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記録ID: 2645989
全員に公開
ハイキング
東海

2つの日本武尊墳墓と壬申の乱と東海道・庄野宿周辺

2020年10月14日(水) [日帰り]
 - 拍手
GPS
04:09
距離
21.2km
登り
55m
下り
64m

コースタイム

日帰り
山行
5:30
休憩
0:00
合計
5:30
8:00
20
加佐登神社南P
8:20
0:00
30
白鳥塚古墳
8:50
0:00
40
石薬師一里塚
9:30
0:00
20
庄野宿東・江戸方
9:50
0:00
15
10:05
0:00
35
庄野宿西・京方
10:40
0:00
20
中富田一里塚
11:00
0:00
25
和泉橋・井田川小学校
11:25
0:00
15
JR井田川駅
11:40
0:00
45
みどり町古墳公園
12:25
0:00
25
能褒野王塚古墳
12:50
0:00
40
伊勢国府政庁跡
13:30
加佐登神社南P
天候 快晴
過去天気図(気象庁) 2020年10月の天気図
アクセス
利用交通機関:
自家用車
加佐登神社南P
鈴鹿市・加佐登(かさど)神社南前の白鳥橋と白鳥塚古墳>神社前Pに駐車。今回は日本武尊墳墓と伊勢国府そして東海道(石薬師〜庄野〜井田川)の周回ハイク。
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鈴鹿市・加佐登(かさど)神社南前の白鳥橋と白鳥塚古墳>神社前Pに駐車。今回は日本武尊墳墓と伊勢国府そして東海道(石薬師〜庄野〜井田川)の周回ハイク。
<加佐登神社南山麓>中世(平安末期〜鎌倉・室町)墓地遺跡。蔵骨器に転用した古瀬戸や常滑の壺・甕陶器多数発掘。資料館保存。神社へ長い階段と石灯籠。
<加佐登神社南山麓>中世(平安末期〜鎌倉・室町)墓地遺跡。蔵骨器に転用した古瀬戸や常滑の壺・甕陶器多数発掘。資料館保存。神社へ長い階段と石灯籠。
鈴鹿山脈南部・野登山(ののぼり)山麓は古代では能褒野(のぼの)と呼ばれた。「登る・上る」が語源?。伊吹山での戦いで病に倒れた日本武尊が没後、白鳥となり空に飛び上がり都へ向かう白鳥伝説に関連?
鈴鹿山脈南部・野登山(ののぼり)山麓は古代では能褒野(のぼの)と呼ばれた。「登る・上る」が語源?。伊吹山での戦いで病に倒れた日本武尊が没後、白鳥となり空に飛び上がり都へ向かう白鳥伝説に関連?
<加佐登神社>武尊没後、父・景行天皇が東国旅でここに半年滞在して高宮の里。「加佐登」の名は江戸末期国学者・平田篤胤の「御笠殿社(1829)」から。武尊の「笠・杖」が形見ご神体。熊野権現や高宮明神などと合祀。
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<加佐登神社>武尊没後、父・景行天皇が東国旅でここに半年滞在して高宮の里。「加佐登」の名は江戸末期国学者・平田篤胤の「御笠殿社(1829)」から。武尊の「笠・杖」が形見ご神体。熊野権現や高宮明神などと合祀。
ここを武尊墳墓に比定する説は幕末の平田や本居宣長の影響?。明治9年(1876年)教部省が「白鳥塚」を武尊陵墓と治定。だが、3年後の明治12年(1879年)宮内省は亀山の「丁子塚」を武尊陵墓と変更治定。
ここを武尊墳墓に比定する説は幕末の平田や本居宣長の影響?。明治9年(1876年)教部省が「白鳥塚」を武尊陵墓と治定。だが、3年後の明治12年(1879年)宮内省は亀山の「丁子塚」を武尊陵墓と変更治定。
<写真は加佐登神社本殿>この2つ以外にも、鈴鹿市長沢の長瀬神社「武備塚」(亀山藩や建部綾足関連)や「双子塚」、また鈴鹿川右岸・国府町の「王塚」なども陵墓ではないかと言われてきた。
<写真は加佐登神社本殿>この2つ以外にも、鈴鹿市長沢の長瀬神社「武備塚」(亀山藩や建部綾足関連)や「双子塚」、また鈴鹿川右岸・国府町の「王塚」なども陵墓ではないかと言われてきた。
加佐登神社本殿から左周りでも右周りでも白鳥塚へ歩いて行ける。本殿横説明板の歴史的な意味合いについて記述を読む。江戸期にはこの丘に倭文神社や廃寺などもあったらしい。
加佐登神社本殿から左周りでも右周りでも白鳥塚へ歩いて行ける。本殿横説明板の歴史的な意味合いについて記述を読む。江戸期にはこの丘に倭文神社や廃寺などもあったらしい。
<白鳥塚古墳前>右上が古墳になる。白鳥塚の名は日本武尊の白鳥伝説によるが、古墳はその他にも「ヒヨドリ塚」「茶臼山」「丸山」などと呼ばれていて、円筒埴輪が出土していた。
<白鳥塚古墳前>右上が古墳になる。白鳥塚の名は日本武尊の白鳥伝説によるが、古墳はその他にも「ヒヨドリ塚」「茶臼山」「丸山」などと呼ばれていて、円筒埴輪が出土していた。
<古墳前白鳥塚古墳説明板>県最大の円墳とされたが、平成16年からの発掘調査で帆立貝式前方後円墳と判明。円丘に小さな方形張り出し。大和政権の造墓規制により、前方後円墳築造が許可されなかった古墳である可能性も?
