左門殿川に架かる辰巳橋の兵庫県側(西詰)。ここは梅田街道との合流場所ですが対岸に渡るには巨大な国道43号線がある影響で渡りづらくなっています。ここは右にある階段を上らず突き当りの地下道で右に進みます。
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左門殿川に架かる辰巳橋の兵庫県側(西詰)。ここは梅田街道との合流場所ですが対岸に渡るには巨大な国道43号線がある影響で渡りづらくなっています。ここは右にある階段を上らず突き当りの地下道で右に進みます。
辰巳橋は尼崎城下の入口といえる場所で橋が架かる前は辰巳の渡しがありました。左門殿川の川幅は明治期と比べ随分と変わったようで、古い地図によると現在の橋の中ほどぐらいまでの幅しかないように思います。橋を渡って右へ。
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辰巳橋は尼崎城下の入口といえる場所で橋が架かる前は辰巳の渡しがありました。左門殿川の川幅は明治期と比べ随分と変わったようで、古い地図によると現在の橋の中ほどぐらいまでの幅しかないように思います。橋を渡って右へ。
対岸は佃島です。佃煮は元々はここの漁師の船内食で、徳川家康が江戸に漁師を住まわせたことで有名になっていきます。
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対岸は佃島です。佃煮は元々はここの漁師の船内食で、徳川家康が江戸に漁師を住まわせたことで有名になっていきます。
堤防上の道を進みます。この付近の道は元々の道ではなく右手の左門殿川の中間部あたりを進んでいたので迂回路となります。
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堤防上の道を進みます。この付近の道は元々の道ではなく右手の左門殿川の中間部あたりを進んでいたので迂回路となります。
左へ。元々の道筋と合流します。
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6/6 5:40
左へ。元々の道筋と合流します。
工場の間を抜けていきます。
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工場の間を抜けていきます。
かつてはこの辺りに中島橋がありました。国道43号線の中島大橋で迂回します。
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かつてはこの辺りに中島橋がありました。国道43号線の中島大橋で迂回します。
中島川。神崎川最下流部の分流です。対岸は中島です。淀川河口部には島が付く地名が多く由来も島だったことからが多いですが、中島に関しては新田開発者の中島市兵衛から付けられたもので人名を由来としています。
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中島川。神崎川最下流部の分流です。対岸は中島です。淀川河口部には島が付く地名が多く由来も島だったことからが多いですが、中島に関しては新田開発者の中島市兵衛から付けられたもので人名を由来としています。
対岸に渡って川沿いに進むと五社神社があります。街道は神社の敷地に沿って進む形になっていたようです。今は亡き中島橋は右手の電信柱手前から2本目辺りの位置にあったと思われます。
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対岸に渡って川沿いに進むと五社神社があります。街道は神社の敷地に沿って進む形になっていたようです。今は亡き中島橋は右手の電信柱手前から2本目辺りの位置にあったと思われます。
五社神社の本殿及び拝殿は文化5年に再建されたもの。創建は元禄年間に遡ります。
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6/6 5:55
五社神社の本殿及び拝殿は文化5年に再建されたもの。創建は元禄年間に遡ります。
五社神社の敷地に沿った道を進み再び川沿いへ。鳥居には文化10年の銘があります。昔の地図で確認するとこの鳥居が入口だったようですね。
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五社神社の敷地に沿った道を進み再び川沿いへ。鳥居には文化10年の銘があります。昔の地図で確認するとこの鳥居が入口だったようですね。
この歩道橋で神崎川を渡ります。昔の橋とほぼ同じ位置に簡易的なものであっても橋があるのは嬉しいものです。
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この歩道橋で神崎川を渡ります。昔の橋とほぼ同じ位置に簡易的なものであっても橋があるのは嬉しいものです。
神崎川は淀川水系の一つ。
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神崎川は淀川水系の一つ。
西島に入り堤防沿いに進みます。
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西島に入り堤防沿いに進みます。
立派な出来島水門。西島川の堰き止め用の水門になっています。大阪ベイエリアにはいろんな目的の水門が多いですね。高潮対策の立派なアーチ型のものもありますし。
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立派な出来島水門。西島川の堰き止め用の水門になっています。大阪ベイエリアにはいろんな目的の水門が多いですね。高潮対策の立派なアーチ型のものもありますし。
西島川に沿って進みます。右手に工場があり大型トラックが昼夜を問わず出入りしているようなので出来る限り歩道を歩きましょう。
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6/6 6:11
