前回の紹介した光明寺にもう一度立ち寄った。<光明寺彫刻三十三観音大石1864年>。藩御用商人・内海屋(内田家)。天保11年(1840)名古屋長者番付で東大関。名古屋第一の富商。知多半島内海出身米穀商。
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前回の紹介した光明寺にもう一度立ち寄った。<光明寺彫刻三十三観音大石1864年>。藩御用商人・内海屋(内田家)。天保11年(1840)名古屋長者番付で東大関。名古屋第一の富商。知多半島内海出身米穀商。
<光明寺庭・千石舟地蔵>堀川での船舶事故を供養したのか。よく観察すると舟の作り方など細かい点までよくできている。光明寺から再び伝馬橋へ向かう。
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<光明寺庭・千石舟地蔵>堀川での船舶事故を供養したのか。よく観察すると舟の作り方など細かい点までよくできている。光明寺から再び伝馬橋へ向かう。
<伝馬橋>今日はここから堀川沿いに木挽町通を南下して納屋橋へ。「大鋸」(おが)を使って挽き切る職人が多く住んだ。
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<伝馬橋>今日はここから堀川沿いに木挽町通を南下して納屋橋へ。「大鋸」(おが)を使って挽き切る職人が多く住んだ。
納屋橋。橋上を広小路が通る。江戸期は橋から真っ直ぐ西には道はなく、行き止まり。広小路は碁盤の目の町の南端。美濃街道に続く伝馬橋の方が納屋橋より賑やかだった。納屋橋からは、一区画南に下りる道が「柳街道」として西に向かった。
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納屋橋。橋上を広小路が通る。江戸期は橋から真っ直ぐ西には道はなく、行き止まり。広小路は碁盤の目の町の南端。美濃街道に続く伝馬橋の方が納屋橋より賑やかだった。納屋橋からは、一区画南に下りる道が「柳街道」として西に向かった。
江戸期の納屋橋は木製で何度も建て替えられた。「柳街道」起点を象徴するように橋の袂には柳がある。柳は湿潤な土壌を好み、根を強靱に張るため、水害防止用に使われたらしい。解熱鎮痛作用もあり爪楊枝にも使用。
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江戸期の納屋橋は木製で何度も建て替えられた。「柳街道」起点を象徴するように橋の袂には柳がある。柳は湿潤な土壌を好み、根を強靱に張るため、水害防止用に使われたらしい。解熱鎮痛作用もあり爪楊枝にも使用。
<堀川説明板>名古屋から桑名に向かうには、南に下りて宮から七里の渡し。他に「東海道佐屋廻り」と呼ばれた陸路六里の「佐屋街道(宮〜岩塚〜神守〜(津島神社」〜佐屋」と佐屋湊からの三里の渡しがあった。こちらも宮宿近くの金山まで南下して佐屋街道に入る。
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<堀川説明板>名古屋から桑名に向かうには、南に下りて宮から七里の渡し。他に「東海道佐屋廻り」と呼ばれた陸路六里の「佐屋街道(宮〜岩塚〜神守〜(津島神社」〜佐屋」と佐屋湊からの三里の渡しがあった。こちらも宮宿近くの金山まで南下して佐屋街道に入る。
<橋の北東を見る。柳が見える。>佐屋渡船は川船(佐屋川〜木曽川)なので、海経由の七里の渡しより天候や潮に左右されず、揺れも少なく女性・子供に好かれた。今回の「柳街道」は名古屋から南下しないで、左斜(南西)に下り、烏森で佐屋街道と接続する近道の脇道だった。逆に、西から佐屋街道を来た旅人にとっても名古屋へのアクセスが近かった。
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<橋の北東を見る。柳が見える。>佐屋渡船は川船(佐屋川〜木曽川)なので、海経由の七里の渡しより天候や潮に左右されず、揺れも少なく女性・子供に好かれた。今回の「柳街道」は名古屋から南下しないで、左斜(南西)に下り、烏森で佐屋街道と接続する近道の脇道だった。逆に、西から佐屋街道を来た旅人にとっても名古屋へのアクセスが近かった。
納屋橋西の一本南の通り。ここが「柳街道」の出発点になるが、今ではビルばかりで街道の情緒は全く感じられない。
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納屋橋西の一本南の通り。ここが「柳街道」の出発点になるが、今ではビルばかりで街道の情緒は全く感じられない。