<古墳前白鳥塚古墳説明板>県最大の円墳とされたが、平成16年からの発掘調査で帆立貝式前方後円墳と判明。円丘に小さな方形張り出し。大和政権の造墓規制により、前方後円墳築造が許可されなかった古墳である可能性も?
墳丘長78m、円丘部径67m、高さ9m。円丘部は基壇上2段築成。葺石・埴輪有。5世紀前半築造か?鈴鹿川流域に大勢力を持った首長の墳墓?石室出土未確認。周辺は中世以降戦乱などで随分荒らされてきたらしい。
墳丘長78m、円丘部径67m、高さ9m。円丘部は基壇上2段築成。葺石・埴輪有。5世紀前半築造か?鈴鹿川流域に大勢力を持った首長の墳墓?石室出土未確認。周辺は中世以降戦乱などで随分荒らされてきたらしい。
<白鳥塚古墳正面>明治初年の宮内省と教部省と治定違いの原因は?大きさ・形などに関係か?亀山の能褒野王塚古墳(丁子塚)の特色は、鈴鹿川流域で最初で最大の前方後円墳(墳丘長90m)で、東隣に名越古墳(前方後円墳、墳丘長60m)をもつ。
<白鳥塚古墳正面>明治初年の宮内省と教部省と治定違いの原因は?大きさ・形などに関係か?亀山の能褒野王塚古墳(丁子塚)の特色は、鈴鹿川流域で最初で最大の前方後円墳(墳丘長90m)で、東隣に名越古墳(前方後円墳、墳丘長60m)をもつ。
また、周濠がある古型式墳丘形式で4世紀末築造と推定されること。これらが維新後の天皇中心国家建設中の天皇系譜伝説・歴史にふさわしかったのか?<写真は白鳥塚古墳北より鈴鹿山脈。一番左が野登山>
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また、周濠がある古型式墳丘形式で4世紀末築造と推定されること。これらが維新後の天皇中心国家建設中の天皇系譜伝説・歴史にふさわしかったのか?<写真は白鳥塚古墳北より鈴鹿山脈。一番左が野登山>
<鈴鹿市上田町>白鳥塚北より石薬師一里塚に向かい台地の上田町を下りる。白鳥塚古墳南西には大調整池と鈴鹿フラワーパークや荒神山観音寺。9世紀初めに弘法大師が武尊の御神霊を仏像として祀ったのが始まり?
<鈴鹿市上田町>白鳥塚北より石薬師一里塚に向かい台地の上田町を下りる。白鳥塚古墳南西には大調整池と鈴鹿フラワーパークや荒神山観音寺。9世紀初めに弘法大師が武尊の御神霊を仏像として祀ったのが始まり?
<鈴鹿市平田〜神戸(かんべ)方面>壬申の乱・大海人皇子隊列通過経路だが推測で3つ。1つ目は、加太から鈴鹿川右岸に出て関町古厩〜鈴鹿市国府町(王塚・保子里古墳・三宅神社)〜平田遺跡〜河曲〜伊勢国分寺ルート。右岸地域にも確かに重要遺跡が点在している。
<鈴鹿市平田〜神戸(かんべ)方面>壬申の乱・大海人皇子隊列通過経路だが推測で3つ。1つ目は、加太から鈴鹿川右岸に出て関町古厩〜鈴鹿市国府町(王塚・保子里古墳・三宅神社)〜平田遺跡〜河曲〜伊勢国分寺ルート。右岸地域にも確かに重要遺跡が点在している。
2つ目はほぼ東海道ルート。3つ目は、鈴鹿川左岸ルートで亀山〜安楽川〜亀山市川崎町(一心院)〜能褒野王塚古墳〜伊勢国府跡〜伊勢国分寺で本日の帰りルート。東海道が一番距離は短いが、鈴鹿川・安楽川流域の氾濫など地理的不安定要因を考慮すると1つ目か3つ目かも。
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2つ目はほぼ東海道ルート。3つ目は、鈴鹿川左岸ルートで亀山〜安楽川〜亀山市川崎町(一心院)〜能褒野王塚古墳〜伊勢国府跡〜伊勢国分寺で本日の帰りルート。東海道が一番距離は短いが、鈴鹿川・安楽川流域の氾濫など地理的不安定要因を考慮すると1つ目か3つ目かも。
<石薬師一里塚>壬申の乱ルートに思いを馳せている間に石薬師南で出た。ここからは東海道を庄野〜中富田〜井田川と歩く。
<石薬師一里塚>壬申の乱ルートに思いを馳せている間に石薬師南で出た。ここからは東海道を庄野〜中富田〜井田川と歩く。
