朝のウォーキング 二条城〜堀川〜二条城・・・モーニング♫
- GPS
- 02:34
- 距離
- 8.4km
- 登り
- 16m
- 下り
- 16m
コースタイム
- 山行
- 2:34
- 休憩
- 0:01
- 合計
- 2:35
過去天気図(気象庁) | 2019年04月の天気図 |
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アクセス |
写真
感想
自主トレーニング第二弾(^_^;)
明日は遠出
無事帰ってこれるようにトレーニング
朝の散歩です。
桜は・・・。
今年は寒くて例年に比べて遅いようです。
ここでちょこっとお勉強(^_^;)
■二条城に関する京都検定1級過去問の一部(すべて記述式です)
○二条城について、150字以上200字以内の文章で書きなさい。
○二条城の二の丸御殿(国宝)は、車寄に続いて6棟が雁行(がんこう)して立ち並ぶ武家風書院造で、大広間と黒書院を繋ぐ板敷きの大廊下は( )と呼ばれている。
○二条城は、徳川家康が征夷大将軍の宣下を受ける際の居館として、京都所司代の( )を総奉行として築かれた。
○二条城築城の総奉行を務めた、当時の京都所司代は誰か。
○二条城の大規模普請で現本丸西南部に天守閣が新造された際、当初建てられていた天守閣はどこに移築されたか。
○二条城は将軍上洛の際の居館として築かれたが、徳川家光の次に久方ぶりに上洛した将軍は誰か。
○現在の二条城には、徳川家光の頃の拡張工事によって造られた二の丸御殿(国宝)と、明治26〜27年(1893〜94)に京都御所の北東部にあった( )から移築した本丸御殿(重文)が主要建築物として残っている。
○二条城の二の丸御殿の建て物の中で最も奥に位置し、将軍の居間や寝室として用いられた棟(部屋)を何というか。
■映画に関する京都検定1級過去問の一部(すべて記述式です)
映画の都と称された京都と映画の関係は、映画が日本に紹介された明治に端を発している。それは、京都府費留学生出身の稲畑勝太郎が、学友であったリュミエールからシネマトグラフ(映画)の興行権を購入し、現在の元( 41 )小学校(当時は京都電燈株式会社)の敷地で、日本初となる映写を明治30年(1897)に成功させたことに始まる。明治41年(1908)には、千本通の芝居小屋の座主であった( 42 )が、( 43 )の境内で『本能寺合戦』を撮って映画監督の道を切り開いた。そのことから、同寺の境内には「京都・映画誕生の碑」が立っている。また、翌年には日本初の映画スターといわれ、目玉の松ちゃんと親しまれた( 44 )を生み出した。彼らの活躍で映画人気への原動力となり、京都初の撮影所も( 45 )の西南隅櫓の向かい側に開設された。
大正期には活動と人気は日活を拠点にますます広がり、撮影所も広い敷地を求めて北野地域へと移動した。この地にあった( 46 )道具店(のちの( 46 )商会)も小道具の協力を始め、その歴史については今も( 46 )古文化会館で確認できる。さらに、日活から( 42 )が独立して( 47 )の境内に撮影所を開き、阪東妻三郎や月形龍之介といった新たなスターを輩出した。今もその境内には( 42 )の像が立ち、墓地には日活の社名を刻んだ( 44 )の墓もある。
昭和期には、阪東妻三郎が開いた撮影所を皮切りに、撮影所が北野地域から太秦地域へと移り、1930年代には太秦地域だけで7社もの撮影所が軒を並べ、映画人の家々も立ち並んだ。阪東妻三郎の撮影所は現在の「( 48 )京都撮影所」であり、北野地域から太秦地域を結ぶ嵐電( 49 )線の鳴滝駅界隈も、住人であった映画監督の山中貞雄や稲垣浩らが「鳴滝組」と称されるなど、鳴滝は映画人の街として知られた。一方、戦時期には太秦にあった多くの撮影所が( 50 )に統合されて、スタッフや技術が継承され、1950年代にはベネチア国際映画祭グランプリを受賞した『羅生門』をはじめ、数々の名作が発表された。現在では同社はすで解散しているが、その名称は「( 50 )通り商店街」という形で残されている。
現在、太秦には松竹と( 48 )の二つの撮影所がある。( 48 )の撮影所の一部は、昭和50年(1975)からアミューズメント施設の「( 48 )太秦映画村」として公開されている。
ブログは
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/841ce4fcf234d3d671ace02c8c49b31b
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