《筑摩山地》城攻め山行・弘法山と中山
- GPS
- 08:55
- 距離
- 5.9km
- 登り
- 266m
- 下り
- 280m
コースタイム
- 山行
- 1:47
- 休憩
- 0:30
- 合計
- 2:17
天候 | 高曇り |
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過去天気図(気象庁) | 2019年01月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自転車
|
写真
装備
個人装備 |
普段着
|
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感想
お昼に自転車で家をぷらっと出て、湯川沿いに藤井沢まで登り、小川神社里宮から山沿いに辿り、須須木水川神社経由で薄川方面へ下る。金華橋を渡りラーメンでも、と思い寸八(ズンパチ)に寄ったら7,8人並んでたのでやめて筑摩神社からいつもの埋橋のわかまつへ。美味しいラーメンを汁まであけて、自転車こいでまだ未踏の弘法山へ。北側のお宮のところから登り始める。なるべくここに戻らなくて良いように自転車も引っ張り上げる。弘法山の山頂はよく整備され展望が良い。中腹はすべて桜の森になっていた。30年前は雑木林だったと思う。30年経つと木も育つんだな。うちの庭のクリだって30年経って帰ってきたら大木になっていた。
古墳の調査は1974年だったんだ。それまではそれほど調べていなかったということか。3世紀の前方後方墳。高曇りながら白馬三山まで見えた。お城までは見えないけれど、素晴らしい眺め。この周辺は平成年間に郊外の大型店通りに変貌した。以前は延々玉ねぎ畑だった。
すぐ南に中山への尾根道が見えた。
弘法山と中山とのコルの駐車場に自転車を置いて、尾根上の雑木林を登っていく。野球部員が坂道で何度も登りダッシュしていた。聞いたら松本工業の野球部員だった。あいさつ。右側が断崖になったり、左側が断崖になったり。歩いてみなければわからないが尾根は意外と細かった。この断崖は山城にちょうどいいよな、と思い、帰って資料を見たらやはり、・774m峰の崖上の平地は小笠原時代に「中山二山砦(なかやまふたやまとりで)と呼ばれる要塞があった模様。1550年の武田軍侵攻で滅びたようだ。ここから見下ろす東山麓の和泉のあたりに武田晴信(信玄)本人が陣を張っていた記録あり。信玄ハルノブ、この辺りに来てたのかあ。
松枯れもあるけど、広葉樹が多い。腰掛けもちらほら。ランナーに会った。
中山の最高点は何か囲って整備してある。西側の急斜面の雑木が皆伐してあって、景色が最高にいい。これは最近だろうか。山頂くらいこうして木を伐っておいてくれるとありがたい。このぐらい切ったって減るもんじゃない。戦国時代は禿山だったんだから。松本の底から見るより、常念の左肩の槍ヶ岳がぐっと伸びて見える。大滝山の後ろの穂高連峰も頭を出している。
資料によれば、この山頂平地も狼煙台があった模様。北東急斜面に竪堀跡がひとつあるらしい。山頂は公園造成が古くから進みすぎて、砦跡の痕跡はもうないそうだ。この立地ならば、無いはずはなさそう。
自転車デポまで中山側から下るか、寿側から下るか迷う。山頂のすぐ北に、寿の山麓神社への道標があった。今回は南面の墓地の自動車道路を辿って中山側から下ることにする。松本平で最大の墓地だ。この山全体も古代の古墳であり、山麓の考古館にもいずれ行かなくては。
自動車道路から外れ、途中で近道して杉林の急斜面を直滑降した。ヤブも野茨もたいしてなかったが、最後に道路脇の法面が3m以上あり、枯れたツルにぶら下がって飛び降りた。降りてから周りを見ると、ここが一番高いところで苦笑い。
中山東側山麓道路は既に陰り、住宅もほとんどなく、産業廃棄物保管所の続く雰囲気で、やはり西サイドの寿団地に降りればよかった。やや東側に古くからの和泉集落あり。ここは深志から諏訪に抜ける重要路で、中山砦を防衛し、信玄に蹴散らされた武装勢力の末裔であろうか、なんて思う。コルに登り返して自転車を回収し、黄昏の街を帰る。
普段着で数時間の山登り。しかし、未踏で街からいつでも見える名峰だ、初めての山頂を車で登りたくは無かった。松本といえども薄川の南側は、これまであまり縁が無かった。
古城の資料:信濃の山城と館4・松本・塩尻・筑摩編 宮坂武男著 2013
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