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記録ID: 1228651 全員に公開 ハイキング近畿

天皇陵巡礼6(大和西大寺/垂仁・安康・成務・孝謙-稱・平城の六代・五天皇 + 神功皇后陵)

日程 2017年08月17日(木) [日帰り]
メンバー
天候曇り・晴れ
アクセス
利用交通機関
電車
●行き = 大阪難波 10:22 (近鉄奈良線快速急行・大和西大寺乗換・橿原線・490円) 尼ヶ辻 11:11
●帰り = 平城駅 14:52
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地図/標高グラフ


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コースタイム [注]

日帰り
山行
2時間30分
休憩
47分
合計
3時間17分
S尼ヶ辻駅11:1711:27垂仁天皇陵11:3211:56安康天皇陵12:0012:25八幡神社(西大寺)12:3012:43大和西大寺駅踏切13:00大極殿13:0713:15平城天皇陵13:2013:32佐紀神社13:3513:43孝謙-稱天皇陵13:4813:56成務天皇陵14:0214:06日葉酢媛命陵14:1014:17平城駅踏切14:26神功皇后陵14:2914:34平城駅G
コースタイムの見方:
歩行時間
到着時刻通過点の地名出発時刻

写真

尼ヶ辻駅 菅原天満宮への古い道標あり
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尼ヶ辻駅 菅原天満宮への古い道標あり
まもなく垂仁天皇陵が現われる
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まもなく垂仁天皇陵が現われる
サギの住処になっていてたくさん!
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サギの住処になっていてたくさん!
ほとんど池のような堀の向こうに拝所が見えてきた
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ほとんど池のような堀の向こうに拝所が見えてきた
6つの道が交わる交差点
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6つの道が交わる交差点
安康天皇陵 到着
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安康天皇陵 到着
阪奈道路の宝来ランプ付近 トンネルをくぐる
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阪奈道路の宝来ランプ付近 トンネルをくぐる
のどかな住宅街を行く
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のどかな住宅街を行く
ミヤコグサみぃつけた 好きな花
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ミヤコグサみぃつけた 好きな花
八幡神社 気長足姫命 (神功皇后)、誉田別命 (応神天皇)、玉依姫命 (タマヨリビメ) を主祭神とするとのことで、急遽 寄った
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八幡神社 気長足姫命 (神功皇后)、誉田別命 (応神天皇)、玉依姫命 (タマヨリビメ) を主祭神とするとのことで、急遽 寄った
西大寺の北辺を進んで大和西大寺駅方面へ
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西大寺の北辺を進んで大和西大寺駅方面へ
大和西大寺駅の踏切を渡る
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大和西大寺駅の踏切を渡る
平城京宮跡 復元された大極殿
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平城京宮跡 復元された大極殿
敷地内に入って 正面から撮影
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平城天皇陵 着
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平城天皇陵 着
参道の途中に路地が横切っている
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平城天皇陵前から大極殿を望む
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孝謙-稱天皇陵までは「歴史の道」を行く
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孝謙-稱天皇陵までは「歴史の道」を行く
歴史の道からの大極殿
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歴史の道からの大極殿
佐紀神社そばの池では エサをもらおうと鯉 (と亀) が近寄ってきて 口をパクパクさせる ちょっと不気味…
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佐紀神社そばの池では エサをもらおうと鯉 (と亀) が近寄ってきて 口をパクパクさせる ちょっと不気味…
県道52号線脇に孝謙-稱天皇陵が
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県道52号線脇に孝謙-稱天皇陵が
成務天皇陵へは小樽食堂そばから右折するが、空き地になっていてわかりづらく、そのまままっすぐ行ってしまった
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成務天皇陵へは小樽食堂そばから右折するが、空き地になっていてわかりづらく、そのまままっすぐ行ってしまった
成務天皇陵 着
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成務天皇陵 着
垂仁天皇皇后 日葉酢媛命陵が見えてきた
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垂仁天皇皇后 日葉酢媛命陵が見えてきた
成務天皇陵前に戻ってきた
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成務天皇陵前に戻ってきた
成務天皇陵へはこれが近道だった
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平城駅の踏切を渡る
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平城駅の踏切を渡る
八幡神社の右の道を行ったが、左のほうが正解だった
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八幡神社の右の道を行ったが、左のほうが正解だった
裏道から行ったため ここから上がる
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裏道から行ったため ここから上がる
神功皇后陵 仲哀天皇皇后ながら 三韓征伐伝説などにより 天皇よりも有名
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神功皇后陵 仲哀天皇皇后ながら 三韓征伐伝説などにより 天皇よりも有名
石畳の道で退出する
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石畳の道で退出する
こちらが正式な参道だった
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こちらが正式な参道だった