西島川に沿って進みます。右手に工場があり大型トラックが昼夜を問わず出入りしているようなので出来る限り歩道を歩きましょう。
西島住吉神社。今は工業地帯の中にポツンとあるので違和感がありますが元々はこの辺りには集落があり田んぼがあったという証拠でもあります。元禄11年の創建です。
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6/6 6:12
西島住吉神社。今は工業地帯の中にポツンとあるので違和感がありますが元々はこの辺りには集落があり田んぼがあったという証拠でもあります。元禄11年の創建です。
古い狛犬や鳥居が置かれてあります。阪神大震災で倒壊し復旧した時にまとめられたものです。
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6/6 6:13
古い狛犬や鳥居が置かれてあります。阪神大震災で倒壊し復旧した時にまとめられたものです。
左手の両島橋で西島川を渡ります。百島地区です。
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左手の両島橋で西島川を渡ります。百島地区です。
西島水門の先には新淀川が流れています。
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西島水門の先には新淀川が流れています。
ここを右へ。
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ここを右へ。
福の船溜まり。この付近に大野川が流れこんでいたのですが後に埋め立てられ川の跡の大部分は遊歩道になっています。
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福の船溜まり。この付近に大野川が流れこんでいたのですが後に埋め立てられ川の跡の大部分は遊歩道になっています。
対岸に伝法水門が見えます。明治の新淀川開削により北西島、南酉島、北酉島といった地域が川底に沈みます。開削時の新淀川の川幅はそれほど広いものではなかったですが伝法とを結ぶ渡し(大潟渡)が設けられていました。
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対岸に伝法水門が見えます。明治の新淀川開削により北西島、南酉島、北酉島といった地域が川底に沈みます。開削時の新淀川の川幅はそれほど広いものではなかったですが伝法とを結ぶ渡し(大潟渡)が設けられていました。
国道43号線の伝法大橋で対岸に渡ります。
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国道43号線の伝法大橋で対岸に渡ります。
高さ1m頭上注意!自転車での通行も結構あるようです。
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高さ1m頭上注意!自転車での通行も結構あるようです。
伝法大橋は第二阪神国道の建設に伴い1942年に架けられたものです。右手は新伝法大橋。こちらは自動車専用道路。
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伝法大橋は第二阪神国道の建設に伴い1942年に架けられたものです。右手は新伝法大橋。こちらは自動車専用道路。
中ほどにアーチがありますが歴史を感じますね。
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6/6 6:53
中ほどにアーチがありますが歴史を感じますね。
伝法水門。
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伝法水門。
伝法水門に流れ込む伝法川は高潮対策として昭和26年から埋め立てが始まって現在はこの付近のみ漁港として残っています。水門は当初は伝法閘門としての設置でしたが周辺の工業化で地盤沈下が激しくなり閘門としての機能が失われています。
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6/6 7:10
伝法水門に流れ込む伝法川は高潮対策として昭和26年から埋め立てが始まって現在はこの付近のみ漁港として残っています。水門は当初は伝法閘門としての設置でしたが周辺の工業化で地盤沈下が激しくなり閘門としての機能が失われています。
旧道は水門脇の階段を下りた場所から復活します。
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6/6 7:19
旧道は水門脇の階段を下りた場所から復活します。
なかなか風情ある道筋です。
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6/6 7:19
なかなか風情ある道筋です。
西念寺。区の史跡案内によると「大化元年(645年)天竺南山道宥律師の教伝により、法道仙人が仏法伝導道場を建立されたのがはじまりという。中世には摂津伝法の船寺として信仰を集め、広大な寺領を持ち、摂・河・泉・三国の四大本山の一つとして栄えたという」このような場所に古寺があったとは驚きました。
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6/6 7:23
西念寺。区の史跡案内によると「大化元年(645年)天竺南山道宥律師の教伝により、法道仙人が仏法伝導道場を建立されたのがはじまりという。中世には摂津伝法の船寺として信仰を集め、広大な寺領を持ち、摂・河・泉・三国の四大本山の一つとして栄えたという」このような場所に古寺があったとは驚きました。
門前には道標があります。建立は定かではありませんが見た感じ幕末から明治にかけてのものでしょうか。横には尼崎本街道の文字が刻まれています。
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6/6 7:23
