仙台空港〜閖上地区
- GPS
- --:--
- 距離
- 13.6km
- 登り
- 1m
- 下り
- 5m
過去天気図(気象庁) | 2013年03月の天気図 |
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アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
感想
行動の記録
3月16日
日立木を一番の電車で仙台に向かう途中、名取駅で仙台空港をアクセス線〜云々のアナウンスを聞いた瞬間に体が反応してアクセス線に向かっていた。計画段階で空港の周りを一周する予定だったので、滑走路側にして放水路沿いの道を歩いている時に名取市在住で一時避難的に安曇野に仕事に来ていたUさんから「閖上市がお薦めですよ」のメールが入った瞬間にまた体が反応してためらわず閖上地区に向かった。離着陸する飛行機の写真を撮っていたマニアによると、空港は海に面しているが「津波は海側からではなく名取川を遡って押し寄せて来た」と言う。その5〜6km先に閖上地区はある。時刻は9時過ぎ。仙台発11:04が今日中に帰るリミットなので帰るのは明日に延期だ。
放水路でのナックル・フォー(高校時代に自分もやっていた)の練習を 見ながら土手に沿って歩いていたらその道は行き止まりで、大きく戻って放水路に対して直角に左折して500mばかり進んだ所からまた直角に右折し、そこから2kmはあろうかと言う直線道路をまっすぐ進む。それは何十町分にもおよぶ広大な水田の中につけられた復興工事用の道と思われ、原ノ町のそれと同じように辻々に警備員が立って出入りする車両の誘導に当たっていた。田圃と言う田圃にはこれも原ノ町と同じように表土を削りとって掻き集めた小山が出来ていた。ただ原ノ町と違うのは土の表面が白い点で、取り除くのは放射能ではなく海水がもたらした塩であること。除塩と言う作業の一行程だと言う。その前に田圃に流れ込んだ瓦礫の除去があり、はじめは自衛隊がやり、残った瓦礫の混入物の大きさや種類に応じて次々と専門の業者が機械で選別・除去に当たり、最後は農民自身がボランティアの助けをも借りて人海戦術で取り除く過程があり、除塩と並行して灌水のための配水側溝が施設されてようやく田圃として甦ることになる。それは今年のうちにも完成する見込みだと若い警備員君が言った。復旧してもすぐに稲を作ることは出来きないんじゃないかと言うと「塩に強い品種を使うそうだ」と言う。
例によってここも田圃の一画が瓦礫の置き場・分別場になっていてそれぞれに応じた業種のトラックが頻繁に出入りしており、その邪魔にならないように気を遣って歩く。
幾つもの仕分け場を通り何人かの警備員と話したり道を聞いたりしてゆっくりと閖上に近づいて行く。はるか遠くに野焼きの煙が上がり、大勢の男女が田圃の草を焼いているねが見えたた。どんなに遠くても見たかったら傍まで行くべし!これが5年間の海岸線歩きで得た教訓。
どこにでもある筈の、しかし原ノ町にはなかった田園の風景。だがここの野焼きも他とは少し違っていて、これから耕作するためのではなく除塩前の作業の一つなのだろう。それでも仲間達が集まっての和気藹々の作業にはうきうきした高揚感と和やかさ、長閑さが感じられてこちらまで嬉しくなる。
この何町分もの広大な田圃の除塩と配水溝敷設も年内には完成する見通しだと言う。
復旧してもすぐに稲を作ることは出来きないんじゃないかと言う問いに婦人達は「塩に強い品種があるそうよ」と言った。女性達はしぶとくてしなやかだ。
野焼きの作業を見た後、教わった方向に進むと、先刻来遠目に目印になっていた黄色い壁の建物〜外観はさほど傷んでいないが中がからんどうの何かの施設のような〜に到達。そこで川に突き当たり、左折して遡って進むうちに左手に土台だけ残して地上部を失った住居群・即ち津波によってすべてを押し流された市街地の跡に差しかかる。そのどの家の跡地にも「○○××」と犠牲になった人の名を記した札が立てられ花が手向けられてあるところから、いよいよ閖上地区に入ったものと思われた。
川を挟んだ先に低い小山が見えるのが話しに聞いていた日和山であろうと見当をつけて進むとやがて欄干の一部が欠け、壊れるのをやっと免れているような橋〜その端に無数の白いカーネーションが置かれて萎れかけてている〜があり、『日和〜』の文字が見えた。
日和山にはマイカーだけでなくバスやTXで慰霊に訪れる人が絶えず、そのために駐車場が設けられ、また神社の昇り口には震災前の街並みと周辺の様子を写した写真や手作りの新聞などか張られた掲示板があった。
階段を登ってわずか数メートルの丘に立ち改めて周囲を見廻すと360度、本当に何もないのだ。ここに来て初めて「閖上」の意味を知らされた気がした。
さてここからどう帰るか・・,当然歩いて駅に向かうしかないのだが方角がさっぱりわからないのでTXの運転手さんに最寄り駅への道を聞こうとしたら先客にして同類の人がいた。
東京から来たと言うその人は、途中までは来た道を引き返すことになると言うので自然と一緒に歩くことになり、お互いにそれまでに見聞したことを語りながら連れだって駅に向かう。
その彼から閖上中学校の前に語り部のハウスがあり、当時の様子を詳しく教えてもらうことができるので寄って見てはどうかと勧められ、名刺を交わして語り部のハウスを訪ねる。
閖上中学校の門前にあるそのハウスには震災以前の町並みのバネル写真があり、それに依って被害の凄まじさを改めて認識させられる。
閖上中学校の生徒が屋上から撮ったと言う動画の生々しい映像もYoutubeで見る(閖上,動画で検索)のと津波が駆け抜けたその現場で見ると全く違う。現場に立つことの意味は計り知れないぼど大きい。
その閖上中学校では14名の生徒がなくなった。それはたまたまその日が卒業式の日で、式を終わって早く帰った生徒が犠牲になったと言うことで、すぐ近くの小学校が普通に授業をしていて全員が学校にいたたために、当日休んでいた児童1人を除いて犠牲者が出ていないのと明暗を分けてしまったと言う。
中学校の時計は今も止まったままで校門の前には14人の名前を刻んだ碑があり、生徒達の亡き友への思いが書かれた机があった。
自分が中学生を送り出す立場だっただけにいたたまれない思いでそこを離れ、美田園駅に向かう。
1時間あまり歩いて美田園駅着。名取から福島、会津若松、喜多方を経て野沢と言う無人駅で仮眠。
海を見くなり、翌朝5時台の電車で新潟まで直行、越後線に乗り換えて寺泊で下車。漁港までの5.5kmを1時間後に発車するバスと競争し、バスが来ないうちに海岸線に着く。
糸魚川から北に向かう日本海海岸線歩きは寺泊まで達しているので、その続きで一気に新潟まで歩きたいところだが、次の旅が迫っているのでその日のうちに帰らなければならず、信濃川放水路・大河津分水路まで4kmの海岸線を歩くに留め、そこから越後線分水駅までの7kmを歩いて終了。
分水駅では2時間待って柏崎-直江津-糸魚川-南小谷経由,22時過ぎに大町着。
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