鈴鹿川と国道25号線に挟まれた田園。明治以前は洪水氾濫を繰り返す河原?25号は四日市と大阪を結ぶが、関までは国道1号。関で鈴鹿峠へ上がる1号(東海道)と加太から柘植へ向かう25号「奈良(大和)街道」に分岐。
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鈴鹿川と国道25号線に挟まれた田園。明治以前は洪水氾濫を繰り返す河原?25号は四日市と大阪を結ぶが、関までは国道1号。関で鈴鹿峠へ上がる1号(東海道)と加太から柘植へ向かう25号「奈良(大和)街道」に分岐。
25号線はまるで高速道路状態で車両が行き交う。狭い歩道をひたひた歩く。トラックが通過する度に風が巻き起こり体が揺れる。道路の左向こうは鈴鹿川が流れるが何も見えない。
25号線はまるで高速道路状態で車両が行き交う。狭い歩道をひたひた歩く。トラックが通過する度に風が巻き起こり体が揺れる。道路の左向こうは鈴鹿川が流れるが何も見えない。
ついに道路横を歩くことに耐えきれずに「中日本コンクリート」の広大な工場横道に移動。構内を通過できると信じたが結果的には大回りとなり、従業員のお世話になった。
ついに道路横を歩くことに耐えきれずに「中日本コンクリート」の広大な工場横道に移動。構内を通過できると信じたが結果的には大回りとなり、従業員のお世話になった。
<庄野宿西交差点・東方・江戸口>この右側角に「東海道庄野宿」の標柱と案内板が設置。江戸より102里余。幕府直轄領で宿立は1624年と東海道宿場の中では遅く、45番目の宿場。
<庄野宿西交差点・東方・江戸口>この右側角に「東海道庄野宿」の標柱と案内板が設置。江戸より102里余。幕府直轄領で宿立は1624年と東海道宿場の中では遅く、45番目の宿場。
赤い点線部分は25号線建設で東海道が消滅した場所。「草分け36戸、宿立て70戸」半分家屋が鈴鹿川右岸(南)の古庄野からの移転組。南北八丁。加茂町、中町、上町。
赤い点線部分は25号線建設で東海道が消滅した場所。「草分け36戸、宿立て70戸」半分家屋が鈴鹿川右岸(南)の古庄野からの移転組。南北八丁。加茂町、中町、上町。
<庄野宿>街道宿場と農村機能の両方をもち、宿場は道中奉行管轄。四日市・大津・美濃・信楽などの代官による直接支配は交代制。本陣1、脇本陣1、旅籠15。
<庄野宿>街道宿場と農村機能の両方をもち、宿場は道中奉行管轄。四日市・大津・美濃・信楽などの代官による直接支配は交代制。本陣1、脇本陣1、旅籠15。
大宿場の関と四日市に挟まれ、休憩客が多く、宿泊客は少。 宿場不振で幕府は1815年に庄野と石薬師に対して通常配備人足や伝馬を通常半分(50人50疋)に命じた。
大宿場の関と四日市に挟まれ、休憩客が多く、宿泊客は少。 宿場不振で幕府は1815年に庄野と石薬師に対して通常配備人足や伝馬を通常半分(50人50疋)に命じた。
<善照寺>真宗高田派。1457年頃、善正法師開祖。天台宗、後に高田派第十世・真慧上人により改宗。九間四間の入母屋造り本堂=寛政年間(1795年頃)建立。鈴鹿市無形文化財「大念仏踊」
<善照寺>真宗高田派。1457年頃、善正法師開祖。天台宗、後に高田派第十世・真慧上人により改宗。九間四間の入母屋造り本堂=寛政年間(1795年頃)建立。鈴鹿市無形文化財「大念仏踊」
<歌川広重「東海道五十三次・庄野の白雨」>白雨=夕立。高さ勾配のある坂道を登る駕籠。駆け下る旅人や農夫。降雨が坂に直角に交差。濃淡のある竹林。しかし、こんな坂は今の平坦な庄野にはない?加佐登の方か?
<歌川広重「東海道五十三次・庄野の白雨」>白雨=夕立。高さ勾配のある坂道を登る駕籠。駆け下る旅人や農夫。降雨が坂に直角に交差。濃淡のある竹林。しかし、こんな坂は今の平坦な庄野にはない?加佐登の方か?
