記録ID: 1069962
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ハイキング
京都・北摂
京都検定ウォーキング 了頓図子、膏薬図子、不明門通、釜座通、天使突抜通、壬生寺、神泉苑・・・。
2017年02月19日(日) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 03:15
- 距離
- 12.1km
- 登り
- 11m
- 下り
- 12m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 3:15
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 3:15
距離 12.1km
登り 4m
下り 7m
7:07
195分
スタート地点
10:22
ゴール地点
過去天気図(気象庁) | 2017年02月の天気図 |
---|---|
アクセス |
写真
京都検定のテキストより
かまんざどおり
釜座通
この通りの三条あたりに、釜を鋳造する者たちが多く居住していたことによる。その歴史は古く、鎌倉時代の正応二年(一二八九)の記録に「三条まちかまのざの弥藤三」なる者の活動が見えている。
かまんざどおり
釜座通
この通りの三条あたりに、釜を鋳造する者たちが多く居住していたことによる。その歴史は古く、鎌倉時代の正応二年(一二八九)の記録に「三条まちかまのざの弥藤三」なる者の活動が見えている。
京都検定のテキストより
中京区の室町通と新町通の間を、三条から六角まで抜ける細い道を「了頓図子」と呼ぶ。桃山期の茶人として著名な広野了頓の屋敷があったことにちなんでおり、豊臣秀吉もここで茶を喫した。面白いことに、了頓の遺志により、夜間以外は町人たちに屋敷内を自由に通行させたという逸話が残っており、すでに辻子の役目を果たしていたことになる。
中京区の室町通と新町通の間を、三条から六角まで抜ける細い道を「了頓図子」と呼ぶ。桃山期の茶人として著名な広野了頓の屋敷があったことにちなんでおり、豊臣秀吉もここで茶を喫した。面白いことに、了頓の遺志により、夜間以外は町人たちに屋敷内を自由に通行させたという逸話が残っており、すでに辻子の役目を果たしていたことになる。
京都検定のテキストより
下京区の新町通と西洞院の問、四条通から綾小路通まで、屈曲して通じる細道が「膏薬図子」と呼ばれる。この地にはかつて空也上人が一宇を建て、悲運の武将平将門の霊を弔ったことから「空也供養の道場」と呼ばれた。それがいつしか詑って「膏薬」になってしまったというのだ。
下京区の新町通と西洞院の問、四条通から綾小路通まで、屈曲して通じる細道が「膏薬図子」と呼ばれる。この地にはかつて空也上人が一宇を建て、悲運の武将平将門の霊を弔ったことから「空也供養の道場」と呼ばれた。それがいつしか詑って「膏薬」になってしまったというのだ。
京都検定のテキストより
難読地名
不明門通/化野/一口/太秦/御室/鶏冠井/帷子の辻/釜座通/雲母坂/神足/御幸町通/鹿ヶ谷/直違橋/糺の森/天使突抜通/椥辻/納所/先斗町/御陵/壬生
あけずどおり
不明門通
車屋町通の松原以南をいう。因幡堂平等寺の正門がこの通りに面していたが、常に閉ざされていたことから、通り名となった。
難読地名
不明門通/化野/一口/太秦/御室/鶏冠井/帷子の辻/釜座通/雲母坂/神足/御幸町通/鹿ヶ谷/直違橋/糺の森/天使突抜通/椥辻/納所/先斗町/御陵/壬生
あけずどおり
不明門通
車屋町通の松原以南をいう。因幡堂平等寺の正門がこの通りに面していたが、常に閉ざされていたことから、通り名となった。
京都検定のテキストより
難読地名
不明門通/化野/一口/太秦/御室/鶏冠井/帷子の辻/釜座通/雲母坂/神足/御幸町通/鹿ヶ谷/直違橋/糺の森/天使突抜通/椥辻/納所/先斗町/御陵/壬生
てんしつきぬけどおり
天使突抜通
下京区の西洞院通と油小路通の間の南北の通り。この道が、もと五条天神宮(別名天使社)の境内を貫通していたことから呼ばれた。
難読地名
