<西から見た日永追分>参宮道分岐。桑名・七里の渡し「一の鳥居」日永追分「二の鳥居」日永は四日市宿と石薬師宿の間の宿。旅籠や茶店。両替商「綿屋」や旅籠や茶屋「鍵屋」「浅草屋」「野口屋」等
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<西から見た日永追分>参宮道分岐。桑名・七里の渡し「一の鳥居」日永追分「二の鳥居」日永は四日市宿と石薬師宿の間の宿。旅籠や茶店。両替商「綿屋」や旅籠や茶屋「鍵屋」「浅草屋」「野口屋」等
<追分駅前・小古曽>左が旧東海道。右は407号線。小古曽(おごそ)=采女と追分の間の古い歴史がある集落。小古祖(おごそ)=先祖の霊。小社(おごそ)
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<追分駅前・小古曽>左が旧東海道。右は407号線。小古曽(おごそ)=采女と追分の間の古い歴史がある集落。小古祖(おごそ)=先祖の霊。小社(おごそ)
<大蓮寺>土岐代広居城跡地に八幡宮勧請。後に大蓮寺建立。焼失。1460年真宗高田派専修寺末寺。恵心僧都真筆・阿弥陀尊像一軸。
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<大蓮寺>土岐代広居城跡地に八幡宮勧請。後に大蓮寺建立。焼失。1460年真宗高田派専修寺末寺。恵心僧都真筆・阿弥陀尊像一軸。
<観音禅寺>小古曽駅に石柱「黄檗観音禅寺」。727年(聖武4)藤原次郎正資が小野浦にて霊木を得る。信長侵攻で焼失。兵火逃れた本尊・千手観音像。頭体幹部は11C頃?養蚕観音?1736年寺創建鎮堂和尚。
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<観音禅寺>小古曽駅に石柱「黄檗観音禅寺」。727年(聖武4)藤原次郎正資が小野浦にて霊木を得る。信長侵攻で焼失。兵火逃れた本尊・千手観音像。頭体幹部は11C頃?養蚕観音?1736年寺創建鎮堂和尚。
<小許曽(小古曽)神社>延喜五年(905)延喜式神名帳記載式内社。千百年の歴史。庚申塚群。首切り地蔵。神宮遙拝石燈籠。氏子約六百軒中から神社総代と宮当番が選ぶ・神事(粥試占い・奉賛・当渡)
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<小許曽(小古曽)神社>延喜五年(905)延喜式神名帳記載式内社。千百年の歴史。庚申塚群。首切り地蔵。神宮遙拝石燈籠。氏子約六百軒中から神社総代と宮当番が選ぶ・神事(粥試占い・奉賛・当渡)
<小古曽>大きく鈎の手状に曲がる東海道。
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<小古曽>大きく鈎の手状に曲がる東海道。
<米田山願誓寺>1181年創建。縁起は米田山大蓮寺と同じ。真言宗から真慧上人契機に浄土真宗。十世義道が火災から1792年再興。黄金仏御丈5cm小仏。本尊・阿弥陀仏。寺伝・聖徳太子作。
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<米田山願誓寺>1181年創建。縁起は米田山大蓮寺と同じ。真言宗から真慧上人契機に浄土真宗。十世義道が火災から1792年再興。黄金仏御丈5cm小仏。本尊・阿弥陀仏。寺伝・聖徳太子作。
<東海道標>内部川手前。左が407号。右が東海道。
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<東海道標>内部川手前。左が407号。右が東海道。
橘守部(朝日町小向)天保の国学四大家の一人。五百山(いほやま)八景「春霞あらたにかかる小古曽山桜の花は咲きそめぬらん」五百山は内部川周辺丘陵を指す。
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橘守部(朝日町小向)天保の国学四大家の一人。五百山(いほやま)八景「春霞あらたにかかる小古曽山桜の花は咲きそめぬらん」五百山は内部川周辺丘陵を指す。
<采女城跡>内部川泊丘陵南端。1180年伊勢平氏・後藤兵衛基清築城。15代采女正の時、滝川一益侵略。1568年滅亡。標高70m弱尾根筋。郭、深井戸等。県下第一級戦国期山城。
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<采女城跡>内部川泊丘陵南端。1180年伊勢平氏・後藤兵衛基清築城。15代采女正の時、滝川一益侵略。1568年滅亡。標高70m弱尾根筋。郭、深井戸等。県下第一級戦国期山城。
<内部川左岸堤防より>橘守部「うねめ川あさひのうつるけさ見れば淡紅の帯流したり」左の丘陵と森が杖衝坂。内部川下流台地に5C頃の八幡塚古墳あり。古代より村落形成。
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<内部川左岸堤防より>橘守部「うねめ川あさひのうつるけさ見れば淡紅の帯流したり」左の丘陵と森が杖衝坂。内部川下流台地に5C頃の八幡塚古墳あり。古代より村落形成。
