小田原を巡る 城山・早川駅・小田原港・小田原城


- GPS
- 03:39
- 距離
- 10.8km
- 登り
- 122m
- 下り
- 118m
コースタイム
天候 | 曇り時々晴れ、のち雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2018年01月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
自宅最寄り駅→大船駅→小田原駅 帰り 小田原駅→大船駅→自宅最寄り駅 |
コース状況/ 危険箇所等 |
ほぼ、オールアスファルトになりました。 |
その他周辺情報 | 登山後というよりも、行程が観光ですね。 |
写真
感想
午後から雨の予想が出ている。こういう時は街歩きがいいと思う。で、どこを歩こうか・・・と悩み、小田原にすることとした。小田原から伊豆半島を南下する計画がある、そのために一駅でも先に進んでいくのもよいと思ったし、小田原市内は見どころがたくさんある。さらに、2日前に鉢形城に行ったときに、北条氏のお城である小田原城に行かねばならぬという感触を持った。
結局、午後から雨予報が出ているこの日に小田原見学+とりあえず早川駅までの赤線延ばしを行うこととなった。
とりあえず小田原城だ、観光客は小田原城の復興天守に行って「小田原城に行った」と思っている人が結構いるが、本来詰の城たる本丸は、城山の上にあったのである。確かに城主は現在の天守閣の近くに居を構えていたということになっているが、城山の上の本丸まで通勤していたのである。北条氏がここに入る前にこの城を築いた大森氏によって築かれたときに、当時のトレンドは山城であった、山の上に城が築かれたのである。その後ここを北条氏が支配するようになってから市街に城郭を築き要塞化した。
話は変わるが、徳川家康が大阪城攻略のために大坂冬の陣後に外堀や空堀を埋めさせるという講和条件で、大阪夏の陣への布石を打っているが、大阪城の外堀や空堀よりも小田原城の方が規模が大きかったそうである。
結局小田原城攻めの時には秀吉は石垣山城を築き、各方向から囲み、時間勝負に出たのだ。厭戦的な気分にさせるために石垣山城では毎日のような飲めや歌えの大宴会、結局3か月で無血開城した。
江戸時代、ここを治めた大久保家は、城山にあった部分は放置され、現在の天守閣あたりで小田原藩の政務をとった。多分そのほうが市街が近く都合がよかったのであろう。
小田原城のことを理解するためには、現在の城址公園だけではなく、城山公園に出向く必要があると勝手に思っているのである。ここを見ると本当に「日本の中での大規模な城址」を感じることができる。
その後、徐々に標高を落としてゆく、北原白秋氏の散歩道を下り、早川駅に向かう。到着した時にまだ雨は降っていなかった、石垣山一夜城(レコにしたことはないが行ったことはある)に向かうか、港の方に向かうか悩むが、午後からの天気が雨であるということを考え、後者を選択した。
小田原漁港をじっくりと見る、そして魚市場食堂に行く、実は初めて行く食堂で存在すら知らなかった。せっかく来たからにはフラッグシップメニューを食べようと思い、小田原丼を選択する、刺身が本当に新鮮で贅沢な丼だった。初めて行くときにお勧めと思う、次行くときはこれは頼まないかな、もっと安くても楽しめるメニューもあると思った。
その後、いろいろ見るものを見ながら、小田原城址エリアに近づいてい行く。
報徳二宮神社、二宮尊徳を祀っている。実は、「金次郎」は幼名だ、そして「そんとく」と呼ばれることが多いが、当時はこの感じで「たかのり」と呼ばれていたようだ。現在の小田原市に育っている、農業を学び、求めに請いたくさんの場所で農業改革に従事し成功した。
夏の前に取れた茄子を食べ、秋の味がしたことから冷夏を予測し農民に「ヒエ」を植えるように指導したところ、天保の大飢饉と言われる冷夏が訪れたが尊徳が指導した村では餓死者が出ずに、周りの村にヒエを分けることができたという逸話。