不明門通/化野/一口/太秦/御室/鶏冠井/帷子の辻/釜座通/雲母坂/神足/御幸町通/鹿ヶ谷/直違橋/糺の森/天使突抜通/椥辻/納所/先斗町/御陵/壬生
てんしつきぬけどおり
天使突抜通
下京区の西洞院通と油小路通の間の南北の通り。この道が、もと五条天神宮(別名天使社)の境内を貫通していたことから呼ばれた。
京都検定のテキストより
ごじようてんしんぐう
五条天神宮(下京区松原通西洞院西入天神前町)
祭神は大己貴命、少彦名命、天照大神。天使社とも呼ばれた。平安遷都にあたって、空海が大和国から天神を勧請したのに始まるという。祭神の少彦名命が薬の神であるため、医家の祖神として信仰された。現在は厄除けの神としても知られる。二月の節分祭には日本最古といわれる宝船図を参拝者に配布する。
ごじようてんしんぐう
五条天神宮(下京区松原通西洞院西入天神前町)
祭神は大己貴命、少彦名命、天照大神。天使社とも呼ばれた。平安遷都にあたって、空海が大和国から天神を勧請したのに始まるという。祭神の少彦名命が薬の神であるため、医家の祖神として信仰された。現在は厄除けの神としても知られる。二月の節分祭には日本最古といわれる宝船図を参拝者に配布する。
壬生寺へ・・・。
京都検定のテキストより
難読地名
不明門通/化野/一口/太秦/御室/鶏冠井/帷子の辻/釜座通/雲母坂/神足/御幸町通/鹿ヶ谷/直違橋/糺の森/天使突抜通/椥辻/納所/先斗町/御陵/壬生
みぶ
壬生
この付近一帯は、から、低湿地であることから小泉が多く、水がよく湧き出たことから「水生(みぶ)」の称が起こり、いつしか「壬生」の文字があてられるようになった。
京都検定のテキストより
難読地名
不明門通/化野/一口/太秦/御室/鶏冠井/帷子の辻/釜座通/雲母坂/神足/御幸町通/鹿ヶ谷/直違橋/糺の森/天使突抜通/椥辻/納所/先斗町/御陵/壬生
みぶ
壬生
この付近一帯は、から、低湿地であることから小泉が多く、水がよく湧き出たことから「水生(みぶ)」の称が起こり、いつしか「壬生」の文字があてられるようになった。
京都検定のテキストより
みぶでら
壬生寺(中京区壬生梛ノ宮町)
律宗の大本山。本尊は地蔵菩薩。古くは地蔵院・宝瞳三味寺・心浄光院ともいった。正暦二年(九九一)に園城寺の快賢が建立。承暦年問(一〇七七〜八一)には地蔵院と呼ばれ、
本尊の地蔵菩薩の厄除け・開運を願う信仰が広がって繁栄した。正嘉元年(一二五七)には火災で被害にあったが、中興の祖とする円覚上人が再興。この復興は円覚が正安二年(一三〇〇)に始めた悪疫駆除のための融通大念仏会(壬生狂言の起源)によって集めた募財によるという。幕末には新選組の屯所に近く、境内の壬生塚には近藤勇像や芹沢鴨ら十一人の新選組隊士の墓塔がある。節分会(二月二日〜四日)・春秋(四月二十一日〜二十九日、十月の連休の三日間)の壬生大念仏狂言(国の重要無形民俗文化財)は有名。七月十六日には新選組隊士等慰霊供養祭を行う。
みぶでら
壬生寺(中京区壬生梛ノ宮町)
律宗の大本山。本尊は地蔵菩薩。古くは地蔵院・宝瞳三味寺・心浄光院ともいった。正暦二年(九九一)に園城寺の快賢が建立。承暦年問(一〇七七〜八一)には地蔵院と呼ばれ、
本尊の地蔵菩薩の厄除け・開運を願う信仰が広がって繁栄した。正嘉元年(一二五七)には火災で被害にあったが、中興の祖とする円覚上人が再興。この復興は円覚が正安二年(一三〇〇)に始めた悪疫駆除のための融通大念仏会(壬生狂言の起源)によって集めた募財によるという。幕末には新選組の屯所に近く、境内の壬生塚には近藤勇像や芹沢鴨ら十一人の新選組隊士の墓塔がある。節分会(二月二日〜四日)・春秋(四月二十一日〜二十九日、十月の連休の三日間)の壬生大念仏狂言(国の重要無形民俗文化財)は有名。七月十六日には新選組隊士等慰霊供養祭を行う。
京都検定のテキストより
○歴史・史跡○神社・寺院○建築・庭園・美術○芸術・文化○生活・行事○自然・観光
伝統工芸/伝統文化/花街
1歌道2茶道3華道4能5狂言6歌舞伎7京舞と井上流
茂山家/大念仏狂言
大念仏狂言
狂言は、能楽の一部として発達したものの他に、民俗芸能として伝統行事の申で伝承されてきたものがある。念仏の布教のために催された狂言もその一つ。京都の三大念仏狂言として、壬生寺の「壬生大念仏狂言」(二月、四月、十月)、引接寺(千本閻魔堂)の「ゑんま堂大念仏狂言」(五月)、「嵯峨大念仏狂言」(三月、四月、十月)が有名。
