記録ID: 205262
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ハイキング
丹沢
はなじょろ道〜ホギリの山神〜高松山〜ヒネゴ沢右岸尾根
2012年07月09日(月) [日帰り]


体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 06:15
- 距離
- 11.2km
- 登り
- 1,186m
- 下り
- 1,195m
コースタイム
7:30 ヒネゴ橋
8:15 ヒネゴ沢乗越
9:35 八丁(皆瀬川渡渉)
10:00 人遠(尾根取付)
11:05 ホギリの山神
11:45 P657
12:10 富士見台
12:30 高松山
12:40 〃 出発
13:35 太尾橋
13:40 ヒネゴ橋
8:15 ヒネゴ沢乗越
9:35 八丁(皆瀬川渡渉)
10:00 人遠(尾根取付)
11:05 ホギリの山神
11:45 P657
12:10 富士見台
12:30 高松山
12:40 〃 出発
13:35 太尾橋
13:40 ヒネゴ橋
天候 | 晴一時曇 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2012年07月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
参考文献 佐藤芝明「山の神の民俗と信仰 丹沢・桂川・足柄」 雄山閣「新編相模国風土記稿 第一巻」 山北町「あしがらの傳承文化 いまむかし語り」 小倉美恵子「オオカミの護符」 |
写真
道沿い少し入った所に馬頭観音(右)があった。左は分かりにくいが双体道祖神。
山北町の「山北の石造物」によると、馬頭観音の銘文は正面に「昭和二年四月十八日、馬頭観世音、石川茂一」とあり、道祖神に至っては備考として「右上部 欠損している」とだけあった。
山北町の「山北の石造物」によると、馬頭観音の銘文は正面に「昭和二年四月十八日、馬頭観世音、石川茂一」とあり、道祖神に至っては備考として「右上部 欠損している」とだけあった。
●ホギリの山神(オオカミの頭をのせた石像)
腰を引きながらの苦しい姿勢がもう限界だなと思う頃、二年ぶりの対面は実現した。
ホ(火)ギリ(切り)とは防火線のことを意味する(佐藤芝明著「山の神の民俗と信仰」による)
腰を引きながらの苦しい姿勢がもう限界だなと思う頃、二年ぶりの対面は実現した。
ホ(火)ギリ(切り)とは防火線のことを意味する(佐藤芝明著「山の神の民俗と信仰」による)
「オオカミの護符」の著作者、小倉美恵子氏は言う。焼畑の民にとって、イノシシやシカを捕食するオオカミはありがたい存在と。
仏壇は「人」のつながりを示し、神棚は「風土(自然)」とのつながりを現しているとする小倉氏。興味深い一冊だ。
仏壇は「人」のつながりを示し、神棚は「風土(自然)」とのつながりを現しているとする小倉氏。興味深い一冊だ。
山北町発行の「あしがらの傳承文化 いまむかし語り」の「狼の道は塩の道」の項で面白い話が載っていた。
『前川(小田原)の海へ甲州より塩を舐めに向かう狼の群れの走り行く音が夜中に聞こえた』という渋沢の言い伝えなのだが、注目すべきは、羽根尾(国府津)から辿る地域には千村ー高松山ー八丁ー玄倉と、ホギリの山神様が祀られるこの八丁が含まれているという事だ。
『前川(小田原)の海へ甲州より塩を舐めに向かう狼の群れの走り行く音が夜中に聞こえた』という渋沢の言い伝えなのだが、注目すべきは、羽根尾(国府津)から辿る地域には千村ー高松山ー八丁ー玄倉と、ホギリの山神様が祀られるこの八丁が含まれているという事だ。
山神様に別れを告げると、あのきつい防火帯を再び登り返した。オオタ沢へ下るという選択肢もあったが、今日はそんな元気はなかった。分岐へ戻って起伏のない稜線を進むとポッカリ開いた空地へ吸い込まれる。657m峰だ。
感想
車の免許取り立ての頃、初めての高速ドライブで
浜名湖に行きました。
ともだち三人と交替で運転しました。
みんな運転したくて仕方ありませんでした。
今考えると、嘘みたいです。
三ヶ日ICを降りたとき、運転手は僕でした。
車掌は誰だったか覚えていません。
飯島君だったかもしれません。
当時、湖畔へ向かう道はガラガラに空いてて、
感覚としては高速道路を走っている気分でした。
そんな時です。
