松本市安曇資料館にあったパネルの字起しです。
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天正13(1585)年初秋のころ飛騨から信濃に急ぐ一群の旅人があった。これは飛騨高山の松倉城主三木秀綱が豊臣秀吉の将、金森長近とその子金森可重に攻められ松倉城が落ちようとするとき父自綱が「かが姉小路家は公卿の出で代々勤王の名家である。この度の戦いで家系が断絶することはしのびない」と一子秀綱をさとして、秀綱の奥方の里である筑摩郡波多の淡路城に落ちのびて後日のばんかいをはからせるための人目をしのぶ落ち人の群れであったのである。
高原郷から中尾峠へさしかかるころ「多勢の旅は人目につきやす」ということで中尾峠の頂上で落ち合う場所を島々ときめ、秀綱は安房峠越えで大野川へ、奥方は徳本峠を越えることにし、従者をつれて道を急いだ。
秀綱は大野川村の里庄の家に宿をとったが早くも追っ手に迫られた。里庄は秀綱を桑の大ボテに入れて桑をかぶせてかくまったが追っては聞き入れず家に火を放つという。
里庄は「蚕には罪がないから生き物をそとに出すまで待ってくれ」と頼んで蚕と桑のはいった大ボテを外に出し、秀綱は難をまぬがれた。
秀綱はそれから祠峠にさしかかり土民の家に立ち寄って食を求めたところ、栗めしを出してもてなしてくれた。出立寸前お礼に持参していた金・銀の小粒を茶わん一杯出した。これをみた峠の土民は奈川の豪族に知らせて攻めさせた。峠をくだった秀綱は角ヶ平の河原の絶壁に追いつめられ。もうこれまでと覚悟をきめ懐の金・銀を「石になれ」と前の淵に投げ込み自刃したという。その後この淵を秀綱淵とよばれるようになった。
大野川の里庄の家は年々蚕がよくできて繁昌したが、峠の家は悪病が続いて苦しんだ。また淵に投げ込まれた金銀の小粒は川底に光っているが里人が拾おうとすると小石に変わってしまうという。
一方奥方は徳本峠を越えて島々への道を急いだ。途中持っていた梨を食べて渇きをいやし、その種を池に落として「姉小路家の再興の期あらばここに生えて梨の実よ甘かれ、然らずんは渋かれ」と祈ったという。ここに実る梨の皮が厚く渋いのはそのためだという。
それからしばらくして杣人に行きあい道を聞いたところ奥方の身なりのよいのに悪心をおこして捕まえて木にしばりつけ絹のうちかけや懐刀をうばって立ち去ったという。奥方は歎き悲しみ、懐中の鏡に顔を写して「鏡は女の魂の宿るところ、魂魄永久に鏡に残り、怨みをはらさん」と髪を逆立てて息絶えたという。
その後、しばらくして杣人がここを通ったところ、奥方の姿は以前のまま少しも変わっていないので不思議に思ってそばへ寄ってみると急に笑みをたたえ全身がくずれ落ちたという。杣人は恐れおののき家へ帰ってねたきりになり、その後悪病にかかってなくなったという。
ここに展示してある鏡・うちかけ・小袖・短刀等は奥方の所持していたものだといわれ、遺品として島々の秀綱社に納められていたものである。
なお一説には、秀綱は飛騨萩原の禅昌寺の親類にあたる木曽福島の興禅寺を頼らんとして安房峠越えをしたともいわれている。
はじめまして。
先週、島々から徳本峠越えで上高地まで歩いてきたので、
とても興味深く読ませてもらいました
字起こし、ありがとうございました。
koodoo様
はじめまして。
ご覧頂きありがとうございます。
ただ山を歩くだけでも十分楽しいのですが、数百年を経て歩き続けられる道の歴史も感じて歩くのもまた実に興味深いですね。
またよろしくお願いします。
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