ビルの谷間の街道。「柳街道」の由来は「街道両側に柳が植えられていた」「出発点の納屋橋に柳が多かった」「通過する名古屋南西(中村区・中川区)に『一柳庄・一楊の御厨』と呼ばれる伊勢神宮の荘園があった」など。
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ビルの谷間の街道。「柳街道」の由来は「街道両側に柳が植えられていた」「出発点の納屋橋に柳が多かった」「通過する名古屋南西(中村区・中川区)に『一柳庄・一楊の御厨』と呼ばれる伊勢神宮の荘園があった」など。
名古屋高速都市環状線の西を名古屋駅方面に向かう「柳街道」を見る。ビルの間。
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名古屋高速都市環状線の西を名古屋駅方面に向かう「柳街道」を見る。ビルの間。
「白龍神社」名駅南1(旧・内屋敷町)。国広井郷とも呼ばれ、前回の稲生街道沿いの江川(今は暗渠)が流れ、川には「楊橋(柳橋)」が架けられた。熱病流行時に御神示が下り、柳の木の下に祠を建て崇拝。柳や銀杏がご神木となり「白龍さん」と親しまれた。この街道は「柳」と「白龍(蛇)」がキーワーズ。
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「白龍神社」名駅南1(旧・内屋敷町)。国広井郷とも呼ばれ、前回の稲生街道沿いの江川(今は暗渠)が流れ、川には「楊橋(柳橋)」が架けられた。熱病流行時に御神示が下り、柳の木の下に祠を建て崇拝。柳や銀杏がご神木となり「白龍さん」と親しまれた。この街道は「柳」と「白龍(蛇)」がキーワーズ。
柳橋交差点を北に渡り津島神社。中村区名駅5ビル谷間。旧名・東柳町。入口石柱三面に「津島神社」「秋葉神社」「熱田神社」とある。屋根神の典型的な形の神社。疫病除けと火防祈願。
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柳橋交差点を北に渡り津島神社。中村区名駅5ビル谷間。旧名・東柳町。入口石柱三面に「津島神社」「秋葉神社」「熱田神社」とある。屋根神の典型的な形の神社。疫病除けと火防祈願。
柳街道「禰宜公園」辺り。公園は喫煙場所になっていた。泥江縣神社(広井八幡社)の禰宜がこの辺りに住んでいた。江戸期は街道を通して、農産物が集積し、明治期には市場(青物・生魚)成立。
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柳街道「禰宜公園」辺り。公園は喫煙場所になっていた。泥江縣神社(広井八幡社)の禰宜がこの辺りに住んでいた。江戸期は街道を通して、農産物が集積し、明治期には市場(青物・生魚)成立。
名駅南1。写真左のコンビニの場所に「夏目漱石・三四郎」碑があったが今はない。漱石の明治41年新聞掲載「三四郎」出だし部分は、熊本から上京する途中の主人公が名駅前の旅館に宿泊する場面。明治後期の名古屋停車場は、現在の駅舎より南の笹島付近。この辺りが駅前。広小路通り沿いに多くの宿屋。漱石は想像でこの部分を書いたらしいが・・。
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名駅南1。写真左のコンビニの場所に「夏目漱石・三四郎」碑があったが今はない。漱石の明治41年新聞掲載「三四郎」出だし部分は、熊本から上京する途中の主人公が名駅前の旅館に宿泊する場面。明治後期の名古屋停車場は、現在の駅舎より南の笹島付近。この辺りが駅前。広小路通り沿いに多くの宿屋。漱石は想像でこの部分を書いたらしいが・・。
「柳里神社」名駅南1。1697年創建。笹島のビル谷間。「りゅうり」「やなぎさと」?江戸期は「天王社」明治期は「須佐之男社」?明治期の名古屋駅建設でこちらに移転か?柳里神社には山車が2台あったが焼失。
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「柳里神社」名駅南1。1697年創建。笹島のビル谷間。「りゅうり」「やなぎさと」?江戸期は「天王社」明治期は「須佐之男社」?明治期の名古屋駅建設でこちらに移転か?柳里神社には山車が2台あったが焼失。
境内社の白鷹龍神。先程の白龍神社などとの関係?「柳」と「白龍(蛇)」の関係。白龍神社では、蛇好物の生卵がお供えにされ、蛇形の「おもかる石」も祀られる。願い事祈願して石を持ち上げ、軽ければ成就?歌舞伎十八番「蛇柳」演目。高野山で弘法大師が法力で「蛇を柳の木」に変えた話。江戸期は柳は龍(蛇)と共に神秘的な霊力?
