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更新日:2017年01月27日 訪問者数:509
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愛鷹山南面 炭焼窯(かま)跡群について
pixus
愛鷹山山系を歩いていると炭焼をしたと伝わる炭焼窯跡を見る事がある、里山として古くから人々の生活に利用されてきたと思っていたが、今回馬場平の尾根の下から愛鷹山鞍部へ向かう登山道の間に数多くの炭焼窯を見つけたことから、炭焼窯に絞って整理してみた。

まず愛鷹山山頂へ向かう登山道(コル道)に大きな窯跡が2つあるが、実はその上をあがると並行してもう2つ大きな窯跡があった。(連絡道らしきものアリ)
炭焼場の共通点としては沢が近くにあり水場が確保できること、そして沢の石で窯の背石組みや室作りが出来る事。さらに作業小屋と宿泊小屋を建てるような平地があることである。
この4つの窯跡場については完全に確保出来ている。

さらに奥、釜が木にあがっている入口(炭焼群入口から)東側の沢を上がると驚くことに確認しただけで9個の窯跡があった。そしてさらに驚くことに?排煙口のある窯を2つ見つけた。
排煙口のある窯は全周が石組みされており入口の両端にまた石が積まれている。

炭窯についてはつたない学習で、江戸から明治初期には土窯と言われ斜面に穴を掘って焼く方法に背石と言われて斜面の上側だけに石を積んでいるものが多いが、明治後期には排煙部を授けて低温で焼く大正式、また改良型の静岡式(石神式)が使われて来ている。
この場所に排煙口のある窯跡を見ることにより、この窯が大正から昭和30年くらいまで盛んに良質の炭を生産していた事がわかる。
明治20年の測量地図をみるとこの場所に道が描かれており、たいへんな生産量を誇る炭焼現場であったことがうかがえる。

また、一服峠の南にあがる高橋川の別支流に川が護岸のために石積みされた場所があり、ここにも2つ大きな炭焼窯跡がある。近くに赤ペンキで標識のような字が描かれている名残もあり作業区分ではないかと思われる。

この馬場平の稜線下部の範囲においての炭焼場の道を南にたどると山居遺構を通っており、炭焼き道という事が言える。
山居については同時期に江原素六らが山居牧場として乳牛を飼育していたという記録がある。しかし、山居から休場へは広い馬力道もあり牛乳とともに炭俵も原方面に下したのではないかと思う。
明治20年測量の地図には山居遺構に土塁と建物が描かれている。つまり山居遺構は明治20年頃より愛鷹上部の炭焼拠点への物資運搬基地、これらのための力馬の飼育と乳牛飼育をしていたのではないか。
炭焼場に置いても切り開いた斜面にヒノキ植林をしたりミツマタを植えて復生事業をしていたので愛鷹山南面を利用した事業としてうけとめたほうがいいと思う。

御殿場、裾野と富士市方面の炭生産の記録は若干残るのだが沼津市のこの場所については記録が今のところない。

想像であるが、この炭焼群のもとは江原素六らの幕府家臣への授産事業の一環としてはじまったのではないか?また、記録がなかなかないのは故意に記録を消しているとも思える。
やはり、幕末の動乱時に埋蔵金が山居から運ばれていたのだろうか?

馬場平への斜面への山行からおもわずまた埋蔵金に繋がる話が出てしまった。
愛鷹山 馬場平下窯跡群
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