<庄野宿資料館(旧小林家住宅)>膨大な庄野宿場関係資料活用と旧小林家(市指定文化財)保存。主屋一部を創建当時の形に復元。本陣・脇本陣関係文書、宿駅関係資料。他に民具、農具、日用品など展示。
<庄野宿資料館(旧小林家住宅)>膨大な庄野宿場関係資料活用と旧小林家(市指定文化財)保存。主屋一部を創建当時の形に復元。本陣・脇本陣関係文書、宿駅関係資料。他に民具、農具、日用品など展示。
開館は10時から。入場は無料。扉が開いていたので玄関だけ撮影。何度か以前に訪れたことがある。資料関係が充実していた。
開館は10時から。入場は無料。扉が開いていたので玄関だけ撮影。何度か以前に訪れたことがある。資料関係が充実していた。
<問屋場跡>御伝馬所。問屋2名、年寄4名、書記(帳付)、馬差各45名が半数で交替勤務。
<問屋場跡>御伝馬所。問屋2名、年寄4名、書記(帳付)、馬差各45名が半数で交替勤務。
<妙法禅寺>臨済宗東福寺派。禅寺。古く大きな五輪塔・地蔵などが東側に並ぶ。
<妙法禅寺>臨済宗東福寺派。禅寺。古く大きな五輪塔・地蔵などが東側に並ぶ。
<庄野宿本陣跡>沢田家。間口14軒1尺、奥行21間1尺、 面積229坪7合、畳数197畳半、板数44畳半。「距 津市元標 九里拾九町」
<庄野宿本陣跡>沢田家。間口14軒1尺、奥行21間1尺、 面積229坪7合、畳数197畳半、板数44畳半。「距 津市元標 九里拾九町」
<高札場跡>鈴鹿川右岸の古庄野から庄野橋を渡り来る道と東海道がぶつかる本陣角。
<高札場跡>鈴鹿川右岸の古庄野から庄野橋を渡り来る道と東海道がぶつかる本陣角。
<脇本陣跡>本陣隣。楠与兵衛家。庄野名物は「焼米俵」という保存食。携行食として人気。水に浸し煎った後で平らに伸ばした米を、鼓形に編まれた小さな俵状の藁に入れたもの。
<脇本陣跡>本陣隣。楠与兵衛家。庄野名物は「焼米俵」という保存食。携行食として人気。水に浸し煎った後で平らに伸ばした米を、鼓形に編まれた小さな俵状の藁に入れたもの。
<南から見た庄野宿場中心>左手前から脇本陣、高札場、本陣と並ぶ。しかしながら、庄野の町並みも何度か訪れる内にだんだん新しい家屋に建て替わり、古い家屋は無人になりつつある。
<南から見た庄野宿場中心>左手前から脇本陣、高札場、本陣と並ぶ。しかしながら、庄野の町並みも何度か訪れる内にだんだん新しい家屋に建て替わり、古い家屋は無人になりつつある。
<郷会所跡>宿場関係の相談をしたらしい。少し南に進み、東海道の西に常楽寺。その南が川俣神社と巨大なスタジイ。
<郷会所跡>宿場関係の相談をしたらしい。少し南に進み、東海道の西に常楽寺。その南が川俣神社と巨大なスタジイ。
<庄野・川俣神社境内のスタジイ>推定約三百年。幹周囲5.78m、樹高12m。ブナ科常緑樹。
<庄野・川俣神社境内のスタジイ>推定約三百年。幹周囲5.78m、樹高12m。ブナ科常緑樹。
<川俣神社・境内の石橋>享保年間・・・。江戸期は「貴船明神」と呼ぶ。明治より式内川俣神社に。この地域には川俣神社が6社。いかに河川氾濫に悩まされていたか分かる。獅子舞や子供神輿。
<川俣神社・境内の石橋>享保年間・・・。江戸期は「貴船明神」と呼ぶ。明治より式内川俣神社に。この地域には川俣神社が6社。いかに河川氾濫に悩まされていたか分かる。獅子舞や子供神輿。
<庄野宿・西方・京口>ここから真っ直ぐ行くと25号と637号がインターチェンジ状に交差、東海道は消滅。京口石標を右折して田畑横を通り、アンダーパスを2度渡ると汲川原町の東海道に出る。
<庄野宿・西方・京口>ここから真っ直ぐ行くと25号と637号がインターチェンジ状に交差、東海道は消滅。京口石標を右折して田畑横を通り、アンダーパスを2度渡ると汲川原町の東海道に出る。
<汲河原町>ちょうどここの東に汲河原橋があり鈴鹿川がほぼ直角に曲がっている。そこを少し西に上がると安楽川と鈴鹿川の合流地点となる。
<汲河原町>ちょうどここの東に汲河原橋があり鈴鹿川がほぼ直角に曲がっている。そこを少し西に上がると安楽川と鈴鹿川の合流地点となる。
<道標・平野道>汲河原町に入り南側に道標。「平野」は鈴鹿川南対岸の平野町を指す。古い石標には味わいがある。
<道標・平野道>汲河原町に入り南側に道標。「平野」は鈴鹿川南対岸の平野町を指す。古い石標には味わいがある。
<鈴鹿川左岸堤防といぼとり地蔵>露天に立っていた地蔵をここに誇りを造り安置。いぼや眼病に効くと付近の信仰を集めた。
<鈴鹿川左岸堤防といぼとり地蔵>露天に立っていた地蔵をここに誇りを造り安置。いぼや眼病に効くと付近の信仰を集めた。
<祠内部のいぼとり地蔵尊>
<祠内部のいぼとり地蔵尊>
