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最終更新者 match1128
基本情報
場所 北緯37度46分11秒, 東経140度41分03秒
分岐
トイレ

霊山城跡 (基準標高644.1m)付近の気温

5月の気温(推定値)
最高気温
19.2
平均気温
12.3
最低気温
6.6
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周辺の平年の気象状況

5月の気象
日照時間 6 時間/日
降水量 3 mm/日
最深積雪 データなし
気象データの範囲(1km四方)
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※本ページ記載の気象データは、国土交通省が公開している国土数値情報をもとに推定を行ったものであり、現在の気象情報を示すものではありません。登山の際は必ず山の天気予報 ヤマテンなどの山の気象予報をご確認の上お出かけください。

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霊山城跡
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霊山城跡
霊山城跡
霊山城跡

山の解説 - [出典:Wikipedia]

霊山城(りょうぜんじょう)は、陸奥国伊達郡(現在の福島県伊達市霊山地域)にそびえる霊山の山頂付近にあった南北朝時代の日本の城。
霊山山頂には円仁創建の天台宗寺院霊山寺(現在は山麓に移転)が建立されて栄えていた。が、1337年2月9日(延元2年/建武4年1月8日)に鎮守府将軍北畠顕家が広橋経泰らと図って、陸奥太守義良親王を多賀国府から霊山に移して山頂付近に「国司館」を設置、国衙機能をここに移して北朝勢力に対抗したことに由来している。?
多賀国府は吾妻鑑に記されているが、発掘調査で該当時代の遺構は出土しない。多賀城は陸奥城塞の一つで国府ではない。
大同五年五月十一日の太政官符に記された位置から陸奥国府は信夫郡に存在したと言える。
陸奥守藤原師綱は在国司目藤原基衡が公田(国衙領)を押領し国司の威は無きが如しとして信夫郡で糾弾している。陸奥国府が信夫郡にあった傍証と言える。
文治二年六月小廿一日丁卯。【吾妻鏡】1186年『爲搜尋求行家義經隱居所々。(中略)謀叛人居住國々。凶徒之所帶跡ニハ。所令補地頭候也。然者庄園者本家領家所役。國衙者國役雜事。任先例可令勤仕之由。所令下知候也。(後略)』
義経を匿った凶徒、藤原秀衡の所帯跡に地頭が置かれたはずである。
仁治元年閏十月廿日【将軍家藤原頼経政所下文】1240年
将軍家政所下 左兵衛少尉藤原行氏
 可令早領知肥前国鏡社、可守永平?行阿例也、伊勢国益田庄、尾張国西門真庄、参河国重原庄、相模国懐島内殿原郷、
陸奥国信夫庄内鳥和田村等地頭職事、
右人、任父親左衛門尉基行法師法名行阿今年十月十四日譲状、守先例、
 可令領知之状、所仰如件、以下、
  仁治元年閏十月廿日案主左近将曹菅野知家事弾正忠清原
令左衛門少尉 藤原
別当前武蔵守平朝臣(北条泰時 花押)
 この藤原行氏は工藤氏で後に二階堂と名乗った鳥和田村地頭職二階堂氏である。
 『國衙者國役雜事。任先例可令勤仕之由。』とあるように平安時代の国衙体制は鎌倉時代に引き継がれた。
 陸奥守の補任記録が奈良時代から鎌倉時代末期、北畠顕家までほぼ間断なく存在することから、平安時代の国衙、国役雑事の先例が鎌倉時代に引き継がれたものと考えられる。大同五年の陸奥国府は鎌倉時代にも信夫郡に在った。鎌倉幕府滅亡後の陸奥国支配のため親王宮?國司北畠顕家は信夫郡の陸奥国府に赴任した。
 中先代の乱平定のため親王宮?國司は関東に發向し、国府を留守した間に北朝方に国府を占拠されてしまった。
建武二年十二月廿八日【岩城文書】1335年
自奥州、親王宮?國司、為追伐關東御發向之由、其聞候之間、
奉懐取 親王宮、為被追伐國司以下凶徒等、相催當國軍勢候之處、
御参御方之條、眞實眞實目出相存候、來月五日、為追伐國司、
可罷立國候、御同道候者、尤本望候也、執達如件
 建武二年十二月廿八日 沙彌 行 圓
  式部伊賀左衛門三郎殿
延元元年八月廿六日【相馬胤平軍忠状 相馬文書】1336年(南朝方)
合戦目安
相馬六郎左衛門尉胤平申合戦
右、陸奥国高野郡内八築(八槻)宿仁天、去年建武三十二月廿三日夜、
御敵数千騎押寄之処仁、捨于身命、令塞戦之処仁、幡差平七助久小耳尾被射抜畢、同廿六日当國行方郡高平村内寛徳寺打越、舎弟八郎衛門尉家胤・同九郎兵衛尉胤門、?次郎兵衛尉胤景・同又次郎胤時・同彦次郎胤祐・同孫五郎親胤、相共構城館、於御方館築候之処仁、当年建武四(1337)三月八日為凶徒対治、自伊達郡霊山館、於広橋修理亮雖参大将軍小手保河俣城被相向候之由、有其聞之間、同十一月馳向之処仁、先立于御敵成于降人参之間、同十三日信夫庄打入天、対治凶徒余類、同十五日同庄荒井城押寄、致合戦之忠、捨身命令相戦之間、御敵降人仁出来候訖、(○中略)被此度々合戦令忠節候之上者、為賜御判、合戦目安之状、如件、
 延元元年八月廿六日
  (証判)「検知之(花押 広橋経泰)」
 霊山城の南朝方は国府を奪還すべく信夫郡に攻め入っている。
荒井の城は荒井と鳥和田の境にある鎌倉時代の地頭職二階堂氏の居城と考えられる。
延元二年五月十四日 【後醍醐天皇綸旨案】 1337年(南朝方)
為宮御共、参霊山城之由、聞食、相扶老躰、在忠節之条、尤以所感思食也
殊廻籌策、早速可対治朝敵、且陸奥国司上洛者、其間事、
殊可沙汰、軍忠之次第、猶以神妙、宜被加其賞者、
天気如此、悉之、以状、
  延元二年五月十四日 勘解由次官 在判
 結城上野入道館
貞和二年二月九日【吉良貞家軍勢催促状 相馬文書】1346年
所々城郭対治事、為談合、不日可被参府、若令 違期者、可有其咎之状如件、
 貞和二年二月九日 修理大夫(吉良貞家)(花押)
貞和三年七月廿三日【畠山国氏軍勢催促状 浪江町大和田秀文蔵】1347年
為霊山凶徒後攻、所差遣冨田彦三郎也、早属彼手、相催庶子、
可被抽軍忠之状、如件、
 貞和三年七月廿三日 右馬権頭(畠山国氏 花押)
 石川蒲田五郎太郎殿 
 貞和二年の北朝方の一斉攻撃で国府(信夫郡)を取り囲む形で布陣した南朝方の(霊山、川俣、小手保、藤田等)諸城は陥落した。 
近代以後、何度か調査され、1980年(昭和55年)に大規模な発掘調査が行われた。その結果、建物の礎石跡などの遺構の他、宋銭や古瀬戸など当時の活動の後を示す物が発掘されている。

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