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何、まだ咲かぬと申すか、故郷の友は驚嘆した。
昨夜の冷たい春雨が、嘘のような汗ばむ陽気に、蔀戸 (窓)からおもてを覗きこむが、春の訪れは見当たらぬ.「いつになることやら、桜はまだかいな」呟き溜め息を漏らす.襖に寄り掛かり腰掛けに据えていると春の足音か…?
その微妙な音に、かすかな気配を感じた.昨夜の雨で、向かいの濡れた城壁(東病棟)が太陽の耀に反射され映し出された.境内(西病棟)の城壁を上がってくる乱破(クライマー)の影があった。
そよ風はつよく荒れ、蓼科の方角から吹いている…春嵐というとこだろうか、吹き飛ばされるのが落ちである。
よく見ると乱破は鉤縄(ロープ)など使わず、昨夜の雨も無論のこと、滑りやすい煉瓦(タイル)の壁を手足だけで駆けのぼって来る.しかも早い。背には行李(ザック)であろうか、何かを担いでいるようだが日射しに反射され、それが何故の物であるかは写り難し謎であった。
蔀戸 が開いているのに気づいたか、乱破は進路を変え、こちらに近づいて来る…城の中へ忍び込むつもりであろうか…蔀戸 に手掛けたその瞬間、行李を大きく拡げて飛び首筋の辺りを掠めた。
奇怪な音を立てながら部屋を占領したとばかりに暴れ飛び回る.行李を背負っていると思っていたものは羽であったか…もはや天仲に御座る.脱兎のごとく逃げだそうとしたそのとき、背後から、白装束の姿をした娘が殺気立った声で「神妙にしな」と言わんばかりに手に持った筒から煙幕(殺虫剤)を放った。
酔ったように舞い踊り飛び回り荒れ狂った結末は...床に仰向けとなり、駒のようにぐるぐると回りだし、先程まで強靭であった手足は震えながら、わずかな鼓動を魅せてはいたが、やがてはピクリと動かず息の根は留った.化学兵器にあっては乱破も叶わぬ。
「蟲が入って来るので窓は閉めておいてくださいね.何です!拡大鏡なんか持って、怪しい行動はやめて下さい」と言い白装束の娘は部屋を去った。
ほざけ、小娘が味のないまねを…歳と共に目が霞み小さな書文字も読めぬというもの.蟲も巨大化するわけよ…
膝には『鬼九郎孤月剣』文庫本の片面(ページ)めくられたまま読みかけであった。
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