<真福寺と女人堤防碑の間にある広い空き地>この森は女人堤防跡。森の中に地蔵堂や五輪塔や石仏・石標などが多数ある。
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<真福寺と女人堤防碑の間にある広い空き地>この森は女人堤防跡。森の中に地蔵堂や五輪塔や石仏・石標などが多数ある。
<東海道の北側にある山の神と石灯籠>「従是神戸(かんべ)領」石柱は東海道の両側にある。伊勢神戸は東海道追分の南の伊勢参宮道沿いの宿場町で城下町。亀山城主・関氏が神戸沢城を構築、分家して神戸氏が始まる。
<東海道の北側にある山の神と石灯籠>「従是神戸(かんべ)領」石柱は東海道の両側にある。伊勢神戸は東海道追分の南の伊勢参宮道沿いの宿場町で城下町。亀山城主・関氏が神戸沢城を構築、分家して神戸氏が始まる。
<従是神戸領碑と女人堤防碑>鈴鹿川は土砂を運び、瀬を多数形成、伏流化する砂河川。安定しない河川道は大雨で洪水・氾濫を発生させ、流域住民を苦しめ、砂防・築堤工事が何度も繰り返された。
<従是神戸領碑と女人堤防碑>鈴鹿川は土砂を運び、瀬を多数形成、伏流化する砂河川。安定しない河川道は大雨で洪水・氾濫を発生させ、流域住民を苦しめ、砂防・築堤工事が何度も繰り返された。
<女人堤防解説>こちらの左岸(北側)堤防を強化すれば、右岸(南側)堤防の伊勢神戸城下町に氾濫などが起こるので、左岸強化は不許可。右岸側を守り、左岸側は放置。藩命に背くと打ち首が待っていた。
<女人堤防解説>こちらの左岸(北側)堤防を強化すれば、右岸(南側)堤防の伊勢神戸城下町に氾濫などが起こるので、左岸強化は不許可。右岸側を守り、左岸側は放置。藩命に背くと打ち首が待っていた。
<正面が安楽川堤防。鈴鹿川との合流点付近。左の森が女人堤防跡>男達を犠牲にせず、女達だけで左岸堤防強化に6年間取り組み、完成後は藩主の心を動かし処刑中止。金一封、絹五反と讃頌の言葉も与えられた。
<正面が安楽川堤防。鈴鹿川との合流点付近。左の森が女人堤防跡>男達を犠牲にせず、女達だけで左岸堤防強化に6年間取り組み、完成後は藩主の心を動かし処刑中止。金一封、絹五反と讃頌の言葉も与えられた。
<中富田・川俣神社>1803年作成の「東海道亀山宿分間絵図」で一里塚は川俣神社東隣にある。写真の空き地と畑。近くに「御馳走場」大名などの接待場。その子孫の「東百里屋」屋号の家。江戸迄の距離を表現。
<中富田・川俣神社>1803年作成の「東海道亀山宿分間絵図」で一里塚は川俣神社東隣にある。写真の空き地と畑。近くに「御馳走場」大名などの接待場。その子孫の「東百里屋」屋号の家。江戸迄の距離を表現。
<中富田・川俣神社境内南にある祠と大木>大きな木々が歴史を感じさせてくれる。洪水・氾濫に苦しめられると同時に干魃時には堆積土砂で伏流化した鈴鹿川に水田の水を求めることも難しかった。
<中富田・川俣神社境内南にある祠と大木>大きな木々が歴史を感じさせてくれる。洪水・氾濫に苦しめられると同時に干魃時には堆積土砂で伏流化した鈴鹿川に水田の水を求めることも難しかった。
<中富田一里塚の碑と解説板>日本橋から103里。農業用水確保のため、河床掘削や用水路・取水施設建設に努力、鈴鹿山麓特有の暗渠式灌漑用水施設・マンボの掘削なども行われたようだ。
<中富田一里塚の碑と解説板>日本橋から103里。農業用水確保のため、河床掘削や用水路・取水施設建設に努力、鈴鹿山麓特有の暗渠式灌漑用水施設・マンボの掘削なども行われたようだ。
<従是西 亀山領の碑>亀山藩はこの伊勢亀山藩と丹波亀山藩があった。丹波の方は明智光秀で有名だが、明治になって亀山から「亀岡」に改名し亀岡市となる。
<従是西 亀山領の碑>亀山藩はこの伊勢亀山藩と丹波亀山藩があった。丹波の方は明智光秀で有名だが、明治になって亀山から「亀岡」に改名し亀岡市となる。
<常念寺境内にある白波山平建寺の石柱>1652年創建の常念寺は村の別の所にあったが安政大地震(1818)時に崩壊、ここにあった倒壊を免れた「平建寺」を買収して移転。本尊・延命地蔵。初盆燈籠焼供養など。
<常念寺境内にある白波山平建寺の石柱>1652年創建の常念寺は村の別の所にあったが安政大地震(1818)時に崩壊、ここにあった倒壊を免れた「平建寺」を買収して移転。本尊・延命地蔵。初盆燈籠焼供養など。
<西富田・福萬寺前の掲示板>
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<西富田・福萬寺前の掲示板>
「ひろせ道 道標」ここから北に約2.5kmで伊勢国府政庁遺跡の広瀬町へ連絡。