壬生・嵯峨とも狂言面を付けて演じる無言劇であるが、千本閻魔堂はセリフの入るのが特徴。
○歴史・史跡○神社・寺院○建築・庭園・美術○芸術・文化○生活・行事○自然・観光
伝統工芸/伝統文化/花街
1歌道2茶道3華道4能5狂言6歌舞伎7京舞と井上流
茂山家/大念仏狂言
大念仏狂言
狂言は、能楽の一部として発達したものの他に、民俗芸能として伝統行事の申で伝承されてきたものがある。念仏の布教のために催された狂言もその一つ。京都の三大念仏狂言として、壬生寺の「壬生大念仏狂言」(二月、四月、十月)、引接寺(千本閻魔堂)の「ゑんま堂大念仏狂言」(五月)、「嵯峨大念仏狂言」(三月、四月、十月)が有名。
壬生・嵯峨とも狂言面を付けて演じる無言劇であるが、千本閻魔堂はセリフの入るのが特徴。
京都検定のテキストより
壬生寺界隈(中京区)
坊城通綾小路下ルの八木源之丞邸は、近藤勇・土方歳一二ら試衛館グループや芹沢鴨の一派が上京後、清河八郎と決別して最初に屯所としたところ。芹沢鴨一派の粛清はこの邸内でのこと。また向かい側の旧前川邸は、池田屋事件の端緒となった古高俊太郎への拷間や、山南敬助切腹の舞台となったことで知られる。近くの壬生寺境内には近藤勇の胸像ほか隊士の墓碑が立ち並んでおり、三橋美智也の「あ丶新選組」の歌碑も立つ(実際に歌も聞ける)。その他、清河八郎が浪士相手に大演説を行った新徳寺、山南敬助の墓のある光縁寺など、周辺は新選組ファンのメッカとなっている。
壬生寺界隈(中京区)
坊城通綾小路下ルの八木源之丞邸は、近藤勇・土方歳一二ら試衛館グループや芹沢鴨の一派が上京後、清河八郎と決別して最初に屯所としたところ。芹沢鴨一派の粛清はこの邸内でのこと。また向かい側の旧前川邸は、池田屋事件の端緒となった古高俊太郎への拷間や、山南敬助切腹の舞台となったことで知られる。近くの壬生寺境内には近藤勇の胸像ほか隊士の墓碑が立ち並んでおり、三橋美智也の「あ丶新選組」の歌碑も立つ(実際に歌も聞ける)。その他、清河八郎が浪士相手に大演説を行った新徳寺、山南敬助の墓のある光縁寺など、周辺は新選組ファンのメッカとなっている。
京都検定のテキストより
神泉苑(中京区御池通神泉苑町東入門前町)
平安京造営の際の禁苑であるが、現在は東寺真言宗の寺院。本堂の本尊は聖観世音菩薩。法成就池の中央に天長元年(八二四)空海が勧請して祈雨の修法を行った善女龍王を祀る。中国の禁苑にならって造営された苑内には乾臨閣や左右の楼閣、釣殿などを建立、桓武天皇以後、歴代の天皇が行幸遊宴を行った。貞観年問(八五九〜七七)には現在の祓園祭の発祥となる御霊会が二度行われ、全国の国の数にあたる六十六本の鉾を立てて、神泉苑の池水で清めた。これ以後、禁苑と霊場の性格を併せ持つようになったが、中世以後は荒廃した。慶長七年(一六〇二)に神泉苑の泉を利用して二条城の内堀が造営されるにともない、苑域が縮小された。同十二年に快雅が中興して真言宗寺院となった。毎年五月一日から四日までの神泉苑祭で神泉苑大念仏狂言が上演公開される。
神泉苑(中京区御池通神泉苑町東入門前町)
平安京造営の際の禁苑であるが、現在は東寺真言宗の寺院。本堂の本尊は聖観世音菩薩。法成就池の中央に天長元年(八二四)空海が勧請して祈雨の修法を行った善女龍王を祀る。中国の禁苑にならって造営された苑内には乾臨閣や左右の楼閣、釣殿などを建立、桓武天皇以後、歴代の天皇が行幸遊宴を行った。貞観年問(八五九〜七七)には現在の祓園祭の発祥となる御霊会が二度行われ、全国の国の数にあたる六十六本の鉾を立てて、神泉苑の池水で清めた。これ以後、禁苑と霊場の性格を併せ持つようになったが、中世以後は荒廃した。慶長七年(一六〇二)に神泉苑の泉を利用して二条城の内堀が造営されるにともない、苑域が縮小された。同十二年に快雅が中興して真言宗寺院となった。毎年五月一日から四日までの神泉苑祭で神泉苑大念仏狂言が上演公開される。
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