天皇陵巡礼4(佐保/ 元明・元正・聖武・開化の四天皇 + 光明皇后)
- GPS
- 02:02
- 距離
- 8.8km
- 登り
- 55m
- 下り
- 53m
コースタイム
- 山行
- 1:44
- 休憩
- 0:18
- 合計
- 2:02
天候 | 晴れ・曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2017年07月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
●帰り = 奈良 13:17 (大和路線大和路快速・大阪行・460円・所要時間33分) 天王寺 |
写真
感想
天皇陵巡り第4弾。順番通りだと 第8代 孝元天皇と欽明・天武・持統・文武の五天皇 (四陵墓) だが、明日香の地はかずー氏と行く予定。ところが かずー氏 足の指の骨折のため行くことができない。
そこで先に第9代 開化天皇陵を含む、奈良から平城山 (ならやま) にある4陵墓を先に行くことに。
ちなみに 開化天皇陵は昨年夏、奈良に用事があった折 参拝しているので2回目となる。
また 当初は逆コースを考えていたが、食事の便利を考え、店が多い奈良駅をゴールとした。
平城山駅から陸橋を渡って佐保台という閑静な住宅街に。その陸橋が地図に記載がなかったため道を間違えたが、気付き、予定外の道を通って、ならやま大通りに出た。交通量が多く、暑さで辛いところだ。ただし歩道は広い。
県道44号線に合流し、南へ。
まもなく それらしい分岐に着くが、道標がなく 少々迷う。
しかし やはりここだと 左折。
第43代 元明天皇陵 着。奈良遷都をおこなった女帝ということで、感慨深い。
県道の分岐に戻って、県道をはさんで並んである第44代 元正天皇陵 着。
元明天皇の娘。母娘で皇位継承がおこなわれたという唯一の例、また養老の滝伝説で知られるということで、こちらも感慨深い。
さて、県道44号線を南下していく。
大仏鉄道遺構 黒髪山トンネル跡、その後 奈良テレビや店が現われ、さらに複数のスポーツ施設が現われるなど賑やかに。
ならでんフィールド前から西に入ると、やがて聖武天皇陵の道標が現われる。
短い階段を登って林の中、山登り気分。上方にはずらっと並んだ柵が見える。しかし舗装道は結局すぐ車道に下りるだけ。
手の込んだ冗談か?と訝しく思いながら、結局 予定通りの道へ。
県道104号線に合流 (元明・元正天皇陵の石標あり)、まもなく 聖武天皇・光明皇后陵の入り口・制札 着。
長い参道、庭園のように美しい敷地は大変 立派だ。
まずは聖武天皇陵。東大寺、全国の国分寺を建立したことで有名な天皇。
右隣に光明皇后陵。ただし正式には (天平応真) 仁正皇太后という御名とのことで、面食らう。
「やすらぎの道」を南下。名のイメージとはまったく違った交通量の多い車道だ。
近鉄奈良駅近くはさらに賑やか。国道369号線を超えて、三条通。
開化天皇陵の入り口・制札は外国人観光客も多いこの通りにある。
奈良駅へ。王将で食べようと考えていたが、全然 腹は減っていない。暑さで疲れていると腹は減らないようだ。
駅に隣接するスーパーでジュース (オランジーナ) だけ買って、電車に乗り込んだ。
***
●第9代 開化 (かいか) 天皇
【諡号】 稚日本根子彦大日日天皇 (わかやまとねこひこおおひびのすめらみこと)
【生没】前208〜前98年 (111歳)
【在位】前158〜前98年 (61年間)
【父】孝元天皇 (第2子) 【母】欝色謎命 (うつしこめのみこと)
【皇后】伊香色謎命 (いかがしこめのみこと)
【皇居】春日率川宮 (かすがのいざかわのみや) 現在の奈良市本子守町周辺
【陵所】春日率川坂上陵 (かすがのいざかわのさかのえのみささぎ) 現在の奈良市油阪町 考古学名は念仏寺山古墳 ※前方後円
◇「欠史八代」のひとりで、記紀に事跡の記載なし。
欠史八代の最後の天皇で、実在した可能性が高いとされる祟神天皇の父とされている。
***
●第43代 元明 (げんめい) 天皇
【諡号】日本根子天津御代豊国成姫天皇 (やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)
【諱 (いみな)】 阿閇皇女 (あへのひめみこ)
【生没】661〜721年 (61歳)
【在位】707年7月〜715年9月 (8年1ヶ月間)
【父】天智天皇 【母】蘇我姪娘 (そがのめいのいらつめ)
【皇配】草壁皇子
【皇居】藤原宮 → 平城宮
【陵所】奈保山東陵 (なほやまのひがしのみささぎ) 現在の奈良市奈良阪町 ※山形
◇ついに奈良時代の天皇☆
大友皇子 (弘文天皇) は異母兄。天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。
679年頃、甥の草壁皇子と結婚。681年 草壁皇子が皇太子となるものの、689年 草壁皇子は即位することなく早世する。
690年 姉で義母でもある鸕野讃良皇女 (持統天皇) の即位を経て、697年 息子の珂瑠皇子 (文武天皇) が即位し、阿閇皇女は皇太妃となった。
しかし 707年 (慶雲4年) 文武天皇が病に倒れ、25歳で崩御。孫の首 (おびと) 皇子 (後の聖武天皇) はまだ幼かったため、中継ぎの形で 皇后を経ずに即位した。
710年 (和銅3年)、藤原京から平城京に遷都。左大臣 石上麻呂 (いしのかみまろ) を藤原京の管理者 (留守司) として残したため、右大臣 藤原不比等が事実上の最高権力者となった。
不比等のもとで大宝律令を整備、運用。律令国家の完成に注力する。
「古事記」の撰上、「風土記」編纂の開始、和同開珎の鋳造などの業績が残されている。