旗を持ったオジさんが飛び出したのは・・・。
僕はブレーキを踏みました。
オジさんは何か言いながらこっちへ来いと手招きしています。
よく見るとおまわりさんでした。
そうです。
捕まったのです。
それ以来、僕は今でも静岡県は好きではないと思っています。
でも、そのわりには結構伊豆に行きます。
干物も好きです。
富士山も静岡側からが一番だと思っています。
いったい僕は静岡県が好きなんでしょうか、嫌いなんでしょうか。
死ぬまでに何とか結論を出せたらと思っています。
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コメント
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はなじょろは気になってた古道なんですけど、
なかなか行く機会が(汗
あと、まだ、行く気になってないから詳しく調べてない自分がいます。
毛虫とは戯れたくないナァ。。。w
raeさんへ
「はなじょろ」だけだと、もの足りなさが残り、
ちょっと中途半端な距離ですよね。
急に時間が空いた時なんかの暇つぶしにどうですかね。
「古道を守る会」の方には申し訳ないが・・・。
ヒルはいないかわりに毛虫だよ、トホホホ・・・。
いつも興味深いレコを読ませていただいております。
写真21のコメント「前川(小田原)の海へ甲州より塩を舐めに向かう狼の群れの走り行く」を読み、甲州人として、どこから小田原に抜けたのだろうと疑問を持ちました。
幸い手元に「甲斐国志」という江戸時代の本があり、これの道志村を読んでみたところ下記のような記述がありましたので。ちょっと長いですが引用させていただきます。
「これより東道志村に入り、入会山より北方峰続き、前ガ嶽に至る。山の末、長作に至る。
これより丑に出る峰を長野山という。この峰続き、板橋、善ノ木の南に出、峰の辰巳を滝ノ沢という。
また峰続き三ヶ背山に至る。
また入会山より峯分かれて壱里余り東に行きて高又(たかざす)山に至る。
この山間相州小田原へ出る間道あり。サカゼ沢通と寒地より渓水に沿いて南に行く。
サカゼ峠に上り嶺を東に行く弐拾町ばかりにして峰を掘破し跡あり、掘切という。
峯を下りて相州に入り少し平地あり、信玄平という。
これより相州ヲヅク村に下る。この間弐里。」
ここにいう「前ガ嶽」「長野山」「三ヶ背山」など現在のどこなのか不明ですが、道志村内には「三ヶ瀬川」があり、「サカゼ峠」とは今の「城ヶ尾峠」ではないかと推測します。
そうすると峠の先は「大又沢」であり、「はなじょろ」を経由し、酒匂川沿いに小田原に着きそうです。
「オカシラサン」は、そんな道を通るオオカミを鎮める目的だったのでしょうか。「山火安全」であれば林業の神様とも思えます。
ありがとうございます。
pasocomさんご指摘の「甲斐国志」のくだりは、「新編相模国風土記稿」中川村の項にも記載されています。
くわえて、「甲斐国志」として以下抜粋ですが・・・、
さかせ古道の條に、道志村寒地の山中さかせ入と云地より、山を越て、相州西郡の内中川村に出る間道あり。此間凡二里半、古小田原への通路なり。(中略)信玄此道を通行し、山中に宿陣ありしとなり、小田原への行程此道甚近し。(中略)後は・・・、峰を掘破し趾あり、堀切と云、峰を下りて相州に入、少し平地あり、信玄平云々とpasocomさんの件の行に続きますが、pasocomさんの仰る通りの推察を裏付ける記述を目にすることができます。
また、「新編相模国風土記稿」の中川村については、
土人伝て村内小名上野原より、津久井懸せんぬき辺への古道此地に在しと云。叉甲州道志村の山中を経て、当村に出る間道を、さかせ古道と唱う・・・とあって、「丹沢今昔」の著者、奥野幸道氏はこれらから、山梨県との交流が深かったとしています。
「狼の道は塩の道」と呼ばれたこのルートを、今川氏と北条氏によって塩止めの策として封じられた武田軍勢は苦労の末、日本海側の千石ルートに活路を見出します。しかし距離の近い太平洋側ルートに未練を残した武田氏は、今川・北条氏の目の届かない前川の近くの袖ケ浜(二宮あたりか)で製塩を行っていたようです。
半可通ゆえ、稚拙なレコレポートになっていますが、本人はいたって真剣です。これからも、よろしくお願いします。
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