地図と測量の科学館


- GPS
- --:--
- 距離
- 6.9km
- 登り
- 5m
- 下り
- 7m
コースタイム
- 山行
- 1:31
- 休憩
- 2:50
- 合計
- 4:21
天候 | 晴 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2020年01月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
内部の売店での飲食物販売は、飲料の自動販売機のみ。正門を出た横断歩道を渡った所にコンビニあり。休憩室での軽食やお弁当は許されているようです。おにぎりとサンドイッチを食べてましたが何も言われませんでした。レンジやお湯は見当たらず。バーナー、コッフェルを引っ張り出して煮炊きをすれば、さすがに怒られると思うのでご注意を。 受付で聞いたら、展示物の撮影はOKだそうです。 |
写真
感想
興味があって、明治・大正の頃の五万分の一地形図全国整備の事、平たく言えば、いつもお世話になっている、地理院地図の御先祖様はどのように作られたのか?を調べていまして、「地図と測量の科学館」は一度は行かねばと思ってました。
小生がネタにしているのは、国土地理院の「基準点成果等閲覧サービス」で閲覧出来る明治・大正期の点の記です。文章として(かなり四苦八苦しながらも)読み取れはしますが、実際のところ、どんな風だったのか?は文章だけでは解りません。やっぱり現物や図面を見る方が理解が深まります。
一番オオッ!と思った展示が「懸柱式高測櫓」の模型。3800点位の二等点の明治の点の記を読みましたが、平野部ではポピュラーな覘標形式です。漢字は読み取れますが、どんなものかはワカラン。これだったのかぁって感じ。
点の記には錐体頂までの高さと机板高が書いてあります。遠くから見えるように建てた心柱付の櫓と、遠くを見る為の経緯儀を載せる机板付の櫓とは、別々の櫓を中心線を合わせて二重に建てていたのですね(測量時に人が載る台は心柱の方に附属で、人が動いても経緯儀の方の櫓は揺れたりしない構造だったそうな)。二つ櫓を建てたので二つの高さが書いてあったのかぁ。心柱の方の櫓頂までは、低いものでも10m以上、中には20mを越えるものもあります。これは結構「建築物」ですな。ちなみに、山岳地域では、大抵は「尋常方錐形」です。経緯儀を置く櫓の無い一重タイプ。高さも5~10m位。材料は大抵長四間の丸太で、7m位が多かったよう。三脚の上に経緯儀を置いていたのでしょう。
三角点の標石も、見るのと文章を読むだけとは違います。点の記には柱石長0.8mとか書かれてますが、現物を見るのはやはり違う。いつも見ているのは地面の上だけですから、それに引きずられちゃう。これを担ぎ上げていたのかぁ…。でかい!。オレにはムリッ!。って感じ。ちなみに、某二等三角点では、埋設の為に担ぎ上げた標石を、悪漢があらわれ、谷底に投げ捨てたとか。これを投げ捨てるのも大変だ。
「運搬の手段:測站迠駄馬を通す」とか、そのまま読み飛ばしちゃいますが、実際の測量機器の展示を見ると、駄馬なんかの背中に乗っけて大丈夫なのかなぁ???って感じ。見た目、ウルトラスーパー精密機器ですから。一等点の経緯儀は0.2秒刻みで読み取れたそう。こんなの担いで山登りしてコケたら、廻りは本人そっちのけで荷物に駆け寄る。それしかないじゃんって思います。ぶっ壊したら全員で下山するしかない。衝撃で狂ったら日本の形が変わっちゃう。絶対コケない山登りって結構難しい気がする。
売店で、当時の標石や覘標の図面の載った書物がないか探すも見当たらず。これはもう少し探してみましょう。代わりに、「地図を作った男達」(山岡光治著)と「陸地測量部寫眞帖」(複製版)という書物を求めて来ました。後者は明治35年の槍ヶ岳、槍の穂先に建つ覘標を見上げた写真など圧巻。点の記で「覘標の高さ:柱石上面から錐体頂上迠三米突六四○」と読むだけとは全然違う。其他の写真も実際の測量の様子が伺える貴重なものが多い。やはり百聞は一見に如かずです。結構、収穫ありました。
伊能図辺りから、現代のGPSや測地衛星を用いた測定まで、一通りの展示あり。が、私の興味はもっぱら明治期に釘付け。見る人が見ればオオッ!ってのは他にもあると思います。
情報館の方にも寄って、三角点訪問-2で訪れた三等三角点設置前の二万分の一迅速図・仮製図「八王子驛」「拝島村」も求めて来ました。正式図とじっくり見比べようっと。測量年は8年違うだけ。その間に何がどう変わったのか?。なんだか当分忙しそう。
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