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ハイキング
関東
「過去レコ」筑波山 2011年6月
2011年06月28日(火) [日帰り]

コースタイム
2011年6月28日 筑波山(百名山)
0630溝の口を出て、半蔵門線、千代田線経由で北千住に行き、
0745北千住 つくばエクスプレスで
0820筑波到着。
0900駅 筑波山行き直通バスで
0936筑波山神社入口に到着。
0945筑波山神社でお参りのあと出発、
1045弁慶茶屋跡
1115女体山神社
1150男体山神社に着きました。
東日本震災の影響で美幸が原コースが閉鎖になっていたので白雲橋コースをのぼり、帰りはつつじが丘におりました。
男体山の周りで1220まで昼食休憩
1300弁慶茶屋跡
1325つつじか丘 と三時間半強の歩きでした。
0630溝の口を出て、半蔵門線、千代田線経由で北千住に行き、
0745北千住 つくばエクスプレスで
0820筑波到着。
0900駅 筑波山行き直通バスで
0936筑波山神社入口に到着。
0945筑波山神社でお参りのあと出発、
1045弁慶茶屋跡
1115女体山神社
1150男体山神社に着きました。
東日本震災の影響で美幸が原コースが閉鎖になっていたので白雲橋コースをのぼり、帰りはつつじが丘におりました。
男体山の周りで1220まで昼食休憩
1300弁慶茶屋跡
1325つつじか丘 と三時間半強の歩きでした。
天候 | 晴れ 時々 曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2011年06月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
北千住→つくば つくばエクスプレス つくば駅→筑波山神社入り口 バス <復路> つつじが丘→つくば駅 つくば→北千住 |
コース状況/ 危険箇所等 |
危険な個所はありません。 |
写真
つくばエクスプレスから降りて駅前広場に向かいましたが、モダンな駅です。 筑波大学に向かう学生さんとかで、バス停もにぎわっています。
筑波山神社入り口にいく直通バスは1時間に1本しかないことは調べてあったのですが、溝の口の出発が15分早くなった分が25分に拡大して、つくばに着きました。
仕方がないので、筑波山の情報でも再確認していました。
東日本震災の影響を懸念して、4月29日までは通行禁止の登山道が多かったようです(ケーブルカーとロープウェイは動いているので営業政策と言ってはしかられそう・・)
楽なのは、つつじヶ丘からのコース、標高差が200mしかありません。
今朝、9時の直通バスに乗っていた大半が筑波山神社入り口で下車しましたが、山ガール3名はつつじヶ丘までバスでいきました。結局、弁慶茶屋あとで一緒になりましたから、かなりゆっくりだったんでしょう。
筑波山神社入り口にいく直通バスは1時間に1本しかないことは調べてあったのですが、溝の口の出発が15分早くなった分が25分に拡大して、つくばに着きました。
仕方がないので、筑波山の情報でも再確認していました。
東日本震災の影響を懸念して、4月29日までは通行禁止の登山道が多かったようです(ケーブルカーとロープウェイは動いているので営業政策と言ってはしかられそう・・)
楽なのは、つつじヶ丘からのコース、標高差が200mしかありません。
今朝、9時の直通バスに乗っていた大半が筑波山神社入り口で下車しましたが、山ガール3名はつつじヶ丘までバスでいきました。結局、弁慶茶屋あとで一緒になりましたから、かなりゆっくりだったんでしょう。
同神社HPからの引用です・・
由緒
筑波山は、関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として仰がれてきました。御山から受ける恵みの数々は、まさに神からの賜物でありました。その山容が二峰相並ぶため、 自然に男女二柱の祖神が祀られました。
その後祖神は「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、 筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています。
第十代崇神天皇の御代(約二千年前)に、筑波山を中心として、 筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、 以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕しました。
第十二代景行天皇の皇太子日本武尊が東征の帰途登山されたことが古記に書かれ、その御歌によって連歌岳
の名が残ります。
奈良時代の『万葉集』には筑波の歌二十五首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかります。延喜の式制(927年)で男神は名神大社、女神は小社に列しました。
中世以降仏教の興隆につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主八田知家の末子 八郎為氏が国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続きました。江戸時代、幕府は江戸の
鬼門を護る神山として神領千五百石を献じました。幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏が分離されて神社のみとなり、 明治6年に県社となりました。
由緒
筑波山は、関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として仰がれてきました。御山から受ける恵みの数々は、まさに神からの賜物でありました。その山容が二峰相並ぶため、 自然に男女二柱の祖神が祀られました。
その後祖神は「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、 筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています。
第十代崇神天皇の御代(約二千年前)に、筑波山を中心として、 筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、 以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕しました。
第十二代景行天皇の皇太子日本武尊が東征の帰途登山されたことが古記に書かれ、その御歌によって連歌岳
の名が残ります。
奈良時代の『万葉集』には筑波の歌二十五首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかります。延喜の式制(927年)で男神は名神大社、女神は小社に列しました。
中世以降仏教の興隆につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主八田知家の末子 八郎為氏が国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続きました。江戸時代、幕府は江戸の
鬼門を護る神山として神領千五百石を献じました。幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏が分離されて神社のみとなり、 明治6年に県社となりました。
筑波山神社(つくばさんじんじゃ)は茨城県つくば市筑波にある神社。 古代より山岳信仰の対象とされてきた筑波山を境内とし、男体山頂に筑波男大神(伊弉諾尊-いざなぎのみこと)を、女体山頂に筑波女大神(伊弉冉尊--いざなみのみこと)を祀る本殿が建てられており、拝殿は筑波山南面の中腹にある。
筑波山はいにしえより、信仰の対象として仰がれてきました。筑波山より受ける恵みは神よりの賜物、筑波山が与えてくれた自然の恵みがどれほど豊かであったことか。筑波山は二峰相並ぶお姿であることから、男女二柱の祖神(おやがみ)が祀られました。その祖神は、日本神話に登場する「いざなぎの神、いざなみの神」であります。この二神が結婚し神々を生み国生みをされたことから、筑波山は、縁結び・夫婦和合、子授けにご利益があると篤く信仰されてきました。
筑波山神社の御祭神は、筑波男ノ神(おのかみ) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
男体山871メートルに祀る筑波女ノ神(めのかみ) 伊弉冊尊(いざなみのみこと)
女体山877メートルに祀るの二神です。
男体山871メートルに祀る筑波女ノ神(めのかみ) 伊弉冊尊(いざなみのみこと)
女体山877メートルに祀るの二神です。
ほんとに花崗岩の岩道が多くてびっくりしました・・
筑波山の生い立ちとその姿