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境内社の白鷹龍神。先程の白龍神社などとの関係?「柳」と「白龍(蛇)」の関係。白龍神社では、蛇好物の生卵がお供えにされ、蛇形の「おもかる石」も祀られる。願い事祈願して石を持ち上げ、軽ければ成就?歌舞伎十八番「蛇柳」演目。高野山で弘法大師が法力で「蛇を柳の木」に変えた話。江戸期は柳は龍(蛇)と共に神秘的な霊力?
笹島交差点一つ南の角。「明治橋」祈念碑。東海道本線開設時に禰宜町踏切設置。客車通過だけでなく、貨物取扱・貨車組成等々で閉止時間が長時間のため、明治34年木造構造の跨線橋設置した。
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笹島交差点一つ南の角。「明治橋」祈念碑。東海道本線開設時に禰宜町踏切設置。客車通過だけでなく、貨物取扱・貨車組成等々で閉止時間が長時間のため、明治34年木造構造の跨線橋設置した。
明治橋は、木造で土盛で未舗装。雨が降るとぬかるみ化して上り下りに苦労。通行は人車馬限定。連続高架化工事で昭和12年に廃止。今は快適に高架下を潜れる。
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明治橋は、木造で土盛で未舗装。雨が降るとぬかるみ化して上り下りに苦労。通行は人車馬限定。連続高架化工事で昭和12年に廃止。今は快適に高架下を潜れる。
駅の高架橋下の通路にある地図。中村警察署や名鉄レジャックの文字の一つ下の道が「柳街道」
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駅の高架橋下の通路にある地図。中村警察署や名鉄レジャックの文字の一つ下の道が「柳街道」
<太閤1>高架を出た場所にある大木。ここは五叉路になっていて、この木が街道の目印になっていたのか?「柳街道」は真っ直ぐ進むが、「牧野神明社」へ立ち寄るため写真左の3本の中の真ん中の道を東へ折れた。
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<太閤1>高架を出た場所にある大木。ここは五叉路になっていて、この木が街道の目印になっていたのか?「柳街道」は真っ直ぐ進むが、「牧野神明社」へ立ち寄るため写真左の3本の中の真ん中の道を東へ折れた。
<太閤1>牧野神明社。江戸期の旧牧野村は田畑地域。伊勢神宮の「一楊御厨(いちやなぎのみくりや)」荘園で平安末期?同じ村内の「椿社」を外宮、「牧野社」を内宮とし、付近の川はお伊勢川(笈瀬川)とした。
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<太閤1>牧野神明社。江戸期の旧牧野村は田畑地域。伊勢神宮の「一楊御厨(いちやなぎのみくりや)」荘園で平安末期?同じ村内の「椿社」を外宮、「牧野社」を内宮とし、付近の川はお伊勢川(笈瀬川)とした。
牧野神明社付近より東を見る。JRや近鉄の線路向こうには最近発展している「笹島」ビル群。線路のこちらは下町情緒溢れる「米野」地区。しかし、旧地区は急速に取り壊されて大規模な空き地となり区画整理。「こめの」は「こもの」の転訛で「こも」は「茂った草地」
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牧野神明社付近より東を見る。JRや近鉄の線路向こうには最近発展している「笹島」ビル群。線路のこちらは下町情緒溢れる「米野」地区。しかし、旧地区は急速に取り壊されて大規模な空き地となり区画整理。「こめの」は「こもの」の転訛で「こも」は「茂った草地」
<太閤3>「かっぱ像」昭和初期まで笈瀬通は貝や魚が捕れる笈瀬川だった。「子ども好きな河童が棲み、ある日、川で溺れた子を男の子に変身し命を救った。人助けのかっぱと呼ばれ、親しまれた。」北へ3角で笈瀬通が太閤通と交差する。
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<太閤3>「かっぱ像」昭和初期まで笈瀬通は貝や魚が捕れる笈瀬川だった。「子ども好きな河童が棲み、ある日、川で溺れた子を男の子に変身し命を救った。人助けのかっぱと呼ばれ、親しまれた。」北へ3角で笈瀬通が太閤通と交差する。
<須佐之男社>河童像のすぐ南。神社前の南北の道が笈瀬通。笈瀬川に土管を通して暗渠化した道。通り沿いに南に下ると願正寺・米野小学校・米野駅がある。
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<須佐之男社>河童像のすぐ南。神社前の南北の道が笈瀬通。笈瀬川に土管を通して暗渠化した道。通り沿いに南に下ると願正寺・米野小学校・米野駅がある。
<厳島神社・太閤5>須佐之男社より南西に1ブロック。17世紀は弁財天、18世紀に厳島神社となる。市杵島姫命を祀る。厳島らしく、堀の水に囲まれている。独特の形で興味深い。牧野三社の1つ。
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<厳島神社・太閤5>須佐之男社より南西に1ブロック。17世紀は弁財天、18世紀に厳島神社となる。市杵島姫命を祀る。厳島らしく、堀の水に囲まれている。独特の形で興味深い。牧野三社の1つ。
<厳島神社前より北を見る>北を見ると名古屋駅周辺の高層ビル群が間近。
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<厳島神社前より北を見る>北を見ると名古屋駅周辺の高層ビル群が間近。
左右に分かれる道。右に行くと太閤通りで上米野町。左が「柳街道」古い民家や商店が多いが、実態は寂しくなるような雰囲気。あと数年後はどうなるのか?