<内部川>平成采女一里塚公園。中世では采女・波木・貝塚・北小松は後藤氏。小古曽は北畠氏所領。1889年采女、小古曽、貝塚、波木、北小松5村合併=内部村。戦後、四日市と合併。
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<内部川>平成采女一里塚公園。中世では采女・波木・貝塚・北小松は後藤氏。小古曽は北畠氏所領。1889年采女、小古曽、貝塚、波木、北小松5村合併=内部村。戦後、四日市と合併。
<内部橋より南>左が東海道。右が25号線で東海道関宿までは国道1号。関宿からは25号は加太へ向かい壬申の乱の道。1号線は鈴鹿峠へ向かう東海道。
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<内部橋より南>左が東海道。右が25号線で東海道関宿までは国道1号。関宿からは25号は加太へ向かい壬申の乱の道。1号線は鈴鹿峠へ向かう東海道。
<成満寺・采女>1047年創建。1504-1521年後藤采女正藤勝が後藤家菩提寺に。その後、真宗高田派に改宗。采女城と共に信長兵火焼失。
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<成満寺・采女>1047年創建。1504-1521年後藤采女正藤勝が後藤家菩提寺に。その後、真宗高田派に改宗。采女城と共に信長兵火焼失。
「采女」朝廷に仕え天皇の食膳奉仕の下級女官。地方豪族服従の証。伊勢出身者多数。容姿端麗、才媛。伊勢・豪族大鹿(おおが)氏娘・莵名子は采女で敏達天皇夫人となる。
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「采女」朝廷に仕え天皇の食膳奉仕の下級女官。地方豪族服従の証。伊勢出身者多数。容姿端麗、才媛。伊勢・豪族大鹿(おおが)氏娘・莵名子は采女で敏達天皇夫人となる。
「采女」壬申の乱で敗れた大友皇子生母・伊賀采女宅子娘は伊賀大山田村鳳凰寺出身?9世紀に采女制度消滅。当地「采女」地名由来は雄略帝の采女への怒りと賛賞の逸話から?比定地に影響?
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「采女」壬申の乱で敗れた大友皇子生母・伊賀采女宅子娘は伊賀大山田村鳳凰寺出身?9世紀に采女制度消滅。当地「采女」地名由来は雄略帝の采女への怒りと賛賞の逸話から?比定地に影響?
<采女八幡社>鎌倉期1188年創建。1909年明治合祀令で波木町・加冨神社合祀。1926年に分祀社殿造営。東海道北丘陵地の東末端。
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<采女八幡社>鎌倉期1188年創建。1909年明治合祀令で波木町・加冨神社合祀。1926年に分祀社殿造営。東海道北丘陵地の東末端。
<采女八幡社>社北裏高台より内部川周辺。南北小松町。貝家町、采女町。北小松町小松寺や南小松中山寺周辺は浄土真宗「真慧上人北小松中山の旧跡」。栃木から伊勢一身田に移る際、七堂伽藍建設、北伊勢民衆教化。
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<采女八幡社>社北裏高台より内部川周辺。南北小松町。貝家町、采女町。北小松町小松寺や南小松中山寺周辺は浄土真宗「真慧上人北小松中山の旧跡」。栃木から伊勢一身田に移る際、七堂伽藍建設、北伊勢民衆教化。
<うつべ町かど博物館>旧四日市市役所内部出張所。内部地区歴史と文化をテーマに貴重な埋蔵文化財と地域提供の資料展示。
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<うつべ町かど博物館>旧四日市市役所内部出張所。内部地区歴史と文化をテーマに貴重な埋蔵文化財と地域提供の資料展示。
<杖衝坂石柱>江戸期東海道における体験型観光テーマパークの様相あり。丘陵にある坂としてはさほど急傾斜が続くと思えない坂なのだが・・。
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<杖衝坂石柱>江戸期東海道における体験型観光テーマパークの様相あり。丘陵にある坂としてはさほど急傾斜が続くと思えない坂なのだが・・。
<杖衝坂芭蕉碑>『歩行ならば杖つき坂を落馬かな』1687年乗馬して坂を上がっていた芭蕉が鞍ともに落馬。季語無句。
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<杖衝坂芭蕉碑>『歩行ならば杖つき坂を落馬かな』1687年乗馬して坂を上がっていた芭蕉が鞍ともに落馬。季語無句。
<杖衝坂>石柱。石碑。井戸など。江戸期の旅人が日本武尊と体験共有をすることへの興味・関心。旅の土産話。古代へ思いを馳せる。弘法の井戸。大日の井戸。
