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北海道山岳会がに旭岳黒岳縦走路を1923年に整備する2年前にまだ登山道の無かった大雪山を縦走した人物がいる。高知県出身の詩人、歌人、随筆家の大町桂月らの一行。1921年(大正10年)8月層雲峡温泉から黒岳沢を遡上し先ずは桂月岳を経て黒岳に登頂している。間違い無く現在の黒岳石室付近を通過したのだろう。黒岳沢では幾度も渡渉を繰り返し岩場を急登しハイマツを掻き分けての藪漕ぎは壮絶な登攀だった事は容易に想像できる。当時無名峰だった桂月岳は桂月の没後にこの黒岳沢からの登頂の功績を称え命名される。
黒岳登頂の後は北鎮岳、白雲岳、旭岳の順に縦走する。北鎮岳の頂ではお鉢の周回3里あろうかの大きさに驚愕し、旭川の街、東の阿寒岳、西の羊蹄山、さらには遠く太平洋や日本海まで見渡せたと記している。北鎮岳から雲の平に下って隊を二分し地元隊は層雲峡へ下山させ桂月ら本隊は白雲岳を目指すがそのルートははっきりしていない。白雲岳への道中濃霧に阻まれ日暮れから微雨となり天幕を張ったが天幕を持たずに下山した一行を案じている。
白雲岳の頂では従来の書物では旭岳より北鎮岳が高いとされていた2つの山を見比べて旭岳の方が遠いが高かく見えると記している。旭岳裏の登り返しでは滑りやすいザレ場の急登に相当苦戦した様子だ。旭岳は二峰となりて、東なるは低く、西なるは高し。現在の後旭岳を東峰、旭岳を西峰と認識してたのであろうか。姿見池方向からは見えない当時無名峰だったの裏旭岳は旭岳東峰とはされず後に裏旭岳とされたと推測する。桂月らが登頂したのは西峰(旭岳)である。頂上は尖れり、西面裂けて底より数条の煙を噴く、世にも痛快なる山。と表現している。
旭岳頂上からは姿見池を経てユコマン別経由で天人峡温泉へ下山した。層雲峡温泉から黒岳沢を遡上し桂月岳に至るルートを除けば桂月が歩いたルートが現在の登山道の礎となっている事は明らかだろう。そして桂月は紀行文の終盤こう記している。
『毎年大雪山に登るもの百人内外、忠別川を溯さかのぼりて松山温泉に一宿し、次の日姿見の池の畔に野宿し、その次の日旭岳に登るだけにて、引返して松山温泉に再宿するなりと、嘉助氏いえり。それだけにては、大雪山の頂上の偉大なることも判らず、御花畑の豊富なることも判らざる也。』
さらに『されど旭、北鎮、白雲の三岳に登らずんば、大雪山の頂を窮めたりとはいうべからず。』と締めくくる。私は大雪山登山三度目にして北鎮岳、白雲岳の頂は踏んでおらず大雪山の1/3しか窮めていない。桂月が大雪山縦走成功させたのと私が初めて登山で黒岳を訪れたのが偶然にも同い歳の52歳。桂月は大雪山縦走の4年後56歳で亡くなるが、私は桂月の没歳を超えても大雪山に足を運び山を歩ける限り桂月が歩かなかった大雪山を歩きたいと想う。
引用:「中央公論」1923(大正12)年4月 層雲峡から大雪山へ
参考:「大町桂月と大雪山」ひがしかわ観光協会YouTube
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