連光寺村(三角点訪問-4)


- GPS
- --:--
- 距離
- 26.7km
- 登り
- 126m
- 下り
- 184m
コースタイム
- 山行
- 5:59
- 休憩
- 0:38
- 合計
- 6:37
天候 | 晴 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2020年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
感想
色々思う所がありまして、少し南の方にトレースを伸ばしたいと思ってます。多摩川流域を隈なく歩くの一環で、支流の大栗川に目を付けましたが、総てのトレースをなるべく密に繋げたい私としては、聖蹟桜ヶ丘辺りから歩くのではチト寂しい。この辺の多摩川右岸は歩いていないので、この際、トレースを付ける事にしました。で、家から二番目に近い一等三角点「連光寺村」を訪れる事にして、大栗川下流側に仕立てて見ました。前回は20kmを切ってしまったので、チト頑張って多摩都市モノレールが大栗川を渡る所まで。大栗川沿いを歩いたのは全体の1/5位しかないので、お題は連光寺村。
一等三角点「連光寺村」の当方測定は以下の通り。
北緯:35°37.844、東経:139°27.908、標高157m、衛星10ヶ捕捉
連光寺村は相模野基線の第二増大点という重要な三角点だけあって、何度か改測等されており、「基準点成果等閲覧サービス」では、戦前の点の記だけで三通みられます。但し、一番最初の明治10年代の点の記はなし。まとめると
・撰定:明治15年(1882)5月、陸軍十一等出仕、三原昌
・造標1:明治16年4月、陸軍十四等出仕、桑野庫三
錐体頂:11.343m、机板高:5.115m
・埋石1:明治16年12月、陸軍工兵大尉、田坂虎之助
・観測1:記載見当たらず。明治16年に観測されたはずだが…。
・造標2:明治23年(1890)11月23日(改造)、陸軍砲兵曹長、亀山廣
机板高:5.765m
・観測2:明治24年1月4〜15日、陸地測量師、関大之
・造標3:明治31年(1898)1月2日〜2月8日(修理)、陸地測量手、川又藤四郎
・観測3:明治31年1月11日〜2月20日、陸地測量師、三輪昌輔
・造標4:大正13年(1924)6月25日、陸地測量手、小島荘平
錐体頂:14.61m
・埋石2:大正13年6月26日、陸地測量手、小島荘平
・観測4:大正13年8月13日〜31日。補測、大正13年12月17日〜19日、陸地測量師、梅本豊吉
となります。以後改埋された記録は見当たらないので、現在の標石は大正13年のものですね。関東大震災(大正12年)の復旧で行われたものです。「改埋前ノ中心及眞高ハ、震災ノ異状ヲ受ケ信シ得ズ。」と書かれているので、それなりの被害があったよう。今見ても四周をコンクリートで囲まれたのが解りますが、大正の点の記に「混凝土ヲ用ヰテ改埋ス。」と書かれているのがそれでしょうか?。
明治の点の記には、関戸村から連光寺村を経由して点に至ったと書かれているので、私の辿った径路とそれ程違わないはず。写真16の道標は測量隊も見たのではないでしょうか?。大正の点の記は是政の渡しを渡り、舟ヶ台に行ったと書かれているので、今の南多摩駅辺りから都道41号線(川崎街道)の前身を辿って舟ヶ台に至ったようです。舟ヶ台は「連光寺村」三角点の北約350mの四等三角点「舟台」(標高151.5m)のある辺りにあった集落。
観測先は観測の都度微妙に変わってますが、基線南北端は常に対象外。第一増大点の鳶尾山、長津田村、第二増大点の相棒、浅間山は常に対象。丹沢山、鹿野山は明治31年の改測では記載されてません。他には、この前行った狭山丘陵の高根、三浦半島逗子の南の二子山、田園調布の上沼部、東武練馬駅そばの本郷などの補点が観測されてます。近くの開けた所から見るに、雲取山も見えそうなものだと思いますが、観測対象外。丹沢山は余裕で見えたでしょう。他の低めの他点は今では樹木や建物等で確認出来ず。森林は昔もあったので別にして、建物等が当時とは比べものにならない位に多く、鉄塔などもありますから、当時を再現するのは難しいでしょうね。
三回改測されていますが、その結果をどう地図に反映したのでしょうね?。特に大正13年は三角点の位置が微妙に変わっているでしょうし、この時、関東・東海の五万図は総て刊行済。観測結果も微妙に変わったと思えます。そうなれば、コトは基線長を一等点間距離に展開する途中の話なので、丹沢山と鹿野山の距離が変わっちゃったんじゃ…。それにつられて、原理的には武遠三角点網の一等三角点間の位置関係が片っ端から変わってしまうように思えます。それから派生して行くと相当な枚数の五万図に影響が波及して行く筈ですが、全部の地図を造り直す訳には行かないだろうし、どうやって納めたのでしょうね?。この地域の五万図「八王子」は昭和2年測量で部分修正されています。何かやったのでしょうか?。前後の謄本を取り寄せ、比べて見ますかね。
四国や紀伊半島南部の点の記を読むと、昭和の南海地震の影響で改測した記録が多く見受けられますが、プレートが動いて日本が動いちゃったのだから、地面が地図から、下手をすればメートル単位でズレちゃったはず。地図上はどう処理したんでしょう?。今とは違ってそう簡単に地図を変えられる時代じゃありませんから、どうしたのか興味があります。もっとも、全体として数mズレた地図なら、実用上問題無い時代でもありますが。GPSで緯度経度を測って喜ぶおかしなオッサンもいないだろうし…。
通常、標石の刻印面は南に向けるのが通例(日当たりを良くして乾燥させ、苔やカビが生えないようにして、刻印を長持ちさせる為と聞きました)ですが、連光寺村は、ハッキリと南向きではないので、コンパスを置いて方位が解るようにしてみました。今まで余り意識してませんでしたが、今後は標石の向きも取り入れて見ますかね。数を集めりゃ、見えて来る何かがあるかも知れませんし。
今回は27km弱。よく頑張った。今週後半は天気がイマイチのようですが、雨が降らなきゃもう一回出かけようと思ってます。
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