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<杖衝坂>石柱。石碑。井戸など。江戸期の旅人が日本武尊と体験共有をすることへの興味・関心。旅の土産話。古代へ思いを馳せる。弘法の井戸。大日の井戸。
<杖衝坂>「古事記」景行天皇41年日本武尊東国遠征からの帰途、病に苦しみ剣を杖に登る「杖衝坂」。「吾が足三重の勾りなして甚く疲れたり」三重地名由来。
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<杖衝坂>「古事記」景行天皇41年日本武尊東国遠征からの帰途、病に苦しみ剣を杖に登る「杖衝坂」。「吾が足三重の勾りなして甚く疲れたり」三重地名由来。
<血塚社>日本武尊。怪我をして出血した足を洗った場所。
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<血塚社>日本武尊。怪我をして出血した足を洗った場所。
<采女一里塚付近>大海人皇子一行。吉野出発2日目夜。天候急変悪化。急ぎ川曲・坂下出発。豪雨と雷雨。びしょ濡れ寒冷。三重郡家到着。家屋燃やし暖とる。鸕野讃良皇女疲労困憊。吉野出立後初休泊。翌朝に朝明郡迹太川辺で天照大神望拝。
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<采女一里塚付近>大海人皇子一行。吉野出発2日目夜。天候急変悪化。急ぎ川曲・坂下出発。豪雨と雷雨。びしょ濡れ寒冷。三重郡家到着。家屋燃やし暖とる。鸕野讃良皇女疲労困憊。吉野出立後初休泊。翌朝に朝明郡迹太川辺で天照大神望拝。
<采女一里塚解説板>川曲坂下や家屋を燃やした三重郡家は?一般的には鈴鹿市河曲(木田)から近い采女付近とされるが、前に紹介したように四日市西坂部の御館の説もある。川曲は亀山・川崎説も。
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<采女一里塚解説板>川曲坂下や家屋を燃やした三重郡家は?一般的には鈴鹿市河曲(木田)から近い采女付近とされるが、前に紹介したように四日市西坂部の御館の説もある。川曲は亀山・川崎説も。
<豊富稲荷神社>1861年山城国伏見稲荷神社祭神・宇迦之御魂神分霊創祀。旧釆女村杖突坂上にあり旧名「杖突稲荷大明神」。「采女食堂」前辺りが一里塚跡?25号線向こうの出光ガススタンド左横に一里塚石碑あり。
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<豊富稲荷神社>1861年山城国伏見稲荷神社祭神・宇迦之御魂神分霊創祀。旧釆女村杖突坂上にあり旧名「杖突稲荷大明神」。「采女食堂」前辺りが一里塚跡?25号線向こうの出光ガススタンド左横に一里塚石碑あり。
<鈴鹿市国分町>東海道は25号線沿いに進むが、本日は壬申の乱の関係の道?ファミリーマート采女店を左折(南下)8号線下る。
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<鈴鹿市国分町>東海道は25号線沿いに進むが、本日は壬申の乱の関係の道?ファミリーマート采女店を左折(南下)8号線下る。
<菅原神社・天神公園>珍しい一枝から紅白の梅の花。いつもの年なら今頃が枝垂れ埋め満開だが、今年はもう散っている。
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<菅原神社・天神公園>珍しい一枝から紅白の梅の花。いつもの年なら今頃が枝垂れ埋め満開だが、今年はもう散っている。
<菅原神社>1147年辻喜右衛門豊武勧請。四代孫・辻縫介嘆願で采女城主・後藤五郎兵衛藤原方綱1226年造営。江戸期、伊勢神戸藩主・本多家崇敬。大祭に歴代藩主参詣。
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<菅原神社>1147年辻喜右衛門豊武勧請。四代孫・辻縫介嘆願で采女城主・後藤五郎兵衛藤原方綱1226年造営。江戸期、伊勢神戸藩主・本多家崇敬。大祭に歴代藩主参詣。
<菅原神社より南西を見る>中勢・津の長谷山や経ヶ峯が見え、奥には室生・美杉の山々。伊勢平野が見渡せる。
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<菅原神社より南西を見る>中勢・津の長谷山や経ヶ峯が見え、奥には室生・美杉の山々。伊勢平野が見渡せる。
<富士山1号墳>菅原神社南すぐ国分町富士山越。最近、地元の人たちが竹藪を切って整備してくれた。
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<富士山1号墳>菅原神社南すぐ国分町富士山越。最近、地元の人たちが竹藪を切って整備してくれた。
<富士山1号墳>前方後円墳。後円部径30m、高さ6m、前方部幅18m、墳丘全長50m。楯形周濠。6世紀頃?
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<富士山1号墳>前方後円墳。後円部径30m、高さ6m、前方部幅18m、墳丘全長50m。楯形周濠。6世紀頃?