筑波山は一億年以上も古い時代に、海底に積もった地層に班れい岩、花崗岩のマグマがあいついで貫入し、その後の地殻変動によって持ち上げられ、山塊となってから風雨による侵食や風化によって堆積物が削りとられたものです。
従って硬い班れい岩を頂上部に、花崗岩を基部にした現在の形となりましたが、それでもまだ微妙な変化を続けています。 この山を覆う数多い植物は、寒冷期に北から下がってきた冷温帯の植物であるブナ林を山頂部に冠のように残し、山麓部分には暖温帯の常緑広葉樹林が広がるという、きわめて多彩な姿となっています。しかし、地球の温暖化が進めばブナ林が生存できなくなるかも知れません。筑波山は北は足尾、加波の山波に、東と南は筑波連峰の起伏につながり、西は肥沃な平野が広がります。この西麓も古代には豊の海という古霞ヶ浦に続く入海があって縄文海進とされ、その名残りを貝塚や地名に見ることができます。
筑波山の生い立ちとその姿
筑波山は一億年以上も古い時代に、海底に積もった地層に班れい岩、花崗岩のマグマがあいついで貫入し、その後の地殻変動によって持ち上げられ、山塊となってから風雨による侵食や風化によって堆積物が削りとられたものです。
従って硬い班れい岩を頂上部に、花崗岩を基部にした現在の形となりましたが、それでもまだ微妙な変化を続けています。 この山を覆う数多い植物は、寒冷期に北から下がってきた冷温帯の植物であるブナ林を山頂部に冠のように残し、山麓部分には暖温帯の常緑広葉樹林が広がるという、きわめて多彩な姿となっています。しかし、地球の温暖化が進めばブナ林が生存できなくなるかも知れません。筑波山は北は足尾、加波の山波に、東と南は筑波連峰の起伏につながり、西は肥沃な平野が広がります。この西麓も古代には豊の海という古霞ヶ浦に続く入海があって縄文海進とされ、その名残りを貝塚や地名に見ることができます。
ということで、筑波山神社でお参りを済ませてたあと(お賽銭は100円と大判振る舞い)
登り始めました。10分ほど歩くと、つつじヶ丘に抜ける道が右側にでてきますが、直進。
ここで、白い蛇を見ると財をなすという白蛇弁天(私は、残念ながらみつけられませんでした・・)を経由して、弁慶茶屋跡まで、鬱蒼とした森を登りました。
登り始めました。10分ほど歩くと、つつじヶ丘に抜ける道が右側にでてきますが、直進。
ここで、白い蛇を見ると財をなすという白蛇弁天(私は、残念ながらみつけられませんでした・・)を経由して、弁慶茶屋跡まで、鬱蒼とした森を登りました。
ここでも、つつじヶ丘からの道と合流します。つくば駅から筑波山へのバスは筑波山神社入り口を経て、ロープウェイ駅のある「つつじヶ丘」まで行きます。こちらは標高が520mくらいと高いので、女体山まで200mくらいの標高差しかなく、且つ、距離も短いことから こちらの登山コースを選ぶしとも多いようです。
弁慶茶屋跡からは、奇岩が並び、急坂もあります。
弁慶茶屋跡からは、奇岩が並び、急坂もあります。
つつじヶ丘には、ガマ大明神がありました!!
ガマの油(ガマのあぶら)とは、江戸時代に傷薬として売られていたとされる軟膏剤。このガマとは、元はガマガエル(ヒキガエルの別名)である。その口上が正しければ「鏡の前におくとタラリタラリと油を流す」ことから耳後腺および皮膚腺からの分泌物の「蟾酥」(センソ)である。これらを油脂性基剤(蝋や油)に混ぜた軟膏と考えられる。なお、筑波地方は湿地が多く植物のガマ(ホオウの材料)も、カエルのガマ(センソの材料)も多い(両方とも医薬品であり、現在では販売には薬剤師か登録販売員の資格が必要)。
ガマの油(ガマのあぶら)とは、江戸時代に傷薬として売られていたとされる軟膏剤。このガマとは、元はガマガエル(ヒキガエルの別名)である。その口上が正しければ「鏡の前におくとタラリタラリと油を流す」ことから耳後腺および皮膚腺からの分泌物の「蟾酥」(センソ)である。これらを油脂性基剤(蝋や油)に混ぜた軟膏と考えられる。なお、筑波地方は湿地が多く植物のガマ(ホオウの材料)も、カエルのガマ(センソの材料)も多い(両方とも医薬品であり、現在では販売には薬剤師か登録販売員の資格が必要)。
筑波山ガマ口上保存会によれば、「筑波山名物・ガマの油売り」口上は、200余年前、常陸国筑波郡筑波山麓出身の永井兵助が、故郷の薬「ガマの油」で一旗揚げようと売り口上を考案し、江戸・浅草の縁日の大道で披露したのが始まりとされる。ガマの油として売られていたもの自体は、いかなる薬かは不明であるが、蝋などを基剤にしニホンヒキガエルやムカデなどを煮詰めてつくられたという説、馬の脂肪から抽出した油(馬油)とする説もあるが、偽薬も含めて真相は不明である。