感想/記録
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 さて 今回は西大寺の南と北にある陵墓を巡る。
 六代・五天皇 (孝謙-稱天皇は重祚) と皇后おふたかたという盛りだくさんの内容。
 また 平安時代の天皇を参拝するのは初めて (平城天皇)。さらには おふたかたの皇后とともに孝謙-稱天皇も女性ということで、女性の陵墓が多いのも特徴。

 垂仁天皇陵は尼ヶ辻駅のすぐそば。陵墓を覆う木々には、サギがたくさん休んでいてビックリ。また お堀は一部 池のように大きく、小島が浮かんでいる。
 御陵の写真を撮っている私に、通りすがりのご老人が小島は田道間守 (たじまもり) の墓だと教えてくれた。
 「日本書紀」垂仁天皇紀によれば、田道間守は垂仁天皇の命により不老長寿の果実
非時香菓 (ときじくのかぐのこのみ) (橘のこと) を求めに常世国に派遣されたが、帰ってきた時にはすでに天皇は崩じており、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したとのこと。

 大きなお堀を持つ立派な垂仁天皇陵 参拝後、来た道を戻り、御陵の北辺を辿って西へ。
 阪和自動車道の宝来ランプの手前に 安康天皇陵あり。小さな陵墓だ。

 さてここから西大寺の北方面に移動。長い歩きとなる。
 阪和自動車道をくぐる。
 空は曇りがちで 暑さはまだましな気がするが、汗はダラダラ。今回 熱中症対策として塩入りの飴を持ってきた。 

 住宅街を行く。伏見公民館あたりで、マリンバによるエルガー:威風堂々第1番が聞こえてきた。玄人はだしの上手な演奏だった。
 
 西大寺町に入ると、八幡神社の石標に記された「主祭神は 気長足姫命 (神功皇后)、誉田別命 (応神天皇)、玉依姫命 (タマヨリビメ)」に目が留まった。直線の長い参道も雰囲気があり、寄らずにはいられなかった。
 奈良時代から西大寺の鎮守として祀られており、現在のように八幡神社として整備されたのは13世紀頃と考えられているとのこと。

 西大寺の北辺を通り、大和西大寺駅の北側へ。
 駅周辺は賑やかな街中だが、平城宮資料館あたりからは田舎の風景となる。
 しかし 立派な大極殿が現われ、驚かされる。ここでも吸い込まれるように立ち寄る。観光客がちらほら。
 正面から写真撮影。ちょうど内部の見学会をおこなっていたが、先を急いだ。
 
 平城天皇陵は特異だった。民家の隙間に参道があるのもちょっと興をそがれるが (左は町の電気屋さん)、参道の途中にも生活道路が横切っているのだ。人影があったので 初の参拝者か?と思いきや、地元民だった。左手に家庭菜園があり、その面倒でも見ていたのかもしれない。
 
 孝謙-稱天皇陵方面へは はからずも「歴史の道」。大極殿を左手に眺めながら。
 鯉と亀が不気味にエサをねだってくる池の両端に佐紀神社があり、先のほう (池の東側) はやり過ごしたが、後のほうにはまた吸い込まれてしまった。由緒は不詳とのこと。

 古い町並みの細道を抜け、県道に出る。
 孝謙-稱天皇陵はそのすぐ脇にあった。
 規模はそこそこだが、賑やかな通りに面しており、安らかにお眠りいただくという雰囲気ではない。まさか道鏡を天皇に即けようとした罰が与えられたわけでもあるまい。

 成務天皇陵、日葉酢媛命 (垂仁天皇皇后) 陵はそのすぐ北に位置するが、北に行き過ぎてしまった。随分 遠回りをして成務天皇陵 到着。
 孝謙-稱天皇陵より一段高いところにあり、また日葉酢媛命陵とともに陵墓が大きいうえ、周辺はきれいに自然公園化されていて大変 立派。自転車による散策者あり。
 成務天皇陵前では初の試みとしてケータイで動画を撮ってみた (スマホではない)。…が 声がほとんど聞こえなかった。