●第44代 元正 (げんしょう) 天皇
【諡号】日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)
【諱】氷高 (ひたか)
【生没】680〜748年 (69歳)
【在位】715年9月〜724年2月 (8年5ヶ月間)
【父】草壁皇子 【母】元正天皇
【皇配】なし
【皇居】平城宮
【陵所】奈保山西陵 (なほやまのにしのみささぎ) 現在の奈良市奈良阪町 ※山形
◇孫の首 (おびと) 皇子 (後の聖武天皇) はまだ時期尚早ということで、元明天皇は娘の氷高に譲位。天皇史上唯一となる母娘での皇位継承がおこなわれた。
5人目の女帝だが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験がなく、独身で即位した初めての女性天皇でもある。これを女系継承とする識者も一部存在するが (高森明勅氏がTV番組で発言していた)、父は草壁皇子であるため、男系の血筋をひく女性皇族間の皇位継承であることに間違いない。
「続日本紀」には「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。
藤原不比等らが中心となって「養老律令」の編纂が始まり、「日本書紀」の撰上がおこなわれた。
720年、不比等が亡くなる。翌年 元正天皇のいとこにあたる長屋王が右大臣に任命され、事実上 政務を任される。
723年、田地の不足を解消するために三世一身法が制定。これにより律令制は早くもほころびが生じている。
724年 (養老8年・神亀元年)、皇太子 (聖武天皇) に譲位。退位の詔では新帝を「我子」と呼んで、退位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。
●第45代 聖武 (しょうむ) 天皇
【諡号】天璽国押開豊桜彦天皇 (あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)
【諱】 首皇子(おびとのみこ)
【生没】701〜756年 (56歳)
【在位】724年2月〜749年7月 (25年5ヶ月間)
【父】文武天皇 【母】藤原宮子 (藤原不比等の娘)
【皇后】藤原光明子
【皇居】平城宮
【陵所】奈保山西陵 (なほやまのにしのみささぎ) 現在の奈良市法蓮町 考古学名は法蓮北畑古墳 ※山形
◇文武天皇の第一皇子として生まれたが、7歳の時に父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、長く会うことはなかったとのこと。
714年 元服と同時に立太子。しかし病弱であったこと、藤原氏との対立もあって、即位は先延ばしにされ (元明・元正天皇時代)、24歳の時に即位。
当初は長屋王が政権を担当。この当時、藤原氏は自家出身の光明子 (父は藤原不比等) の立后を願っていた。しかし皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから (中継ぎとして即位する可能性があるため)、長屋王は光明子の立后に反対していた。
ところが729年 (神亀6年)、長屋王は謀反の嫌疑をかけられて自害に追い込まれ (長屋王の変)、光明子は非皇族として初めて立后。
長屋王の変は、光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟 (武智麻呂・房前・宇合・麻呂) が仕組んだものといわれている。
しかし737年 (天平9年) に天然痘が流行、藤原四兄弟をはじめとする政府高官のほとんどが病死する。
さらに転変地異、大宰府での藤原広嗣の乱など、凶事が頻発。
聖武天皇は仏教に深く帰依し、741年 (天平13年) に国分寺建立の詔を、743年 (同15年) には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出した。
さらに たびたび遷都をおこなって災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。
749年 (天平勝宝元年)、大仏を礼拝した天皇は、自らを「三宝 (仏法僧) の奴」と称し、娘の阿倍内親王 (孝謙天皇) に譲位。 譲位(太上天皇)した初の男性となる。
752年 (天平勝宝4年) には東大寺大仏の開眼法要をおこない、その2年後 唐の僧 鑑真が来日、皇后や天皇とともに会った。756年 崩御。
◆光明皇后 (こうみょうこうごう) は藤原不比等と県犬養橘三千代の娘で、聖武天皇の皇后 (701〜760)。聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛 (あすかべひめ)。通称に光明子 (こうみょうし) など。正式な尊号は 天平応真仁正皇太后 (てんぴょうおうしんにんしょうこうたいごう)。皇族以外から立后する先例を開いた。
娘である阿倍内親王が孝謙天皇としての即位 (749年) 後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策をおこなった。
光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善をおこなった。
夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。さらに興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
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