<国分集落内>集落中に入ると道幅いたって狭い。
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<国分集落内>集落中に入ると道幅いたって狭い。
<国分町・光福寺>旧伊勢国分尼寺跡?1991年発掘調査では白鳳時代瓦出土。
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<国分町・光福寺>旧伊勢国分尼寺跡?1991年発掘調査では白鳳時代瓦出土。
<光福寺・伊勢国分寺陳跡碑記>金光明寺(僧寺)を南院、法華寺(尼寺)を北院と称した。
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<光福寺・伊勢国分寺陳跡碑記>金光明寺(僧寺)を南院、法華寺(尼寺)を北院と称した。
<光福寺・南院>南院は国分寺南浦、北院は国分寺集落付近。こちらは北なのだが・・。
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<光福寺・南院>南院は国分寺南浦、北院は国分寺集落付近。こちらは北なのだが・・。
<集落内国分寺>1993-1994年調査。複弁八葉蓮華文軒丸瓦、均等唐草文軒平瓦、鬼瓦など出土。区画溝や柵。北院地域(現在集落)は国分尼寺の可能性が強まる。
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<集落内国分寺>1993-1994年調査。複弁八葉蓮華文軒丸瓦、均等唐草文軒平瓦、鬼瓦など出土。区画溝や柵。北院地域(現在集落)は国分尼寺の可能性が強まる。
<集落を西に伊勢国分僧寺跡>左が鈴鹿考古学博物館(狐塚)、右の広い場所が伊勢国分寺(僧寺)跡。狐塚古墳群には6C後半から7Cの小古墳多数分布。
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<集落を西に伊勢国分僧寺跡>左が鈴鹿考古学博物館(狐塚)、右の広い場所が伊勢国分寺(僧寺)跡。狐塚古墳群には6C後半から7Cの小古墳多数分布。
<伊勢国分寺(国分僧寺)跡>聖武天皇の詔741年全国60余りの国立寺院建設。仏教教義で国家収める鎮護国家理念。「堂跡」の地名。伽藍地のみで180m四方。
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<伊勢国分寺(国分僧寺)跡>聖武天皇の詔741年全国60余りの国立寺院建設。仏教教義で国家収める鎮護国家理念。「堂跡」の地名。伽藍地のみで180m四方。
<伊勢国分僧寺>伽藍(金堂・講堂・回廊・中門・南門など)位置や大きさほぼ判明。塔は未だに不明。
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<伊勢国分僧寺>伽藍(金堂・講堂・回廊・中門・南門など)位置や大きさほぼ判明。塔は未だに不明。
<伊勢国分僧寺跡>
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<伊勢国分僧寺跡>
<伊勢国分僧寺跡>石標など。
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<伊勢国分僧寺跡>石標など。
<伊勢国分僧寺跡>講堂説明
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<伊勢国分僧寺跡>講堂説明
<伊勢国分僧寺跡>金堂説明
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<伊勢国分僧寺跡>金堂説明
<伊勢国分僧寺跡>
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<伊勢国分僧寺跡>
<鈴鹿考古博物館>出土品や奈良時代寺院・役所に関する資料収蔵、展示。勾玉や土笛作りなど体験学習。建物上より伊勢国分寺跡地が見通せる。
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<鈴鹿考古博物館>出土品や奈良時代寺院・役所に関する資料収蔵、展示。勾玉や土笛作りなど体験学習。建物上より伊勢国分寺跡地が見通せる。
<大鹿廃寺跡>博物館東、南浦の畑。北院より五百m南。1991年調査で白鳳時代瓦出土。白鳳期寺院存在判明。大鹿(おおが)氏氏寺(大鹿廃寺)「日本書紀」敏達天皇575年「采女伊勢大鹿首」。国分〜采女周辺が本拠地か。
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<大鹿廃寺跡>博物館東、南浦の畑。北院より五百m南。1991年調査で白鳳時代瓦出土。白鳳期寺院存在判明。大鹿(おおが)氏氏寺(大鹿廃寺)「日本書紀」敏達天皇575年「采女伊勢大鹿首」。国分〜采女周辺が本拠地か。
<大鹿山1号墳>国分町南の大金谷。円墳。6世紀頃?墳丘径35m、高さ5.5m。大鹿氏娘・菟名子は采女で敏達天皇夫人。桜井皇女と田村皇女を産む。田村皇女(糠手姫)=舒明天皇母。天皇系譜に繋がる唯一の伊勢古代豪族。中勢説もある。
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<大鹿山1号墳>国分町南の大金谷。円墳。6世紀頃?墳丘径35m、高さ5.5m。大鹿氏娘・菟名子は采女で敏達天皇夫人。桜井皇女と田村皇女を産む。田村皇女(糠手姫)=舒明天皇母。天皇系譜に繋がる唯一の伊勢古代豪族。中勢説もある。
<河曲(木田)へ坂下る>大鹿山古墳南に木田城跡。室町期、山路氏築城。詳細不明。曲輪、土塁、空堀。今は森だが、南に鈴鹿市や鈴鹿川の展望良い。
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<河曲(木田)へ坂下る>大鹿山古墳南に木田城跡。室町期、山路氏築城。詳細不明。曲輪、土塁、空堀。今は森だが、南に鈴鹿市や鈴鹿川の展望良い。
<国分町から下りる分岐点にある地蔵祠>大海人皇子の河曲・坂下はこの辺りなのか?
