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トキワ荘跡地(ときわそうあとち)

最終更新:なっしー
基本情報
場所 北緯35度43分26秒, 東経139度41分17秒
カシミール3D
著名な漫画家が居住したことで知られるアパート『トキワ荘』が実際に建っていた場所。現在は一般企業の敷地になっている。記念碑が建てられている。近隣のトキワ荘マンガミュージアムには実物大でアパートの建物が復元されている。
分岐

山の解説 - [出典:Wikipedia]

トキワ荘(トキワそう)は、東京都豊島区南長崎三丁目(住居表示16番6号、完成当時の住所表記は椎名町五丁目2253番地)に、1952年(昭和27年)から1982年(昭和57年)にかけて存在した木造2階建アパート
手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら著名な漫画家が居住していたことで知られ、漫画の「聖地」となったことから、豊島区によって復元施設「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」が同区の南長崎花咲公園内に建設された。
上棟式は1952年(昭和27年)12月6日。老朽化により1982年(昭和57年)11月29日に解体された。跡地は2020年(令和2年)時点、日本加除出版の社屋となっている。賃貸された部屋のうち2階部分は十室で、全て四畳半(押入れと入り口部分のスペースを除く)。その他、共同の調理場、トイレなどが存在した。
手塚治虫は1952年(昭和27年)に上京して最初は東京都新宿区四谷の八百屋の2階に下宿していたが、やがて昼夜を問わぬ編集者の出入りの激しさについて八百屋の主人から苦情を言われるようになった。この時、手塚は、学童社の加藤謙一の次男・加藤宏泰から、宏泰の住む新築アパート「トキワ莊」へ入居するように誘われて、1953年(昭和28年)の初頭に住人となった。これを皮切りに、学童社が、自社の雑誌に連載を持つ漫画家の多くをトキワ荘へ入居させた。最も多い時期には7 - 8名の漫画家が居住し、またその仲間の漫画家も出入りするようになったため、「マンガ荘」というニックネームまで付けられた。
才能ある漫画家たちがトキワ荘に集まった背景には、寺田ヒロオの「空いた部屋には若い同志を入れ、ここを新人漫画家の共同生活の場にしていきたい」「新人漫画家同志で励まし合って切磋琢磨できる環境をつくりたい」との思いがあった。このほかに「漫画家が原稿を落としそうになった際、他の部屋からすぐに助っ人を呼べる環境が欲しい」という編集者側の思惑と、「他の漫画家の穴埋め原稿でもいいから自分の仕事を売り込む機会が欲しい」という描き手側の利害の一致もあったとされている。
それら若手漫画家達の多くは後に著名になり、その漫画家達により同じアパートに住んでいたという事実が世間にも伝えられるようになった。なお、トキワ荘への入居と仲間入りに際しては、メンバーたちにより、

  • 『漫画少年』で寺田が担当していた投稿欄「漫画つうしんぼ」の中で優秀な成績を収めていること。

  • 協調性があること。

  • 最低限、プロのアシスタントが務まったり、穴埋め原稿が描けたりする程度の技量には達していること。

  • 本当に良い漫画を描きたいという強い意志を持っていること。


といった基準で厳格な事前審査が行われていたとされる。こうした背景を考えると、トキワ荘に居住した(居住できた)のは単なる若手漫画家ではなく、選び抜かれた漫画エリート集団であり、トキワ荘から多数の一流漫画家が世に出たのは偶然ではなく必然だったと指摘されている。
近所に「松葉」という中華料理店があり、藤子不二雄がラーメンの出前を取るなど、住人らが頻繁に利用していた。この店のラーメンは、藤子不二雄の作品に登場する「小池さん」の設定に影響したとされる。松葉は現在も営業を続けている。ワカコ酒Season4で取り上げられた。
また、1955年(昭和30年)5月に結成された新漫画党のメンバー、すなわち寺田ヒロオ(総裁)、藤子不二雄(藤本弘、安孫子素雄)、鈴木伸一、森安なおや(1957年〈昭和32年〉に除名処分を受ける)、つのだじろう、石森章太郎、赤塚不二夫、園山俊二は、トキワ荘に当時かかっていたカーテンに各自、結成を祝って漫画を描いた。現在そのカーテンは、おもちゃコレクター・鑑定士の北原照久の所有となっており、漫画界の「釈迦の衣」と呼ばれている。
雑誌『COM』では1969年(昭和44年)から翌1970年(昭和45年)にかけ、各漫画家たちがトキワ荘に住んでいた頃の状況を自伝として描いた(後にまとめられ、『トキワ荘物語』として翠楊社より1978年(昭和53年)に出版。以後も再刊、再編集)。さらに1970年代からは『週刊少年キング』等に連載された藤子不二雄(藤子不二雄)の『まんが道』や、つのだじろうの『その他くん』などによってトキワ荘のエピソードが語られ、後進の漫画家、或いは漫画ファンに知られるようになった。その結果、トキワ荘自体も著名な存在となり、既に各漫画家が全員退出してしまった時期においても見学者がはとバスで訪れるといった聖地的な扱いをされるに至った。解体前の1978年(昭和53年)には翠楊社より『トキワ荘物語』が刊行され、解体が決まった1981年(昭和56年)、手塚治虫を中心としたかつての居住者らが集まって同窓会が開かれ、その模様はNHK特集『わが青春のトキワ荘〜現代マンガ家立志伝〜』(NHK)として5月25日に放送、ビデオも発売された。この時、建物に残っていた襖で寄せ書きが作成された。これは『驚き桃の木20世紀』(テレビ朝日)で公開された。また、10月3日にはフジテレビでテレビアニメ『ぼくらマンガ家 トキワ荘物語』(脚本・辻真先、監修・小池一夫、監督・鈴木伸一、キャラクターデザイン・石森章太郎)が放映された。さらに1996年(平成8年)には市川準監督、本木雅弘主演で映画『トキワ荘の青春』が公開されている。
トキワ荘自体は解体された1982年(昭和57年)の12月に新築され、バス・トイレ付きのアパートになった。そして赤塚不二夫直筆の「トキワ荘」表札が掲げられていた。しかし、バブル景気の最中に地上げに巻き込まれて更地化した。現在は日本加除出版の新館社屋となっている
トキワ荘の解体を聞きつけて取材した新聞記者に手塚は、かつて住んでいた2階14号室の天井板に『リボンの騎士』のサファイアの絵と自画像を描いて贈った。これは警視庁記者クラブに保存された後、2020年(令和2年)2月26日、豊島区に寄贈された。

付近の山

この場所を通る登山ルート

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