「ひろせ道 道標」ここから北に約2.5kmで伊勢国府政庁遺跡の広瀬町へ連絡。
<西富田・川俣神社>ちょうど道が堤防に突き当たる地点に昔の旧和泉橋があった。現在は神社を左に巻くように堤防上を進み、神社裏上から和泉橋が架かる。
<西富田・川俣神社>ちょうど道が堤防に突き当たる地点に昔の旧和泉橋があった。現在は神社を左に巻くように堤防上を進み、神社裏上から和泉橋が架かる。
<神社境内奥・堤防下にある道標>「右ひろせ 左はたけ」とある。昔は旧和泉橋を下りてきた坂辺りに立っていたのかもしれない。
<神社境内奥・堤防下にある道標>「右ひろせ 左はたけ」とある。昔は旧和泉橋を下りてきた坂辺りに立っていたのかもしれない。
<西富田・川俣神社>左に常夜灯。新しい国土地理院石標もある。
<西富田・川俣神社>左に常夜灯。新しい国土地理院石標もある。
<神社境内・無上冷水井跡の石柱>神戸城主・神戸信孝(信長三男)が愛飲した井戸跡。信長の伊勢支配政策で信孝は神戸氏の養子となり、この地方の神戸氏や関氏を操ったが、信長没後は秀吉と対立。内海野間で自害。
<神社境内・無上冷水井跡の石柱>神戸城主・神戸信孝(信長三男)が愛飲した井戸跡。信長の伊勢支配政策で信孝は神戸氏の養子となり、この地方の神戸氏や関氏を操ったが、信長没後は秀吉と対立。内海野間で自害。
<現在の和泉橋と広い安楽川・川原グランド>昔の和泉橋袂より現在の和泉橋を見る。後ろに井田川小学校。
<現在の和泉橋と広い安楽川・川原グランド>昔の和泉橋袂より現在の和泉橋を見る。後ろに井田川小学校。
<安楽川と鈴鹿山脈>鈴鹿山脈が左側で少し低くなりギザギザしている尾根が三子山(東海道・鈴鹿峠)。中央が仙ヶ岳と野登山。右が入道ヶ岳と鎌ヶ岳。
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<安楽川と鈴鹿山脈>鈴鹿山脈が左側で少し低くなりギザギザしている尾根が三子山(東海道・鈴鹿峠)。中央が仙ヶ岳と野登山。右が入道ヶ岳と鎌ヶ岳。
<旧和泉橋たもとにある和泉町公民館>昔の和泉橋は対岸からここに連絡していた。こちらにも旧和泉橋親柱があると聞いたが・・。
<旧和泉橋たもとにある和泉町公民館>昔の和泉橋は対岸からここに連絡していた。こちらにも旧和泉橋親柱があると聞いたが・・。
<和泉町を抜ける東海道>
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<和泉町を抜ける東海道>
<道標>「のゝぼり」か「のぼの」か。次の写真の自然石道標と向かい合わせに立つ。
<道標>「のゝぼり」か「のぼの」か。次の写真の自然石道標と向かい合わせに立つ。
<自然石の道標>「右 のぼ・・」能褒野(のぼの)か野登方面。安楽川右岸沿いに北西に進み、巡見道に連絡。
<自然石の道標>「右 のぼ・・」能褒野(のぼの)か野登方面。安楽川右岸沿いに北西に進み、巡見道に連絡。
<和泉西の地蔵堂祠内の仏>
<和泉西の地蔵堂祠内の仏>
<地福寺東の空き地・観音堂跡>戦国期以前は「小田町道心がいどう」と呼ばれ、七堂伽藍が立ち並ぶ大寺。道心とは「仏道を信奉する心」1568年信長戦火で焼失。1677年観音堂建立。
<地福寺東の空き地・観音堂跡>戦国期以前は「小田町道心がいどう」と呼ばれ、七堂伽藍が立ち並ぶ大寺。道心とは「仏道を信奉する心」1568年信長戦火で焼失。1677年観音堂建立。
<地福寺空き地にある和泉橋旧橋の親柱>同じ敷地に明治天皇御小休所石碑もある。
<地福寺空き地にある和泉橋旧橋の親柱>同じ敷地に明治天皇御小休所石碑もある。
<小田町・地福寺>亀山藩主が観音堂の阿弥陀如来に帰依。観音菩薩三十三体も祀られ東海道の旅人が多く立ち寄った。
<小田町・地福寺>亀山藩主が観音堂の阿弥陀如来に帰依。観音菩薩三十三体も祀られ東海道の旅人が多く立ち寄った。
<地福寺前>寺は小高い台地にあり、伊勢平野や経ヶ峯や錫杖ヶ岳が前に広がる景勝地。毘沙門堂には青銅造り毘沙門天。
<地福寺前>寺は小高い台地にあり、伊勢平野や経ヶ峯や錫杖ヶ岳が前に広がる景勝地。毘沙門堂には青銅造り毘沙門天。
<井田川集落・石標「田村道」>田村とはここから北西の安楽川右岸の集落を指す。能褒野王塚古墳と安楽川を挟んで南に位置する。
<井田川集落・石標「田村道」>田村とはここから北西の安楽川右岸の集落を指す。能褒野王塚古墳と安楽川を挟んで南に位置する。
<海善寺への曲り角の祠と松>
<海善寺への曲り角の祠と松>
<海善寺とみどり町の井田川茶臼山古墳跡>右に一般家屋のような海善寺を見る。後ろの小山は後から訪れる茶臼山古墳跡方面。
