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開山記念碑
佐田山系ノ一脈堂ケ峰ノ東角巍然トシテ雲表ニ
此地ヲ来高来山ト称シ国司ノ家領設ノ霊場ナリト
伝フルモ史跡滅亡シテ存スルモノ小古祠ヲ存スル二週
人ノ御蔭数師ヲ横合晴霽女史ノ創設スル所ナリ
百人勧ナシ乃チ御蔭数三帰依シ専ラ冥佑ヲ請フ
霊験勿論ナリ願ハクハ期セムシテ会堂建設ノ議
起リ貴ヲ驚カシ二服セムコトヲ翼フモノ相次テ
出ツ本村元助役横合作次郎氏専ラ居中斡旋シ遂
ニニコラ起シテ山ヲ築キ石壁数丈豪壮ナリト
ル殿舎ヲ完シテニコラ成ル時ニ昭和二年十二月三十日
次テ大正十年十月二十日高来大大神ヲ勧請シ翌十
八日山ノ自ラ達スラヌヲ抜キテ祭ル人教化ノ道場ヲ設ケ
信仰ノ結晶リトスハサルヘカラス乃チ由来ヲ
勤シテヲ後昆ニ傳フト云爾
昭和七年十二月下浣
三重県会議員
香淳
瀧川剛雄謹撰
岡田直次郎謹書
以下は、元の文語調・漢文調の文章を、読みやすい現代語に訳したものです:
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開山記念碑(現代語訳)
佐田山系の一つである堂ヶ峰の東端には、そびえ立つ山が雲に届かんばかりにそそり立っています。この地は「高来山(たかくやま)」と呼ばれ、かつて国司の家領が設けられた霊場であったと伝えられています。
しかしその史跡は長い年月のうちに失われ、今では小さな古い祠が残るのみとなりました。そこに、信仰心厚い数人の師が立ち寄り、晴霽女史(せいせいじょし)がこの地に寺院を創設されました。
百人の勧めによるものではなく、まさに神仏のご加護によって多くの人々が帰依し、冥福とご利益を願うようになりました。霊験は言うまでもなく著しく、ついには会堂(本堂)建設の話が持ち上がり、多くの人々がその志に驚き、賛同して協力する者が続々と現れました。
この地の元助役であった横合作次郎氏が中心となって尽力し、遂に大規模な造成が始まりました。山を築き、数丈に及ぶ石の壁を作るなど、その殿舎はまことに堂々たるものでした。
こうして建物が完成したのは昭和2年(1927年)12月30日のことです。
続いて大正10年(1921年)10月20日には、高来大大神(たかくのおおかみ)をお迎えし、翌18日には山の中でも行き届かない場所に祠を建てて祭祀を行いました。この地は人々の教化の場として設けられ、信仰の結晶として後世に伝えるべきものとなりました。
その由来をここに記し、後の世に伝えるものです。
昭和7年(1932年)12月
三重県会議員 香淳
瀧川剛雄 謹んで文を撰す
岡田直次郎 謹んで書す
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