 北へ進み、平城駅の踏切を渡ると突き当たりに八幡神社。左手の道を行くと、まもなく神功皇后陵の制札と石段があったのだが、右手のほうを行ってしまった。
 こちらのほうが近道のようだが、やはり正規の参道で行きたかった。
 石畳の参道で退出する。

 平城駅は指呼の間。
 駅のトイレでシャツを着替える。
 セブンティーンアイスクリームを買い、冷房の効いた待合室で休むが、頭痛がしてきた。
 頭痛薬を飲むと徐々に治まったが、大阪市営地下鉄では冷房がいやに寒かった。
 事なきを得たが、しかし 塩飴も効果なく、熱中症になるのは辛いところ。際限なく汗が出るので、塩分たっぷりの食事をとらないといけないのかもしれない。
 また距離も長かった。10キロの予定だったが、12キロ歩いている。夏は8キロ内に収めたいところだ。

 さて 足の指を骨折し、かれこれ2ヶ月 戦線離脱しているかずー氏。そろそろ復帰できるかも知れないとのこと。まずは学文峰を、途中で引き返すことも考慮にいれて、登ってみるかとなどとメールで話していた。

 ***

●第11代 垂仁 (すいにん) 天皇
【諡号】活目入彦五十狭茅尊 (いくめいりびこいさちのみこと)
【生没】前69年〜後70年 (139歳)
【在位】前29〜後70年 (99年間)
【父】崇神天皇 (第3皇子) 【母】御間城姫命 (みまきひめのみこと)
【皇后】狭穂姫命 (さほひめのみこと)、日葉酢媛命 (ひばすひめのみこと)
【皇居】纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや) 現在の桜井市穴師
【陵所】菅原伏見東陵 (すがわらのふしみのひがしのみささぎ) 現在の奈良県奈良市尼辻西町 考古学名は宝来山古墳 ※前方後円
◇数々の奇話に彩られた天皇。最初の皇后の狭穂姫命は、反乱を起こした兄と行動をともにし、火を放たれた城で亡くなった。火中で生んだ誉津別命 (ほむつわけのみこと) は30歳を過ぎるまで話ができなかったという。
 しかし いくつかの起源伝説を持つのが面白い。
 垂仁25年、天皇は 皇祖神 天照大神 (あまてらすおおみかみ) が鎮座する場所を宮中外に求め、娘の倭姫命 (やまとひめのみこと) に国中を探させる。彼女は伊勢に至り、五十鈴川のほとりに祠を建てたのだが、これが伊勢神宮の創建で、倭姫命は斎宮の起源とされている。
 他方 天皇はかねてから殉死を悪習を嘆いていた。天皇垂仁32年 皇后の日葉酢媛命が亡くなると、相撲の元祖といわれる野見宿禰 (のみのすくね) の進言に従い、人の代わりに埴輪を埋納させた。これが埴輪の起源とされている。
 巡礼記に記したように、不老長寿の果実 非時香菓 (ときじくのかぐのこのみ) が間に合わずに崩御したにもかかわらず、139歳 (「古事記」では153歳) まで生きたとされている。

◆日葉酢媛命 (ひばすひめのみこと) は垂仁天皇の皇后 (生年不詳 〜垂仁32年 (西暦3年))。
 父は四道将軍のひとりとして丹波に派遣された丹波道主王 (たんばのみちぬしのみこと)。垂仁天皇との間に景行天皇 他を産む。
 陵墓は狹木之寺間陵 (さきのてらまのみささぎ) に治定されている。前方後円。考古学名は佐紀陵山古墳。