<海善寺とみどり町の井田川茶臼山古墳跡>右に一般家屋のような海善寺を見る。後ろの小山は後から訪れる茶臼山古墳跡方面。
<JR井田川駅>
<駅前の日本武尊像>横に記念碑がある。「のぼの」記述は日本書紀は「能褒野」古事記は「能煩野」。「ヤマトタケル」記述は日本書紀は「日本武尊」古事記は「倭建命」と異なる。
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<駅前の日本武尊像>横に記念碑がある。「のぼの」記述は日本書紀は「能褒野」古事記は「能煩野」。「ヤマトタケル」記述は日本書紀は「日本武尊」古事記は「倭建命」と異なる。
<ヤマトタケルとオトタチバナ説明板>オトタチバナ姫は亀山市の忍山神社の祀官・オシヤマノスクネの娘とされる。
<ヤマトタケルとオトタチバナ説明板>オトタチバナ姫は亀山市の忍山神社の祀官・オシヤマノスクネの娘とされる。
<JR井田川駅前の地図>能褒野王塚古墳までは約2km。能褒野から伊勢国府跡へ向かう。
<JR井田川駅前の地図>能褒野王塚古墳までは約2km。能褒野から伊勢国府跡へ向かう。
<井田川・海善寺>本堂・向拝は亀山藩主・石川家で家老をだった加藤家の玄関を移築。「変り藤」の紋が両側に見られる。
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<井田川・海善寺>本堂・向拝は亀山藩主・石川家で家老をだった加藤家の玄関を移築。「変り藤」の紋が両側に見られる。
<みどり町の井田川茶臼山古墳公園>井田川丘陵の突端の小山。みどり町は近年の住宅団地名称。丘陵土砂流出で正確な墳形不明。住宅地建設もあり、発掘調査半ばで解体された。公園には皇太子駐駕祈念碑も。
<みどり町の井田川茶臼山古墳公園>井田川丘陵の突端の小山。みどり町は近年の住宅団地名称。丘陵土砂流出で正確な墳形不明。住宅地建設もあり、発掘調査半ばで解体された。公園には皇太子駐駕祈念碑も。
<石室跡>7.2mの横穴式石室。箱式石棺2~3。土器と副葬品。画文帯神獣鏡、金銅製装身具、武具・馬具。6世紀前期〜中期。被葬者は鈴鹿流域の大首長?詳しくは亀山市立博物館で石室実物大模型や副葬品見学可能。
<石室跡>7.2mの横穴式石室。箱式石棺2~3。土器と副葬品。画文帯神獣鏡、金銅製装身具、武具・馬具。6世紀前期〜中期。被葬者は鈴鹿流域の大首長?詳しくは亀山市立博物館で石室実物大模型や副葬品見学可能。
<能褒野王塚へ向かう>みどり町の丘陵を上り下りすると田村集落に出て、やがて前に丁子塚(ちょうじ)が見える。「能褒野王塚」は治定後の名称。背後には鎌ヶ岳・御在所・釈迦ヶ岳が並ぶ。
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<能褒野王塚へ向かう>みどり町の丘陵を上り下りすると田村集落に出て、やがて前に丁子塚(ちょうじ)が見える。「能褒野王塚」は治定後の名称。背後には鎌ヶ岳・御在所・釈迦ヶ岳が並ぶ。
能褒野王塚古墳(丁子塚)は、前述の通り、鈴鹿川流域で最初で最大の前方後円墳(墳丘長90m)東隣に名越古墳(前方後円墳、墳丘長60m)。周濠がある古型式墳丘形式で4世紀末築造と推定。周囲に16基の円墳群。
能褒野王塚古墳(丁子塚)は、前述の通り、鈴鹿川流域で最初で最大の前方後円墳(墳丘長90m)東隣に名越古墳(前方後円墳、墳丘長60m)。周濠がある古型式墳丘形式で4世紀末築造と推定。周囲に16基の円墳群。
<陵墓説明板>鰭付円筒埴輪出土の意味は、同様埴輪が大和街道沿いに出土。伊賀や畿内政権との関係をうかがわせる。大和→北大和→伊賀→美濃・尾張へ向かう政治勢力の流れの途中拠点の可能性。
<陵墓説明板>鰭付円筒埴輪出土の意味は、同様埴輪が大和街道沿いに出土。伊賀や畿内政権との関係をうかがわせる。大和→北大和→伊賀→美濃・尾張へ向かう政治勢力の流れの途中拠点の可能性。
<能褒野神社>1895年(明治28)宮内省が創建。加佐登神社と比べると参拝客少なく官製神社の雰囲気。
<能褒野神社>1895年(明治28)宮内省が創建。加佐登神社と比べると参拝客少なく官製神社の雰囲気。
明治41年(1911)県主神社や那久志里神社などが合祀。そもそも那久志里神社古社は東隣300mの名越古墳付近にあった?そこには東荒寺跡の石碑もある。
明治41年(1911)県主神社や那久志里神社などが合祀。そもそも那久志里神社古社は東隣300mの名越古墳付近にあった?そこには東荒寺跡の石碑もある。
江戸期も、明治に入っても、この古墳(丁子塚)は日本武尊陵墓候補にほとんど上がらず。明治12年(1879)に突然、宮内省が丁子塚を日本武尊能褒野陵治定。周囲に土柵、鳥居、石階などを設置。1895年に能褒野神社創建。
