
最終更新:Ham⭐
基本情報
標高 | 584m |
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場所 | 北緯35度02分39秒, 東経134度31分41秒 |
山頂にある長水城は西播磨山城11(イレブン)の一つ
https://www.nishiharima.jp/yamajiro/chouzui_page
宍粟市山崎町の市街地から北西約5キロ、標高584メートルの長水山の山頂に築かれた城で、西播磨の山城の中でも規模が大きく、五十波(いかば)・宇野地区などにまたがり、山頂の周囲には、険しい斜面が取り巻く堅固な構造となっています。
信徳寺本堂が建つ山頂部に主郭を置き、東西約200メートル、南北約500メートルの尾根沿いに複数の郭(くるわ)を配置。西麓の蔦沢小学校(旧伊水小学校)付近は大手口の居館(きょかん)跡で、周辺に残る殿町、町屋敷などの地名から、初期的な城下町があったと推測されています。
山頂からは、山崎町の町並みや、秀吉勢の本陣が置かれたとされる聖山城(ひじりやまじょう)跡、篠ノ丸城跡、揖保川などが一望できます。
https://www.nishiharima.jp/yamajiro/chouzui_page
宍粟市山崎町の市街地から北西約5キロ、標高584メートルの長水山の山頂に築かれた城で、西播磨の山城の中でも規模が大きく、五十波(いかば)・宇野地区などにまたがり、山頂の周囲には、険しい斜面が取り巻く堅固な構造となっています。
信徳寺本堂が建つ山頂部に主郭を置き、東西約200メートル、南北約500メートルの尾根沿いに複数の郭(くるわ)を配置。西麓の蔦沢小学校(旧伊水小学校)付近は大手口の居館(きょかん)跡で、周辺に残る殿町、町屋敷などの地名から、初期的な城下町があったと推測されています。
山頂からは、山崎町の町並みや、秀吉勢の本陣が置かれたとされる聖山城(ひじりやまじょう)跡、篠ノ丸城跡、揖保川などが一望できます。
山頂 | |
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展望ポイント |
山の解説 - [出典:Wikipedia]
長水山城(ちょうずいさんじょう)、または長水城(ちょうずいじょう)は、兵庫県宍粟市山崎町片山・宇野の、標高584メートルの長水山山頂にあった日本の城(山城)。南北朝時代、宍粟を治めた播磨守護・赤松則祐が、文和年間(1352年-1356年)に築いた。
後に則祐の四男・広瀬師頼が城を受けついだ。この師頼が広瀬氏の祖とされ、その支配は4代まで続いたが、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱の後は、城主が宇野氏へ変わった。宇野氏による支配は5代続き、宇野氏は長水城を本拠として長水山城を拡張した。1580年(天正8年)、羽柴秀吉による長水城攻めにより落城した。城主・宇野祐清(うのすけきよ)は、美作へ逃れようとしたものの千種で秀吉配下の蜂須賀正勝の率いる軍に追いつかれて討死した。
『柴田退治記』によれば、賤ヶ岳の合戦後に御子田正治が広瀬城主になったとされている。
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