京都・北摂
西下立山(にしおりたてやま) / 途中峰・下立山・不動山・折立山

最終更新:綿はる
基本情報
標高 | 812m |
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場所 | 北緯35度10分43秒, 東経135度50分35秒 |
著書 祷の峯(いのりのみね)北村賢二遺稿集
編者 近江百山之会
発行所 サンブライト出版
P111に以下の記載があります。
地域山系 丹波
山名 折立山
別名 下立山・不動山
書籍 角川日本地名大辞典 25 滋賀県
編者 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三
発行者 角川春樹
P206に以下の通り書かれています。
おりたてやま下立山 <大津市>
折立山とも書き、不動山ともいう。大津市葛川坂下わ町・伊香立途中町・京都市左京区の境界にある山。標高820m。「輿地志略」に「山城峠の北にあり。山城近江の境なり」とある。中世、葛川と伊香立荘との境界をなした山。中世を通じて両者の争奪の対象となる。建久8年7月19日付「無動寺政所下文」に 「下立為大見莊可被打之由風聞在之」とあるのが初見 (葛川B1)。この時点では葛川領内とされているが、 弘長2年にはいったん伊香立荘の加納とされる(葛川 A7)。しかし、文永2年,弘安4年,文保元年と下立山をめぐる両者の争いは続いた。元応元年に下立山の境として一瀬堂が建立され(葛川A196),翌2年, 葛川からの申請に応じて葛川領とされる。ただし、一瀬以北,崩坂以南は伊香立荘の利用を許し、その代わりに明王院修理料として米2石を納めることとした (葛川A281)。暦応元年にはこの山をめぐって新たに桃井荘・伊香立荘との相論も起こっている(葛川A19 9)。戦国期になっても葛川・伊香立荘の相論は続くが、山手を出すことによって伊香立側が下立山に立入ることは認められていたらしい(葛川A793)。当時は山頂に甲坂堂があった(葛川明王院絵図)。
編者 近江百山之会
発行所 サンブライト出版
P111に以下の記載があります。
地域山系 丹波
山名 折立山
別名 下立山・不動山
書籍 角川日本地名大辞典 25 滋賀県
編者 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三
発行者 角川春樹
P206に以下の通り書かれています。
おりたてやま下立山 <大津市>
折立山とも書き、不動山ともいう。大津市葛川坂下わ町・伊香立途中町・京都市左京区の境界にある山。標高820m。「輿地志略」に「山城峠の北にあり。山城近江の境なり」とある。中世、葛川と伊香立荘との境界をなした山。中世を通じて両者の争奪の対象となる。建久8年7月19日付「無動寺政所下文」に 「下立為大見莊可被打之由風聞在之」とあるのが初見 (葛川B1)。この時点では葛川領内とされているが、 弘長2年にはいったん伊香立荘の加納とされる(葛川 A7)。しかし、文永2年,弘安4年,文保元年と下立山をめぐる両者の争いは続いた。元応元年に下立山の境として一瀬堂が建立され(葛川A196),翌2年, 葛川からの申請に応じて葛川領とされる。ただし、一瀬以北,崩坂以南は伊香立荘の利用を許し、その代わりに明王院修理料として米2石を納めることとした (葛川A281)。暦応元年にはこの山をめぐって新たに桃井荘・伊香立荘との相論も起こっている(葛川A19 9)。戦国期になっても葛川・伊香立荘の相論は続くが、山手を出すことによって伊香立側が下立山に立入ることは認められていたらしい(葛川A793)。当時は山頂に甲坂堂があった(葛川明王院絵図)。
山頂 | 西下立山 |
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