門前には道標があります。建立は定かではありませんが見た感じ幕末から明治にかけてのものでしょうか。横には尼崎本街道の文字が刻まれています。
門前を右折すると昔は伝法川が流れていて備前橋が架けられていました。備前橋は名前のとおり岡山藩が文久3年に架けたもの。文久3年は岡山藩が大坂表警備になった頃でこの先にある森巣橋も同年であることから岡山藩がこの地に深い関わりがあったことは確かなようです。街道は突き当りの信号を左に曲がりバス道に入ります。
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門前を右折すると昔は伝法川が流れていて備前橋が架けられていました。備前橋は名前のとおり岡山藩が文久3年に架けたもの。文久3年は岡山藩が大坂表警備になった頃でこの先にある森巣橋も同年であることから岡山藩がこの地に深い関わりがあったことは確かなようです。街道は突き当りの信号を左に曲がりバス道に入ります。
振り返って望遠レンズで見ると道に若干の盛り上がりが見てとれます。
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振り返って望遠レンズで見ると道に若干の盛り上がりが見てとれます。
バス道を東へ。この先は右斜め方向にある旧道に入っていきます。右横の巨大団地には昔は伊勢紡績という工場がありました。『本邦綿糸紡績史. 第5巻』には後に破産とありましたが詳細はわかりません。
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バス道を東へ。この先は右斜め方向にある旧道に入っていきます。右横の巨大団地には昔は伊勢紡績という工場がありました。『本邦綿糸紡績史. 第5巻』には後に破産とありましたが詳細はわかりません。
国道43号線とぶつかります。右の迂回路を使って向こう側へ。
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国道43号線とぶつかります。右の迂回路を使って向こう側へ。
下町のような情緒が残っています。
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下町のような情緒が残っています。
突き当りに「鴉宮」。伝法川と正連寺川に挟まれた中州の先端の場所です。今は双方の川とも埋め立てられ住宅地の中の神社といった風情になっています。創建は古く鎌倉時代です。
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突き当りに「鴉宮」。伝法川と正連寺川に挟まれた中州の先端の場所です。今は双方の川とも埋め立てられ住宅地の中の神社といった風情になっています。創建は古く鎌倉時代です。
当時の伝法川は大阪中心部から瀬戸内に出る航路として賑わっていて文禄元年に豊臣秀吉が通った祈、祈願すると三足のカラスが現れ感激し願い事もうまくいったので鴉宮と改名したという話です。ちなみに元の名は傳母頭(もりす)神社。
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当時の伝法川は大阪中心部から瀬戸内に出る航路として賑わっていて文禄元年に豊臣秀吉が通った祈、祈願すると三足のカラスが現れ感激し願い事もうまくいったので鴉宮と改名したという話です。ちなみに元の名は傳母頭(もりす)神社。
鳥居前の信号の先に正連寺川が流れていました。そこに架かる橋が森巣橋です。
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6/6 7:38
鳥居前の信号の先に正連寺川が流れていました。そこに架かる橋が森巣橋です。
すっかり正連寺川は埋め立てられています。今はこの下に高速道路が通っています。
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6/6 7:40
すっかり正連寺川は埋め立てられています。今はこの下に高速道路が通っています。
味がありますね。橋の名は「傳母頭」の名を後世に残すためにつけられたものです。
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6/6 7:41
味がありますね。橋の名は「傳母頭」の名を後世に残すためにつけられたものです。
橋を渡ると商店街には入らず斜め左方向の道を進みます。この付近は四貫島と呼ばれる地区です。
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橋を渡ると商店街には入らず斜め左方向の道を進みます。この付近は四貫島と呼ばれる地区です。
阪神なんば線の高架の下をくぐると千鳥橋駅前。かつての道は古い地図で確認すると高架をくぐらずに高架下に沿って進んでいたようです。
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阪神なんば線の高架の下をくぐると千鳥橋駅前。かつての道は古い地図で確認すると高架をくぐらずに高架下に沿って進んでいたようです。
千鳥橋交差点。線路沿いを進みます。
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6/6 7:48
千鳥橋交差点。線路沿いを進みます。
線路脇の旧道。右手にバス道が通っています。
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6/6 7:52
線路脇の旧道。右手にバス道が通っています。
六軒家川の川のほとりにあったのが初代の大坂船奉行所。安治川が開削されるまではこの付近の流れが外海へのメインルートだったので目を光らせるにはちょうど良い場所だったと思われます。
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6/6 7:55