正調・筑波山ガマの油売り
「さあ、さあ、お立ち会い・・・」
ガマとはヒキガエルのことで、茨城県つくば市の筑波山は口上「ガマの油売り」として有名である。毎年8月第1日曜日には筑波山神社境内を中心に「ガマ祭り」が開催される。ガマの供養と商売繁盛を祈願し、大ガマを乗せたガマ御輿や名物ガマの油売り口上が繰り広げられる。
「ガマの油」とは、ヒキガルの分泌物にヤシ油などの成分を加えたものと云われ、切り傷・ひび・あかぎれに効くと言われるようになったのは関ヶ原の戦いの頃とされる。大阪夏の陣・冬の陣で家康方に従軍した筑波山神社の住職が、戦中の救急薬としてガマの油を使用し、傷口によく効いたことから一躍有名になり、筑波山名物「「陣中膏ガマの油」と云う名が世に知れ渡ったと云われる。
「筑波山名物・ガマの油売り」口上は、200余年前、常陸国筑波郡筑波山麓出身の永井兵助が、故郷の薬「ガマの油」で一旗揚げようと売り口上を考案し、江戸・浅草の縁日の大道で披露したのが始まりとされる。後に大道芸としてガマの油は口上と共に広く知られるようになった。
『さあて、お立会い!ご用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで!遠出山越えは傘のうち、聞かざる時には・・・・ガンマ先生、ビックリ仰天致しまして御体から油汗をばタラ〜リ・タラ〜リと流しまする。その油汗をば・・・』と、名調子に乗って、昔懐かしい筑波山名物は「ガマの油売り」口上の大道芸でござりまする・・・
「さあ、さあ、お立ち会い・・・」
ガマとはヒキガエルのことで、茨城県つくば市の筑波山は口上「ガマの油売り」として有名である。毎年8月第1日曜日には筑波山神社境内を中心に「ガマ祭り」が開催される。ガマの供養と商売繁盛を祈願し、大ガマを乗せたガマ御輿や名物ガマの油売り口上が繰り広げられる。
「ガマの油」とは、ヒキガルの分泌物にヤシ油などの成分を加えたものと云われ、切り傷・ひび・あかぎれに効くと言われるようになったのは関ヶ原の戦いの頃とされる。大阪夏の陣・冬の陣で家康方に従軍した筑波山神社の住職が、戦中の救急薬としてガマの油を使用し、傷口によく効いたことから一躍有名になり、筑波山名物「「陣中膏ガマの油」と云う名が世に知れ渡ったと云われる。
「筑波山名物・ガマの油売り」口上は、200余年前、常陸国筑波郡筑波山麓出身の永井兵助が、故郷の薬「ガマの油」で一旗揚げようと売り口上を考案し、江戸・浅草の縁日の大道で披露したのが始まりとされる。後に大道芸としてガマの油は口上と共に広く知られるようになった。
『さあて、お立会い!ご用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで!遠出山越えは傘のうち、聞かざる時には・・・・ガンマ先生、ビックリ仰天致しまして御体から油汗をばタラ〜リ・タラ〜リと流しまする。その油汗をば・・・』と、名調子に乗って、昔懐かしい筑波山名物は「ガマの油売り」口上の大道芸でござりまする・・・
感想
当時のBLOG投稿記事です。
アプローチしやすいところから、毎週攻めていたんですね(^_-)-☆
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こんにちは!今日は梅雨の谷間の山歩きで、茨城の筑波山に登ってきました。 朝0630に溝の口を出て、半蔵門線、千代田線経由で北千住に行き、 0745のつくばエクスプレスで 0820に筑波に到着しました。 0900の筑波山行き直通バスで 0936筑波山神社入口に到着。
0945に筑波山神社でお参りのあと出発、 1045に弁慶茶屋あと 1115に女体山神社 1150に男体山神社に着きました。
東日本震災の影響で美幸が原コースが閉鎖になっていたので白雲橋コースをのぼり、帰りはつつじが丘におりました。
男体山の周りで1220まで昼食休憩 1300弁慶茶屋あと 1325つつじか丘 と三時間半強の歩きでした。
ケーブルカーもロープウェイもある身近な山で人気があるのでしょう。
山ガール、 山中高年(?)が平日にもかかわらず沢山来ていました。
標高は九百メーターに満たない山ですが遠くからみると形もよく、歴史のある神社なので百名山に選ばれたのだと思います。
山の上は涼しい風が吹いていて、女体山では沢山の盆トンボの群れが迎えてくれました。
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