朝のウォーキング史跡巡り 二条城〜堀川〜狩野元信邸址〜室町殿石敷き遺構〜梨木神社

過去天気図(気象庁) | 2017年12月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
バス
|
写真
(上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)
◆本尊釈迦如来
臨済宗相国寺派の大本山。山号は萬年山。正式には相国承天禅寺。京都五山第二位。永徳二年(一三八二)に足利義満が発願し、春屋妙龍・義堂周信を招いて創建を計画。寺名は中国の大相国寺にならって、相国寺となった。翌三年には夢窓疎石を勧請開山として、春屋妙苗が第二世となって入寺。至徳元年(一三八四)に仏殿を建立、明徳三年(一三九二)には寺観が整えられた。
その後の火災で全焼したが、応永三年(二二九六)にはほとんどの伽藍を再建。以後もたびたび焼亡したが、豊臣秀吉や徳川家康らの援助を得て、その度に復興した。往時には高さ一〇九メートルと伝える七重の大塔があったが落雷で焼失したという。慶長十年(一六〇五)に豊臣秀頼が寄進した法堂(重要文化財)は仏殿を兼ね、法堂の遺構として現存最古かつ最大の規模を誇る。内部の鏡天井に描かれる龍は、狩野光信筆で音に共鳴する鳴き龍として知られている。無学祖元墨蹟(国宝)をはじめ、寺宝は数多く、境内には承天閣美術館がある。
相国寺境内に一匹の古狐が住んでいた。千利休の孫宗旦が茶会を開いた時、この狐が宗旦に化けて、見事なお点前を見せたという。また、門前の豆腐屋の破産を救ったり、近くの店を繁盛させたりした。人々から宗旦狐と呼ばれ、稲荷として祀られて、開運の神として信仰を得た。
感想
あるき終わって・・・。
スマホの”保存”ではなく”廃棄”をタップしてしまった(^_^;)
ニ条城
メモ
(中京区二条通堀川西入二条城町)
北が竹屋町通、南が押小路通、東が堀川通で画され、西側が西ノ京式部町に接する。その周囲は幅約十〜二十ニメートルの堀に囲まれている。世界遺産(文化遺産)。
・・・
また元和六年(一六ニ○)、徳川秀忠の娘東福門院和子が後水尾天皇の女御として入内する際には、二条城から儀典が執り行われた。
次いで寛永三年(一六二六)には後水尾天皇が二条城へ行幸するなど、同城は公武和合の象徴として脚光を浴びることになったのである。
・・・
また、徳川秀忠の本丸御殿を造立するとともに、二の丸御殿では徳川家光のための大改造が行われた。現在の二の丸御殿(国宝)は、この時の作事によってほぼでき上がったものである。南に唐門(重要文化財)を配置し、内側に車寄、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院(すべて国宝)が雁行して並び、内部には狩野探幽・尚信・興以による障壁画(重要文化財)が描かれ、絢燗豪華である。
・・・
さて衰退の一途をたどった二条城が再び歴史の表舞台に登場するのは、文久三年(一八六三)、第十四代将軍徳川家茂が久方ぷりの上洛を果たしてからのこと。慶応二年(一八六六)には、最後の将軍徳川慶喜が二条城で将軍宣下を受けたが、翌三年十月になると大政奉還の舞台として二条城が歴史に名を留めることになった。奇しくも二条城は、徳川幕府の誕生と終焉、両方の舞台となったのである。
明治元年(一八六八)、二条城は明治新政府によって接収され、同四年から京都府庁として活用された。その後、宮内省に移管され二条離宮となるが、昭和十四年(一九三九)には離宮が廃止され京都市に下賜された。
ブログは
http://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/2e212979bae58ae51dcb9c10e6b7455c
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する