江戸期も、明治に入っても、この古墳(丁子塚)は日本武尊陵墓候補にほとんど上がらず。明治12年(1879)に突然、宮内省が丁子塚を日本武尊能褒野陵治定。周囲に土柵、鳥居、石階などを設置。1895年に能褒野神社創建。
この古墳の場所を考えると桑名・多度への古代道は、鈴鹿山麓を北に上がり川崎町〜椿大神社〜菰野・智積廃寺〜御池沼沢〜浄蓮寺で桑名に至る道だったのかも?菰野まではほぼ江戸期の巡見道に相当。
この古墳の場所を考えると桑名・多度への古代道は、鈴鹿山麓を北に上がり川崎町〜椿大神社〜菰野・智積廃寺〜御池沼沢〜浄蓮寺で桑名に至る道だったのかも?菰野まではほぼ江戸期の巡見道に相当。
<能褒野王塚陵墓>鈴鹿山脈南部・野登山(ののぼり)山麓は古代では能褒野(のぼの)の名称。白鳥伝説と関連。野登山には醍醐天皇関連の野登寺、入道ヶ岳山麓には倭姫命や猿田彦関連の椿大神社がある。
<能褒野王塚陵墓>鈴鹿山脈南部・野登山(ののぼり)山麓は古代では能褒野(のぼの)の名称。白鳥伝説と関連。野登山には醍醐天皇関連の野登寺、入道ヶ岳山麓には倭姫命や猿田彦関連の椿大神社がある。
<広瀬町・伊勢国府跡>王塚を東に637号を2km進む。鈴鹿には「国府町」が鈴鹿川右岸にあり、そこが国府だったと推測されていたが、ここ「長者屋敷遺跡」(安楽川左岸)に多量古代瓦発見。1957年から発掘調査開始。
<広瀬町・伊勢国府跡>王塚を東に637号を2km進む。鈴鹿には「国府町」が鈴鹿川右岸にあり、そこが国府だったと推測されていたが、ここ「長者屋敷遺跡」(安楽川左岸)に多量古代瓦発見。1957年から発掘調査開始。
<伊勢国府・政庁跡>1992年発掘結果より奈良中期〜平安時代初期の国府跡と判明。最近調査で平安期からは国府は前述の国府町へ移動と推定。国府町の遺跡は未発見だが、三宅神社遺跡周辺で大型掘立柱建物遺構の存在。
<伊勢国府・政庁跡>1992年発掘結果より奈良中期〜平安時代初期の国府跡と判明。最近調査で平安期からは国府は前述の国府町へ移動と推定。国府町の遺跡は未発見だが、三宅神社遺跡周辺で大型掘立柱建物遺構の存在。
<伊勢国府案内板>国府政庁は中央政府から派遣の長官・国守が儀式や饗宴・政務を行ってた場所。正殿・後殿・脇殿が軒廊で結ばれていて、周囲は東西80m・南北110mの築地塀が囲まれていた。
<伊勢国府案内板>国府政庁は中央政府から派遣の長官・国守が儀式や饗宴・政務を行ってた場所。正殿・後殿・脇殿が軒廊で結ばれていて、周囲は東西80m・南北110mの築地塀が囲まれていた。
<国府・基壇跡>周囲より1m高く盛土。637号を挟んだ北には同様の広さの西院区画。近江や三河の国府にも同様の区画あり。ガラス玉、管玉、赤色顔料出土。周溝からは須恵器の短頸壷など。
<国府・基壇跡>周囲より1m高く盛土。637号を挟んだ北には同様の広さの西院区画。近江や三河の国府にも同様の区画あり。ガラス玉、管玉、赤色顔料出土。周溝からは須恵器の短頸壷など。
<調整池と白鳥塚古墳>637号を加佐登調整池まで戻る。左のこんもりと盛り上がった丘が白鳥塚古墳。右の丘が加佐登神社。
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<調整池と白鳥塚古墳>637号を加佐登調整池まで戻る。左のこんもりと盛り上がった丘が白鳥塚古墳。右の丘が加佐登神社。
<調整池東の辻ヶ坂>この坂を上り下りると27号線沿いに宝裳塚や宝冠塚があり、武尊の衣裳や冠を祀った伝説。
<調整池東の辻ヶ坂>この坂を上り下りると27号線沿いに宝裳塚や宝冠塚があり、武尊の衣裳や冠を祀った伝説。
<宝裳塚>すぐ近くに<宝冠塚>もある。また西2.5kmのJR線付近には景行天皇が半年の滞在時に住んだとする綺宮跡(石標のみ)がある。本日はこれまで。
<宝裳塚>すぐ近くに<宝冠塚>もある。また西2.5kmのJR線付近には景行天皇が半年の滞在時に住んだとする綺宮跡(石標のみ)がある。本日はこれまで。

感想

全国に日本武尊伝説や関連墳墓や行軍伝説が残るが、日本武尊を一人の人物とせず、景行天皇が率いた多くの複数の軍勢や軍団や将軍達と考えれば納得いくことが多い。畿内勢力軍の総称名=日本武尊。そうであるならば、全国にいくつ墳墓があっても、全国どこに現れ、どこで戦って地方豪族を平定してもおかしくない。織田信長の家臣達・織田軍団のようなもの。まあなにしろ、畿内勢力が東国へ向かう重要拠点が北伊勢・鈴鹿地域にあったことには間違いないだろう。

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