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<国分町から下りる分岐点にある地蔵祠>大海人皇子の河曲・坂下はこの辺りなのか?
<道標>「左 薬師 大谷・・」「右 国分・・」薬師とは石薬師寺のこと。
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<道標>「左 薬師 大谷・・」「右 国分・・」薬師とは石薬師寺のこと。
<木田集落内>現在地名「河曲=かわの」1889年河曲(かわわ)郡河田・野辺・竹野・木田・国分・山辺・十宮・須賀合併=川曲村。1891年字を変え河曲村に。
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<木田集落内>現在地名「河曲=かわの」1889年河曲(かわわ)郡河田・野辺・竹野・木田・国分・山辺・十宮・須賀合併=川曲村。1891年字を変え河曲村に。
<木田集落内>川曲の読み方「かわまがり」「かわね」「かわわ」これらが転じて「河曲(かわの)」になったのか?「木田」は河曲の中の1つの村。
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<木田集落内>川曲の読み方「かわまがり」「かわね」「かわわ」これらが転じて「河曲(かわの)」になったのか?「木田」は河曲の中の1つの村。
<木田集落内>光明寺裏にあった興味深い石仏や五輪塔。
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<木田集落内>光明寺裏にあった興味深い石仏や五輪塔。
<木田山光明寺>誓子俳句碑「肉眼は他の非が見える。仏眼は自己の非にめざめる」
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<木田山光明寺>誓子俳句碑「肉眼は他の非が見える。仏眼は自己の非にめざめる」
<鬼太神社・木田>詳細不詳。「おにた」「しこた」などの読み。「きた」読みは江戸期から。「木田」との関係?「鬼田」鈴鹿川の北の御厨の意味か?「若宮八幡」「今八幡」の名も。
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<鬼太神社・木田>詳細不詳。「おにた」「しこた」などの読み。「きた」読みは江戸期から。「木田」との関係?「鬼田」鈴鹿川の北の御厨の意味か?「若宮八幡」「今八幡」の名も。
<鬼太神社>さっぱりとした横広の拝殿までは急な石段。長く緩い坂の参道と広い境内。大木や巨大な常夜灯。
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<鬼太神社>さっぱりとした横広の拝殿までは急な石段。長く緩い坂の参道と広い境内。大木や巨大な常夜灯。
<浪瀬川と関西本線>浪瀬川は東名阪近くの小山田から流れ、この先で鈴鹿川に注ぐ。この川の支流が国分寺の台地西を流れる。
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<浪瀬川と関西本線>浪瀬川は東名阪近くの小山田から流れ、この先で鈴鹿川に注ぐ。この川の支流が国分寺の台地西を流れる。
<鈴鹿川より>丘陵左手が木田城跡。右手が鬼太神社。「駅路鈴」古代律令制で官命の旅人に下付された鈴。駅馬供与資格証明。鈴を鳴らしながら旅「駅鈴」
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<鈴鹿川より>丘陵左手が木田城跡。右手が鬼太神社。「駅路鈴」古代律令制で官命の旅人に下付された鈴。駅馬供与資格証明。鈴を鳴らしながら旅「駅鈴」
<鈴鹿川>大海人皇子が東国への途中で洪水遭遇。駅路鈴をつけた鹿が出現。鹿の背に乗り洪水川渡り。「鈴鹿」「鈴鹿川」地名由来。
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<鈴鹿川>大海人皇子が東国への途中で洪水遭遇。駅路鈴をつけた鹿が出現。鹿の背に乗り洪水川渡り。「鈴鹿」「鈴鹿川」地名由来。
<鈴鹿川堤防で東を見る>木田橋。左手丘陵に寺田山古墳。中央の森が伊勢高岡城跡。築城年代不明。神戸(かんべ)城主神戸友盛家老・山路弾正築城?
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<鈴鹿川堤防で東を見る>木田橋。左手丘陵に寺田山古墳。中央の森が伊勢高岡城跡。築城年代不明。神戸(かんべ)城主神戸友盛家老・山路弾正築城?