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左右に分かれる道。右に行くと太閤通りで上米野町。左が「柳街道」古い民家や商店が多いが、実態は寂しくなるような雰囲気。あと数年後はどうなるのか?
<太閤通4>天王社と向こうの角は法泉寺。
柳街道が右から来て曲り、左奥に続く街道の曲り角。
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<太閤通4>天王社と向こうの角は法泉寺。
柳街道が右から来て曲り、左奥に続く街道の曲り角。
法泉寺角にある割合大きな大らかな地蔵様。
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法泉寺角にある割合大きな大らかな地蔵様。
<法泉横の智興寺>「福田兼助」天保年間18世紀中期に農家に生まれたが、学問を好む、江戸末期から明治初期の村の子弟教育に尽くし学校を開校。
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<法泉横の智興寺>「福田兼助」天保年間18世紀中期に農家に生まれたが、学問を好む、江戸末期から明治初期の村の子弟教育に尽くし学校を開校。
<上米野>天王社から二つ目の角に「熊野社」道標がブロックにある。曲がると狭い路地が続く。江戸期の雰囲気のある曲りくねった道だが、残念なことに両脇は新しい民家ばかり。
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<上米野>天王社から二つ目の角に「熊野社」道標がブロックにある。曲がると狭い路地が続く。江戸期の雰囲気のある曲りくねった道だが、残念なことに両脇は新しい民家ばかり。
<熊野社・中村区権現通3・旧上米野>曲がりくねる路地は権現通り横の熊野社前に出た。1712年創立。名古屋には熊野社は少ない。権現通の「権現」は熊野社のこと。若宮八幡社や子安観音も境内にある。
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<熊野社・中村区権現通3・旧上米野>曲がりくねる路地は権現通り横の熊野社前に出た。1712年創立。名古屋には熊野社は少ない。権現通の「権現」は熊野社のこと。若宮八幡社や子安観音も境内にある。
熊野社境内にある「白明龍神」
上部が切られた神木の穴(うろ)の中に祠。その右隣に女神千木、鰹木五本の社。楠木や欅の大木。鎮守の森のような怪しい雰囲気。
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熊野社境内にある「白明龍神」
上部が切られた神木の穴(うろ)の中に祠。その右隣に女神千木、鰹木五本の社。楠木や欅の大木。鎮守の森のような怪しい雰囲気。
熊野社。西隣は巨大な米野公園(茶ノ木島)。古い住宅密集地だった所を昭和22年に防災緑地緊急整備を計画、平成10年にようやく実現。大規模防災公園。この辺りの黄金(こがね)通という名称は「地が一面稲穂の黄金色で埋め尽くされていた」ことに由来。
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熊野社。西隣は巨大な米野公園(茶ノ木島)。古い住宅密集地だった所を昭和22年に防災緑地緊急整備を計画、平成10年にようやく実現。大規模防災公園。この辺りの黄金(こがね)通という名称は「地が一面稲穂の黄金色で埋め尽くされていた」ことに由来。
米野公園前、市バスの停留所。権現通り。公園沿いに歩道を歩き、黄金通を横切り、黄金中学校の西より左折し南へ。中学校校舎の1つ目と2つ目の間を右折れ。いよいよ左斜めの細い道に入る。高速5号線・烏森入口まで続くのこの道が「柳街道」で一番興味深い道。
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米野公園前、市バスの停留所。権現通り。公園沿いに歩道を歩き、黄金通を横切り、黄金中学校の西より左折し南へ。中学校校舎の1つ目と2つ目の間を右折れ。いよいよ左斜めの細い道に入る。高速5号線・烏森入口まで続くのこの道が「柳街道」で一番興味深い道。
<白子町4>普通の道が東西南北の碁盤のようにある中で、この街道だけが、左斜め南西に向かって続いていく。分岐を左斜め。
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<白子町4>普通の道が東西南北の碁盤のようにある中で、この街道だけが、左斜め南西に向かって続いていく。分岐を左斜め。
