猛烈な筋肉痛の中で歩く米沢市街 人がたくさん出てきたぞ
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- GPS
- 02:17
- 距離
- 5.6km
- 登り
- 13m
- 下り
- 2m
コースタイム
- 山行
- 2:42
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 2:42
過去天気図(気象庁) | 2020年07月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
タクシー 自家用車
西米沢駅から米沢駅まではタクシー 1500円ほどだった。 |
その他周辺情報 | すき屋米沢店 牛骨ラーメン松月 浜田広介記念館 |
写真
味はサッパリしていてよかった。コショウをかけすぎるとスープの旨さが隠れてしまうラーメンでした。
感想
前日の記録
(https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2452100.html)
「遥かなる大朝日岳 高山植物と疲労と充実感 いい日だった。」
の翌日である。
全身の筋肉痛、ちょっと体をよじれば横っ腹の筋肉が痙攣する。200m歩いて座り込み太ももの筋肉のマッサージ、相撲の蹲踞の姿勢をとり体全体の力を両ひざにかけてみる、そして腰を伸ばす。そんなことを繰り返しながら米沢の街を歩いた。大朝日山に登る前日、山形の街を歩きながら山形藩の歴史を語るのであれば、米沢藩上杉家の歴史を知らなければならないと思ったからである。
たしかに、これまでに米沢を訪れたことはあった。ただ、今回のようなものを見たくて訪れたのではなくて、米沢ラーメンを食べに寄ったり、北海道方面に帰省するときに、乗る車両を間違えて米沢で福島まで戻ったり(この時は「牛肉どまん中」という駅弁を食べた。)
米沢に来てからの上杉、そもそも、米沢に来る理由になったのは、関ヶ原の戦いのと時に石田三成側につき、徳川にはつかず自分の版図拡大を目指すため山形の最上氏を攻めたせいだ。しかし、これにも失敗し越後・会津の領土を奪われ、米沢に新たな土地を与えられたのである。しかし石高も相当奪われることとなった。
米沢の町を次第に住みやすい土地に変えたのが、2代目景勝と家臣直江兼続である。米沢の街づくりを通して人を育て、国力を高める。その基礎を作った人。この街づくりのせいで、米沢藩は上杉家のまま戊辰戦争までたどりつくことができたといえよう。
そして、江戸時代後期の指導者上杉鷹山、藩校を作り人を育てるとともに財政を改革し、藩としての借金返済に努めた名君とされている。
そんな米沢の歴史を博物館で見て、藩主のお墓が固まっている場所で感じ、レコを作りながら再度調べる。今回のレコはその再度調べるのに時間を費やしてしまった。
西米沢駅からは、米坂線で2駅なのであるが、1日は数本しか来ない。私がたどり着いたときには次の電車は2時間以上先であった。レコを作りながら待つこともできたが、米沢ラーメンを食べたいのと、その次の行きたいところにたどり着きたく、タクシーを使用することとした。電話をかけると10分程度で西米沢駅にタクシーはやってきた。車内では、駅近くで米沢ラーメンが食べられる店ということで運転手さんと話をする。
運転手さんが離された店は、そう、私がすでに外観を撮影していた店でした。
牛骨で出汁をとり、薄い醤油で味を調えたスープは、滋味深く五臓六腑にしみこむ感じ。「ああ、俺今体にいいことしている」と思えるようなスープだ。それに合わせる平打ち麺、あっさりとしてて若干スープを吸っていて、食べると幸せが腹に入ってくるという感じ。いけません、美味しいラーメンですねぁ。
その後は、車で「浜田広介記念館」に行く。ひろすけ童話、イソップ童話やアンデルセン、グリム童話などの翻訳、そして何といっても「泣いた赤鬼」は名作であると思う。そんな、浜田広介さんの博物館に出没したのでした。
本当にディテールが「泣いた赤鬼」で、看板や建物、食べ物までも「泣いた赤鬼」であった。ぜひ、「泣いた赤鬼」を読んでからここに出向いてほしいと思った。「泣いた赤鬼」を知らなければ、ここの記念館の小さなネタを理解することはできないだろうな。
その後、山形を離れ、栃木県のSAで車中泊、日曜日の午後には茅ヶ崎の温泉に入り帰宅した。大朝日岳の筋肉痛は7月30日もまだ続いている。
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