<河曲駅>高岡城続き。永禄年間、信長攻撃2回、落城せず信長三男・信孝が神戸家養子の和議。 1571年神戸友盛は隠居命令。君主思いの弾正が神戸城討伐企て失敗、自刃。
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<河曲駅>高岡城続き。永禄年間、信長攻撃2回、落城せず信長三男・信孝が神戸家養子の和議。 1571年神戸友盛は隠居命令。君主思いの弾正が神戸城討伐企て失敗、自刃。
<河曲周辺案内図>
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<河曲周辺案内図>
<鈴鹿宮妻峡線踏切>正面の山中に入ると「山辺の御井(みい)」踏切北すぐの式内大井神社は河曲郡だったが昔は鈴鹿郡。神戸藩領内
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<鈴鹿宮妻峡線踏切>正面の山中に入ると「山辺の御井(みい)」踏切北すぐの式内大井神社は河曲郡だったが昔は鈴鹿郡。神戸藩領内
<大井神社・山辺>大井神社(おおいのみや)?万葉集。和銅5年(712)長田王が伊勢斎宮への途中、付近通過し御井にて詠んだ歌「山の辺の御井を見がてり神風の伊勢処女ども相見つるかも」
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<大井神社・山辺>大井神社(おおいのみや)?万葉集。和銅5年(712)長田王が伊勢斎宮への途中、付近通過し御井にて詠んだ歌「山の辺の御井を見がてり神風の伊勢処女ども相見つるかも」
<公家ヶ坂とある道標>御井の清い水を硯石に入れて書を書いた?歌人山辺赤人の屋敷跡か?
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<公家ヶ坂とある道標>御井の清い水を硯石に入れて書を書いた?歌人山辺赤人の屋敷跡か?
「山辺の御井」??伊勢神戸藩主・本多伊予守忠貫が懸命に御井探し。
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「山辺の御井」??伊勢神戸藩主・本多伊予守忠貫が懸命に御井探し。
「山辺の御井」神戸藩主からの依頼で石薬師宿の学者・佐々木弘綱らが苦労して調査研究。特定には本居宣長も影響?「山辺」の定義。山辺はどこ?大和?中勢説も。
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「山辺の御井」神戸藩主からの依頼で石薬師宿の学者・佐々木弘綱らが苦労して調査研究。特定には本居宣長も影響?「山辺」の定義。山辺はどこ?大和?中勢説も。
<万葉遺跡・山辺の御井説明板>興味のある方、読んでください。藩主・本多伊予守忠貫は自分の領地内に御井比定して満足。
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<万葉遺跡・山辺の御井説明板>興味のある方、読んでください。藩主・本多伊予守忠貫は自分の領地内に御井比定して満足。
<神戸藩主・本多伊予守忠貫建立石碑1867年>佐々木弘綱らが下書きを書いた石碑。北に山辺赤人屋敷跡比定?ここの水が山辺赤人の硯水?京へ輸送?
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<神戸藩主・本多伊予守忠貫建立石碑1867年>佐々木弘綱らが下書きを書いた石碑。北に山辺赤人屋敷跡比定?ここの水が山辺赤人の硯水?京へ輸送?
<舟塚古墳・河田町>御井から山を登り切る。西を見ると鈴鹿グリーンセンターゴミ処理場。高い丘中央が舟塚古墳。直径約15m、高さ約2m円墳。土器片から6世紀頃。
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<舟塚古墳・河田町>御井から山を登り切る。西を見ると鈴鹿グリーンセンターゴミ処理場。高い丘中央が舟塚古墳。直径約15m、高さ約2m円墳。土器片から6世紀頃。
<鈴鹿川と鈴鹿市街>川左岸、右岸とも多くの古墳遺跡。弥生時代中期以降の集落遺構。古代より開けた場所。鈴鹿市に伊勢神戸(かんべ)城。桓武平氏・関氏流の神戸氏=河曲郡神戸郷発祥豪族。
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<鈴鹿川と鈴鹿市街>川左岸、右岸とも多くの古墳遺跡。弥生時代中期以降の集落遺構。古代より開けた場所。鈴鹿市に伊勢神戸(かんべ)城。桓武平氏・関氏流の神戸氏=河曲郡神戸郷発祥豪族。
<若宮八幡神社跡地・若宮古墳>直径約10m円墳。ここに昔は若宮八幡神社があったが、神社は国分寺西の大谷古墳跡に移動。なぜ?大谷古墳は全長43m前方後円墳。横穴式石室。
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<若宮八幡神社跡地・若宮古墳>直径約10m円墳。ここに昔は若宮八幡神社があったが、神社は国分寺西の大谷古墳跡に移動。なぜ?大谷古墳は全長43m前方後円墳。横穴式石室。
<御曹司社>石薬師寺東すぐ。源頼朝弟・蒲冠者範頼を祀る。武道・学問に優れ、願望成就の神。弓矢を奉納。模型の神馬と厩舎あり。
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<御曹司社>石薬師寺東すぐ。源頼朝弟・蒲冠者範頼を祀る。武道・学問に優れ、願望成就の神。弓矢を奉納。模型の神馬と厩舎あり。
<御曹司社より正面・石薬師寺を見る>
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<御曹司社より正面・石薬師寺を見る>