 ***

●第13代 成務 (せいむ) 天皇
【諡号】稚足彦尊 (わかたらしひこのみこと)
【生没】84〜190年 (107歳)
【在位】131〜190年 (60年間)
【父】景行天皇 【母】八坂入媛命 (やさかのいりびめのみこと)
【皇妃】弟財郎女 (おとたからのいらつめ) 他
【皇居】志賀高穴穂宮 (しがのたかあなほのみや) 現在の滋賀県大津市穴太
【陵所】狹城盾列池後陵 (さきのたたなみのいけじりのみささぎ) 現在の奈良市山陵町 考古学名は佐紀石塚山古墳 ※前方後円
◇記紀には成務天皇の記事が極端に少なく、その実在性が疑われている。
 成務5年、国 (くに)・郡(こおり)・県 (あがた)・邑 (むら) という行政区画、造長
(くにのみやつこ)・県主 (あがたぬし)・稲置 (いなぎ) などの担当官等を任命し、天下泰平であったというのが唯一の事績。

 ***

◆神功皇后 (じんぐうこうごう) は第14代 仲哀天皇の皇后 (成務天皇40年〜神功皇后69年 (171〜269))。諡号は長足姫尊 (おきながたらしひめのみこと)。父は開化天皇の玄孫 息長宿禰王 (おきながのすくねのみこ)、母は葛城高顙媛 (かずらきのたかぬかひめ)。第15代 応神天皇の母である。
 夫の仲哀天皇の急死 (200年) 後、神功元年から神功69年 (201~269年) まで政事を執りおこなった。熊襲を討伐後、住吉大神の神託により、お腹に子供 (のちの応神天皇) を宿したまま 筑紫から玄界灘を渡り、朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約束した。「三韓征伐」である。神功皇后の実在性には疑問が呈されているが、太平洋戦争敗戦までは実在の人物、偉人として学校教育で教えられていて、紙幣の肖像にもなっていた。
 また明治時代以前は、神功皇后を天皇 (皇后の臨朝) とみなして 第15代天皇としていた史書もあったとのこと。
 陵墓は狹城盾列池上陵 (さきのたたなみのいけのえのみささぎ)。五社神古墳。前方後円。

 ***

●第20代 安康 (あんこう) 天皇
【諡号】穴穂天皇 (あなほのすめらみこと)
【生没】401〜456年 (56歳)
【在位】453〜456年 (4年間)
【父】允恭天皇 【母】忍坂大中姫 (おしさかのおおなかつひめ)
【皇后】中磯皇女 (なかしのひめみこ)
【皇居】石上穴穂宮 (いそのかみのあなほのみや) 現在の奈良県天理市田町?
【陵所】菅原伏見西陵 (すがわらのふしみのにしのみささぎ) 現在は奈良市宝来 考古学名は古城1号墳 ※方丘
◇先代の允恭天皇崩御後、皇太子 木梨軽皇子 (きなしのかるのみこ) の近親相姦が露見して信を失い 自殺。弟の穴穂尊 (あなほのみこと) が皇位についた。
 即位してまもなく、臣下の讒言 (ざんげん) を信じて、仁徳天皇の皇子 大草香皇子 (おおくさかのみこ) を誅殺。皇子の妃であった中磯姫 (なかしひめ) と連れ子 眉輪王 (まゆわのおおきみ) は宮中に召し入れられた。中磯姫は皇后となったが、父を殺したのは安康天皇であることを知った眉輪王は天皇を暗殺した。眉輪王はその時 7歳というから驚きだ。ちなみに眉輪王を殺害したのは、安康天皇の弟で 次代の天皇 (雄略天皇) となる大泊瀬幼武尊 (おおはつせわかたけるのみこ)。
 なお 中国の「宋書」に記される「倭の五王」の中の「興」は安康天皇とされている。