六軒家川の川のほとりにあったのが初代の大坂船奉行所。安治川が開削されるまではこの付近の流れが外海へのメインルートだったので目を光らせるにはちょうど良い場所だったと思われます。
朝日橋を渡って左へ。逆川跡に沿って進みます。
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朝日橋を渡って左へ。逆川跡に沿って進みます。
ちょうど奥にある窪みが逆川の入り口の跡。
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6/6 7:56
ちょうど奥にある窪みが逆川の入り口の跡。
逆川はこの道の左に平行に流れてました。もっとも安治川が開削されるまでは川幅は随分と広く旧淀川の本流といえる流れで舟の通行も多かったといいます。
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逆川はこの道の左に平行に流れてました。もっとも安治川が開削されるまでは川幅は随分と広く旧淀川の本流といえる流れで舟の通行も多かったといいます。
大阪環状線にぶつかります。右に進んで迂回して向こう側へ。
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大阪環状線にぶつかります。右に進んで迂回して向こう側へ。
ビルの両側に道がありますがビルの場所が川筋にあたります。街道は右の道を進みます。
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ビルの両側に道がありますがビルの場所が川筋にあたります。街道は右の道を進みます。
この付近は西九条地区で元は九条島の九条でしたが安治川開削で分断となり西側を西九条と名乗るようになります。
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この付近は西九条地区で元は九条島の九条でしたが安治川開削で分断となり西側を西九条と名乗るようになります。
西九条神社。創建は貞享年間ですから江戸初期ですね。
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西九条神社。創建は貞享年間ですから江戸初期ですね。
旧堤防の痕跡がいくつも見られます。
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旧堤防の痕跡がいくつも見られます。
この先で左へ。突き当りが安治川です。
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この先で左へ。突き当りが安治川です。
次の信号で右に曲がります。古い地図によると入り江のようになっているので本来の道は少し左手を進んでいたようです。
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次の信号で右に曲がります。古い地図によると入り江のようになっているので本来の道は少し左手を進んでいたようです。
中央市場関係の車が増えてきます。
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中央市場関係の車が増えてきます。
活気ある中央市場。早朝出発だったのでこの時間は関係者が多かったです。
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活気ある中央市場。早朝出発だったのでこの時間は関係者が多かったです。
安治川の流れ。今は舟やはしけが数隻しかいない情景ですがかつては数珠繋ぎのようにあったと話に聞きます。安治川は天保山の辺りで急に川幅が広がりますが戦後すぐの時期に内港整備によって広げられたものです。
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安治川の流れ。今は舟やはしけが数隻しかいない情景ですがかつては数珠繋ぎのようにあったと話に聞きます。安治川は天保山の辺りで急に川幅が広がりますが戦後すぐの時期に内港整備によって広げられたものです。
川口が見えてきました。明治初期に外国人居留地が設けられていました。
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川口が見えてきました。明治初期に外国人居留地が設けられていました。
ちょうどこの辺りに安治川橋という旋回橋が架けられていたのですが水害の影響で爆破されてしまいます。橋がなくなった後は富島渡しが近年までありました。
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ちょうどこの辺りに安治川橋という旋回橋が架けられていたのですが水害の影響で爆破されてしまいます。橋がなくなった後は富島渡しが近年までありました。
川口をゴールとしたので向こう側まで迂回します。写真は中ノ島の西の端です。昔は中に入れて涼むには絶好の場所だったことでしょう。
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6/6 8:37
川口をゴールとしたので向こう側まで迂回します。写真は中ノ島の西の端です。昔は中に入れて涼むには絶好の場所だったことでしょう。
安治川橋への取り付け道。このスロープは昔のままな気がします。
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6/6 8:43
安治川橋への取り付け道。このスロープは昔のままな気がします。
川口交差点でゴールとしました。川口周辺は面白い場所なので別の機会にブログに書いてみようと思います。
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6/6 8:46
川口交差点でゴールとしました。川口周辺は面白い場所なので別の機会にブログに書いてみようと思います。
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