<範頼縁の蒲桜(がまざくら)>珍しい山桜の一変種。江戸彼岸桜と山桜交配?かまざくら?源範頼が平氏追撃で西へ、石薬師寺で戦勝祈願。馬の鞭に使った桜枝を地面に逆さ挿し、芽を出したという伝説。
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<範頼縁の蒲桜(がまざくら)>珍しい山桜の一変種。江戸彼岸桜と山桜交配?かまざくら?源範頼が平氏追撃で西へ、石薬師寺で戦勝祈願。馬の鞭に使った桜枝を地面に逆さ挿し、芽を出したという伝説。
<石薬師・範頼縁の蒲桜>佐佐木信綱「ますらをの其の名止むる蒲桜更にかほらむ八千年の春に」
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<石薬師・範頼縁の蒲桜>佐佐木信綱「ますらをの其の名止むる蒲桜更にかほらむ八千年の春に」
<浄国寺・上野>昔は村や寺は北東高台に。村火事、全て焼失。本尊・阿弥陀佛を持ち出し松大木に。その地に寺建立してその周りに村再建。
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<浄国寺・上野>昔は村や寺は北東高台に。村火事、全て焼失。本尊・阿弥陀佛を持ち出し松大木に。その地に寺建立してその周りに村再建。
<東海道に出る>蒲川(才石川)堤防手前。蒲川と才石川は石薬師西で合流。
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<東海道に出る>蒲川(才石川)堤防手前。蒲川と才石川は石薬師西で合流。
<東海道・蒲川橋>蒲川(才石川)と石薬師一里塚を見る
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<東海道・蒲川橋>蒲川(才石川)と石薬師一里塚を見る
<石薬師集落案内図>
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<石薬師集落案内図>
<石薬師一里塚>
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<石薬師一里塚>
<東海道>左に続く東海道。河川が入り組み、この辺りの地形は複雑。庄野宿へはJR関西線や椎山川を渡り、細い道を鈴鹿川沿いに進む。
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<東海道>左に続く東海道。河川が入り組み、この辺りの地形は複雑。庄野宿へはJR関西線や椎山川を渡り、細い道を鈴鹿川沿いに進む。
<東海道と石薬師寺>「高富村」1616年宿駅制定。宿名は石薬師寺から。宿泊より休憩客多。1845年180軒中、農家130。本陣3、旅籠15、人口991。
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<東海道と石薬師寺>「高富村」1616年宿駅制定。宿名は石薬師寺から。宿泊より休憩客多。1845年180軒中、農家130。本陣3、旅籠15、人口991。
<石薬師寺>歌川広重の東海道五十三次にも石薬師山門。農村風景の描写。奈良期726年聖武天皇時に泰澄がこの地で森の地鳴りを聞き、開山。厄除け霊験あらたか。嵯峨天皇勅願寺。
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<石薬師寺>歌川広重の東海道五十三次にも石薬師山門。農村風景の描写。奈良期726年聖武天皇時に泰澄がこの地で森の地鳴りを聞き、開山。厄除け霊験あらたか。嵯峨天皇勅願寺。
<石薬師寺・薬師堂>信長侵攻で焼失。総檜造り。江戸初期桃山様式。1629年神戸城主・一柳監物直盛再建。
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<石薬師寺・薬師堂>信長侵攻で焼失。総檜造り。江戸初期桃山様式。1629年神戸城主・一柳監物直盛再建。
<石薬師寺・縁起>東海道を行き交う参勤交代大名達が競って寄進。道中安全祈願。一休「名も高き誓いも重き石薬師 瑠璃の光はあらたなりけり」
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<石薬師寺・縁起>東海道を行き交う参勤交代大名達が競って寄進。道中安全祈願。一休「名も高き誓いも重き石薬師 瑠璃の光はあらたなりけり」
<石薬師寺・石仏縁起>弘法大師が一夜の内に自ら花崗岩に刻んだ薬師如来像190cm。秘仏で毎年12月20日おすす取り時に開扉。他に紀州藩寄進「日光・月光菩薩、十二神将、大日如来像、不動明王」など。
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<石薬師寺・石仏縁起>弘法大師が一夜の内に自ら花崗岩に刻んだ薬師如来像190cm。秘仏で毎年12月20日おすす取り時に開扉。他に紀州藩寄進「日光・月光菩薩、十二神将、大日如来像、不動明王」など。
<隣下を25号線が走る>瑠璃之橋が石薬師寺と石薬師宿を繋ぐ。瑠璃橋の名は瑠璃院石薬師寺より。
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<隣下を25号線が走る>瑠璃之橋が石薬師寺と石薬師宿を繋ぐ。瑠璃橋の名は瑠璃院石薬師寺より。
南北に長い石薬師宿。東海道44番目宿場。
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南北に長い石薬師宿。東海道44番目宿場。
<石薬師・南町古墳付近>現在は山ノ神社。全長50m前方後円墳だが墳丘残らず。横穴式石室。1914年調査。6世紀?