<白子町4>通りに出て、さらに左斜め南西に向かう街道。エディオン左へ。
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<白子町4>通りに出て、さらに左斜め南西に向かう街道。エディオン左へ。
<190号線出合>南北に通る190号線に出て、さらに左斜め南西に商店の間を向かう街道。
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<190号線出合>南北に通る190号線に出て、さらに左斜め南西に商店の間を向かう街道。
<日ノ宮3>守口漬・奈良漬・喜多福総本家横を通過。北浦集落へ続く道。
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<日ノ宮3>守口漬・奈良漬・喜多福総本家横を通過。北浦集落へ続く道。
<中井筋・庄内用水跡地歩道>ここで歩道に色づけがあり、庄内用水跡地を示す。(用水暗渠)もう正面には高速がある。稲生からの中井筋(惣兵衛川)庄内用水は中村町〜日ノ宮町〜港区正徳町まで続く。
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<中井筋・庄内用水跡地歩道>ここで歩道に色づけがあり、庄内用水跡地を示す。(用水暗渠)もう正面には高速がある。稲生からの中井筋(惣兵衛川)庄内用水は中村町〜日ノ宮町〜港区正徳町まで続く。
<高速・烏森入口付近>かつてここには庄内用水を記念する「水車」があったが、今は基礎石しかない。
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<高速・烏森入口付近>かつてここには庄内用水を記念する「水車」があったが、今は基礎石しかない。
<高須賀>遠回りして高速下の畑江通5交差点を渡り願成寺・薬師堂。道沿には秋葉神社や津島神社の小社もある。今は相撲の友綱部屋の宿舎になっている。
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<高須賀>遠回りして高速下の畑江通5交差点を渡り願成寺・薬師堂。道沿には秋葉神社や津島神社の小社もある。今は相撲の友綱部屋の宿舎になっている。
薬師堂前にはプレハブ小屋の相撲練習場。友綱部屋は江戸時代中期より続く歴史ある部屋。旭天鵬が師匠。魁聖や旭秀鵬がいる。八劔神社も境内にある。
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薬師堂前にはプレハブ小屋の相撲練習場。友綱部屋は江戸時代中期より続く歴史ある部屋。旭天鵬が師匠。魁聖や旭秀鵬がいる。八劔神社も境内にある。
願成寺。奈良時代の行基草創?16世紀に盛海が馬島重常援助で再興。薬師堂は織田信長兵火で焼失。17世紀中期に再興。薬師如来本尊は室町時代頃の作。
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願成寺。奈良時代の行基草創?16世紀に盛海が馬島重常援助で再興。薬師堂は織田信長兵火で焼失。17世紀中期に再興。薬師如来本尊は室町時代頃の作。
<高須賀>願成寺。本堂。薬師堂からは南に離れた広く静かな場所にある。本堂北には寺が経営する「柳保育園」。
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<高須賀>願成寺。本堂。薬師堂からは南に離れた広く静かな場所にある。本堂北には寺が経営する「柳保育園」。
<高須賀・旧常磐村>この地域には古い民家がかなり残っている。
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<高須賀・旧常磐村>この地域には古い民家がかなり残っている。
畑江通の沿って西に歩き、高速の烏森入口前を南に入ると「烏森公園」と「松蔭高校」がある。
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畑江通の沿って西に歩き、高速の烏森入口前を南に入ると「烏森公園」と「松蔭高校」がある。
烏森公園から西に3つ目角を南折れ。所々に古い家屋があり、やがて道がやや右に向いて烏森郵便局・佐屋街道と出合う。ここが柳街道終点としてもよい。
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烏森公園から西に3つ目角を南折れ。所々に古い家屋があり、やがて道がやや右に向いて烏森郵便局・佐屋街道と出合う。ここが柳街道終点としてもよい。