 ***

●第46代 孝謙 (こうけん) 天皇、重祚し 第48代 称徳 (しょうとく) 天皇
【諱】阿倍 (あべ) 内親王
【生没】718〜770年 (53歳)
【在位】749〜758年 (10年間)、764〜770年 (7年間)
【父】聖武天皇 【母】光明皇后
【皇配】なし
【皇居】平城宮
【陵所】高野陵 (たかののみささぎ) 現在の奈良市山陵町 考古学名は佐紀高塚古墳 ※前方後円
◇738年 (天平10年)、聖武天皇の皇女 阿倍内親王が 女性初の皇太子として立后子。その11年後、32歳の時に譲位によって即位した。聖武天皇は上皇となったが、皇太后 (光明皇后) が後見。
 聖武時代の藤原四卿 病死後 国政を担ってきたのは橘諸兄 (たちばなのもろえ) だったが、藤原武智麻呂の子で、皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂 (のちの恵美押勝 (えみのおしかつ)) の勢力が急速に拡大することになる。
 756年 (天平勝宝8年)、聖武上皇が崩御。上皇は道祖王 (ふなどのおう) を皇太子とするという遺言を残していたが、翌年 孝謙天皇は 皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、舎人親王 (とねりしんのう) の子 大炊王 (おういのおう) を新たな皇太子とした。仲麻呂の権勢が強まることにあせった橘諸兄の子 奈良麻呂らは孝謙天皇を廃するクーデターを計画したが、事前に察知した仲麻呂により関係者は粛清。仲麻呂の権勢はさらに強まった。
 758年 (天平宝字2年)、孝謙天皇は病気であった光明皇太后に仕えるためとして、大炊王に譲位 (淳仁天皇)。760年 (天平宝字4年) 光明皇太后は崩御した。
 その翌年 孝謙上皇は病を患うが快癒。看病にあたった僧 道鏡を寵愛するようになる。
 淳仁天皇を操って仲麻呂が専横を極めていること、あるいは道鏡を除くように働きかけられたことなどに孝謙上皇は憤慨。762年 (天平宝字6年)、自分が政務を執ると宣言する。
 764年 (天平宝字8年)、仲麻呂が軍事準備を始め、それを察知した孝謙上皇派との内戦が勃発。その結果 仲麻呂は殺され、淳仁天皇は淡路に流刑となる。
 孝謙上皇は皇位に復帰。後世、重祚したとして称徳天皇と呼ばれることとなる。
 称徳天皇の道鏡への寵愛はますますエスカレートし、765年 (天平神護元年)道鏡を太政大臣禅師に任じ、翌年には法王とした。その間に淡路で廃帝 淳仁が変死する。
 769年 (神護景雲3年)、大宰府の主神 (かんづかさ) が道鏡に媚び、「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じた。しかし和気清麻呂がそれは虚偽であると報告。これに怒った称徳天皇と道鏡は清麻呂を左遷したうえ、大隅国へ配流した。
 しかしその翌年、称徳天皇は病床に臥せるようになり、崩御。道鏡の権力はたちまち衰え、下野国への下向を任ぜられ、その地で没した。

 ***

●第51代 平城 (へいぜい) 天皇
【諡号】日本根子天推国高彦尊 (やまとねこあめおしくにたかひこにみこと)
【諱】小殿 (おて) 親王、後に 安殿親王 (あてのみこ)
【生没】774〜824年 (51歳)
【在位】806〜809年 (4年間)
【父】桓武天皇 (第1皇子) 【母】藤原乙牟漏 (ふじわらのおとむろ)
【皇后】藤原帯子 (ふじわらのたらしこ)
【皇居】平安宮
【陵所】楊梅陵 (やまもものみささぎ) 現在は奈良市佐紀町 考古学は市庭古墳 ※円丘
◇初の平安時代の天皇の登場となる。平安遷都をおこなった桓武天皇の第1皇子で、平安時代の2代目の天皇にあたる。
 785年 (延暦4年)、立太子。病弱であった上に、父天皇との関係も良好とはいえず、妃の母である藤原薬子 (ふじわらのくすこ) を寵愛して醜聞を招き、桓武天皇は薬子の追放を命じる。
 806年 (延暦25年) に桓武天皇が崩御し、即位。政治に意欲的に取り組む一方で薬子を呼び戻し、尚侍 (ないしのかみ) に任じて宮廷内部の事を一任する。
 809年 (大同4年)、病気のため、在位僅か3年で皇太弟 神野親王 (嵯峨天皇) に譲位して太上天皇となり、旧都 平城京に移り住む。
 しかし翌年、薬子とその兄の藤原仲成 (なかなり) に唆され、平城京への遷都の詔を出し、政権の掌握を図った。しかし嵯峨天皇側に機先を制され、薬子の官位は剥奪される。平城上皇は仲成、薬子らと共に東国に逃れようとしたが、坂上田村麻呂らによって仲成は討たれ、薬子は服毒自殺した。「薬子の変」である。上皇は平城京に戻され、剃髮して仏門に入った。
 その後も上皇 (当時は法皇の称号はなかった) は平城京に滞在。「太上天皇」の称号はそのままとされるなど、相応の待遇は保障されていたようだ。
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