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<石薬師・南町古墳付近>現在は山ノ神社。全長50m前方後円墳だが墳丘残らず。横穴式石室。1914年調査。6世紀?
<浄福寺>佐々木信綱家菩提寺。室町期永正年間1504-1520創建。この地域は真宗高田派の寺が実に多い。真慧上人の北小松中山伽藍の影響。
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<浄福寺>佐々木信綱家菩提寺。室町期永正年間1504-1520創建。この地域は真宗高田派の寺が実に多い。真慧上人の北小松中山伽藍の影響。
<佐佐木信綱生家>信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」。佐佐木信綱記念館は改修中で足場組み。
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<佐佐木信綱生家>信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」。佐佐木信綱記念館は改修中で足場組み。
<佐佐木信綱生誕地>国文学者。父も江戸末期国学者。第一回文化勲章受章者(1872〜1963)
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<佐佐木信綱生誕地>国文学者。父も江戸末期国学者。第一回文化勲章受章者(1872〜1963)
<石薬師文庫・左の石柱道標>大正期「距津市元標へ九百四町十七間」。石薬師文庫。昭和7年信綱還暦時に旧石薬師村に寄贈。伊勢国学の版本や写本など書籍。
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<石薬師文庫・左の石柱道標>大正期「距津市元標へ九百四町十七間」。石薬師文庫。昭和7年信綱還暦時に旧石薬師村に寄贈。伊勢国学の版本や写本など書籍。
<小澤本陣跡>小高い台地上にあり松が多かった。別名「松・本陣」明治初期建替。西国大名などの宿帳等残る。赤穂城主・浅野内匠頭の名も。
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<小澤本陣跡>小高い台地上にあり松が多かった。別名「松・本陣」明治初期建替。西国大名などの宿帳等残る。赤穂城主・浅野内匠頭の名も。
<川北元助翁頌徳碑>石薬師の農民。明治後期から大正初年に石薬師村周辺七十の木橋や土橋を石橋に独力で架け替えた。地域貢献大。
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<川北元助翁頌徳碑>石薬師の農民。明治後期から大正初年に石薬師村周辺七十の木橋や土橋を石橋に独力で架け替えた。地域貢献大。
<延喜式内・大木神社>寛永年間1624-1644に現在地に遷座?湯の花神事や獅子舞。スタジイ(椎)巨木群生森。団栗多し。
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<延喜式内・大木神社>寛永年間1624-1644に現在地に遷座?湯の花神事や獅子舞。スタジイ(椎)巨木群生森。団栗多し。
<大木神社絵馬>北町付近に北町古墳・石薬師小学校北300m道路沿。全長20m前方後円墳。後円部一部残る。花崗岩箱式石棺露出。6世紀?
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<大木神社絵馬>北町付近に北町古墳・石薬師小学校北300m道路沿。全長20m前方後円墳。後円部一部残る。花崗岩箱式石棺露出。6世紀?
<北に向かって下っていく東海道・北町>
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<北に向かって下っていく東海道・北町>
<北町地蔵堂・延命地蔵>付近住民十六軒で「地蔵講」結成。供花や掃除。8月24日地蔵会式。
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<北町地蔵堂・延命地蔵>付近住民十六軒で「地蔵講」結成。供花や掃除。8月24日地蔵会式。
<東海道>25号線沿いに少し歩くと浪瀬川。道路を地下歩道で横断して南に出る。「大谷」で旧東海道に。25号線とは平行して南に街道「小谷の道」
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<東海道>25号線沿いに少し歩くと浪瀬川。道路を地下歩道で横断して南に出る。「大谷」で旧東海道に。25号線とは平行して南に街道「小谷の道」
<小谷・国分町>地蔵祠などがあり、25号線と合流。大谷から東海道へ入った付近で三百m南下すると前述の大谷古墳・若宮八幡宮。あとは黙々と25号線沿いに内部方面へ歩く。
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<小谷・国分町>地蔵祠などがあり、25号線と合流。大谷から東海道へ入った付近で三百m南下すると前述の大谷古墳・若宮八幡宮。あとは黙々と25号線沿いに内部方面へ歩く。
25線は北東へ下りて行き、その先に四日市の町並み。右上は杖衝坂への東海道。西から東海道を来た旅人はここで伊勢湾を見て感激しただろう。
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25線は北東へ下りて行き、その先に四日市の町並み。右上は杖衝坂への東海道。西から東海道を来た旅人はここで伊勢湾を見て感激しただろう。
<追分駅>帰りは、あすなろう内部線終着駅「内部駅」から「追分駅」まで小型電車に乗った。間には「小古曽駅」本日はここまで。
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<追分駅>帰りは、あすなろう内部線終着駅「内部駅」から「追分駅」まで小型電車に乗った。間には「小古曽駅」本日はここまで。
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