大和朝廷と密接な関係を持っていたと考えられるようだ。前澤氏は「かみつけ氏」かその関係の豪族ととらえているようだ。また天井や壁には漆喰を塗った跡があり、もしかして高松塚のような絵が描かれていた可能性も不定できない。残っていれば高松塚よりもさらに大規模なものであったろうという。蛇穴山古墳の方はおなじく大きな石を積んだ石室を持つが規模はやや小さい。石室も小ぶりで石棺は失われている。古墳群最後の方墳らしい。やはり漆喰の跡がある。こうした優れた石材加工の技術はその後の山王廃寺、国分寺建設などに生かされているといえるようだ。
古墳群を最後に群馬の古代ツアーは終了。3時半過ぎには高崎駅東口に戻り、家路についた。
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