佐屋街道パノラマ。柳街道終点。北から見た佐屋街道。
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佐屋街道パノラマ。柳街道終点。北から見た佐屋街道。
佐屋街道パノラマ。南から見た佐屋街道。中央が「柳街道」合流点。郵便局西に昔の茶屋があったようだが、今は新築の家。また、合流点にあった道標は秋葉神社灯明柱として烏森八幡社にある。
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佐屋街道パノラマ。南から見た佐屋街道。中央が「柳街道」合流点。郵便局西に昔の茶屋があったようだが、今は新築の家。また、合流点にあった道標は秋葉神社灯明柱として烏森八幡社にある。
佐屋街道を見る。古い家屋はほとんどなく、烏森駅付近の松もない。名古屋の俳人・町医者・山本荷兮(かけい)。芭蕉七部集の三部まで編纂。やがて、新風を追求する蕉風に批判的となり、保守的な独自活動をして疎遠となる。荷兮は伊勢への旅の芭蕉を烏森松並木まで見送った。「麦ぬかに餅屋の店の別れかな」
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佐屋街道を見る。古い家屋はほとんどなく、烏森駅付近の松もない。名古屋の俳人・町医者・山本荷兮(かけい)。芭蕉七部集の三部まで編纂。やがて、新風を追求する蕉風に批判的となり、保守的な独自活動をして疎遠となる。荷兮は伊勢への旅の芭蕉を烏森松並木まで見送った。「麦ぬかに餅屋の店の別れかな」
<烏森7>烏森(かすもり)神明社。佐屋街道を南に入る。「からすもり」でなく「かすもり」。由来は「城跡にたくさんの烏がいた」烏森城は杉原長房居城で禅養寺や天神社の南東。杉原長房の父は秀吉の正室ねね叔父。杉原家次は近江国坂本城主、子の長房は但馬国豊岡城主になった。
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<烏森7>烏森(かすもり)神明社。佐屋街道を南に入る。「からすもり」でなく「かすもり」。由来は「城跡にたくさんの烏がいた」烏森城は杉原長房居城で禅養寺や天神社の南東。杉原長房の父は秀吉の正室ねね叔父。杉原家次は近江国坂本城主、子の長房は但馬国豊岡城主になった。
烏森神明社のすぐ西。禅養寺。江戸初期に新田開拓や用水掘削に功績があった鬼頭景義の菩提寺。すぐ前が天神社。
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烏森神明社のすぐ西。禅養寺。江戸初期に新田開拓や用水掘削に功績があった鬼頭景義の菩提寺。すぐ前が天神社。
烏森・天神社境内にある異常に大きな林立する石灯籠群。しばしたじろぐ。
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烏森・天神社境内にある異常に大きな林立する石灯籠群。しばしたじろぐ。
鎮守社の天神社。烏森村も一楊御厨(平安中期)内にあった。区画整理の近在の社の石灯籠を合祀したのか?「かすもり」は「槽森」「加須毛森」「加良須毛利」の表記も。
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鎮守社の天神社。烏森村も一楊御厨(平安中期)内にあった。区画整理の近在の社の石灯籠を合祀したのか?「かすもり」は「槽森」「加須毛森」「加良須毛利」の表記も。
「柳小学校」佐屋街道を烏森駅に向かって歩くと一本北に「柳小学校」。烏森・八幡社隣。「柳」と出合うことが多い街道だったが、これが最後かな。
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「柳小学校」佐屋街道を烏森駅に向かって歩くと一本北に「柳小学校」。烏森・八幡社隣。「柳」と出合うことが多い街道だったが、これが最後かな。
烏森八幡社。大きな公園の中にある。烏森には天神社、神明社、八幡社と近距離に3つも神社がある。電車が通るまではこの辺りの人々は一里の道を名古屋まで歩いていたそうだ。本日はここまで。
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烏森八幡社。大きな公園の中にある。烏森には天神社、神明社、八幡社と近距離に3つも神社がある。電車が通るまではこの辺りの人々は一里の道を名古屋まで歩いていたそうだ。本日はここまで。
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