村人たちの開墾作業を見回っていた時、一人の男が他の村人の何倍も激しい勢いで仕事をしている様子を見て、「そのような勢いで一日中働き続けられるはずがない。お前は他人が見ている時だけ一生懸命に働く振りをして、陰では怠けているに違いない」と怒鳴り、村人たちの前で男の不正を厳しく叱ったという逸話。
その一方で、年老いて無力ながらも陰日向なく真面目に働き、他の村人たちがやろうとしない木の切り株を掘り起こす面倒な作業を毎日地道に続けてきた出稼ぎの老人に対しては、開墾に邪魔な木の切り株を彼が全部取り除いてくれたおかげで他の村人たちの作業が容易になり開墾がはかどったという理由から、通常の賃金のほかに慰労金として15両もの大金を与えたという逸話などが残っている。
ここで、今年初めてのおみくじを引く、なんと大吉。珍しい、書いていることもなかなかだ。そして、坂を上るとあった・・・小田原城天守閣。江戸時代から使われている天守閣で、平成の今は、何度か目の改修後である。今回も改修後であるので本当にきれいであった。
そして、丁度成人式の日、たくさんの新成人が集っていた。晴れ着だなあ・・・小田原では「ハレノヒ騒動」がなくてよかったなあと思う。
そして、あとは駅に向かう。小田原駅構内で小田原漁港で見た提灯灯台の模型を見てゴールした。
あとは、グリーン車電車酒場で帰宅した、3連休、毎日電車酒場であった・・・。
コメント
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おこんばんは〜🎵
年末年始遠征、ド疲れさまでした〜 o(^▽^)o
さて、「通りゃんせ」の発祥地は、我が町川越の三好野神社のはずなのに、小田原も元祖を主張しているとは…
川越の言い伝えでは、江戸幕府直轄の川越城内にある三好野神社にお参りに行く際、比較的容易に入城出来るが、出女の取締が厳しかったとのこと。
小田原には負けないんだから (;^_^A
お疲れさまでした〜 (´▽`)ノ
kazu5000さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
通りゃんせに関しては、いろいろ調べてみましたが、どちらにもいわれがあるようですね。まあ、江戸時代のわらべ歌ですからどこかで歌われ広まったものなのでしょう。西洋風の楽譜にしたのが野口雨情ということですね、確かなのは・・・。私は小田原市民ではないのでどちらの肩を持つつもりもないのですが・・・。
川越はまだ赤線未到達の地、到達する機会があったら「川越の通りゃんせ」の碑を見たいですね。まあ、神奈川県民が埼玉まで出向いて街歩き・・・なんてなかなかないと思いますが・・・。
aideieiでした。
aiさんこんにちは A食堂で大盛り上がりの翌日は、こちらでしたか
いちコメのkazuさんから既に書き込みありますが、そうなんです
我らが川越こそ、通りゃんせ発祥の地、だと思うんだけど
あ、城では、負けてるか。なんたって川越城、平屋ですから
城(跡)のご近所には、その地域を代表するような高校がありますね
川越もそう。三芳野神社のお隣は、ご存知「オトコのシンクロ」の県立K高です
K高生はテストが近づくと、駅〜学校まで教科書等を読みながら歩くヤツが多かったです(コラッ
andy846さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
川越城、行ったことがありますが、改装中でした。現在は改装が終わっているので再訪したいところです。
太田道灌によって築城された川越城ですが、江戸時代を前に大きく姿を変えます、天守閣はないが三層の櫓がその役割をし、川越藩の政庁としての役割を果たしました。川越藩からは幕府の老中が7人も出たという名門中の名門です。そして、関東七名城、日本百名城にも選ばれている名城です。川越城、十分誇ってよいお城だと思っています。
家の近くの小学校にも二宮尊徳の石像があるんですけれども、最近読んでいる本の上に別の本を置くという悪戯があって困っています。ホラーの本、アイドルの写真集、漫画・・・ギャグのつもりなのでしょうかね?
aideieiでした。
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