記録ID: 2988263
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ハイキング
関東
房総往還04(木更津→君津)
2021年03月11日(木) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 04:19
- 距離
- 14.7km
- 登り
- 141m
- 下り
- 135m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
Out:JR君津駅 |
コース状況/ 危険箇所等 |
内房をつなぐ房総往還。 今回は上総の中心地木更津から少し先の君津まで。 木更津は当時としては大都市ですが、ではそこを治めた大きな藩があったのか?というと、答えは「No」です。 一番現木更津市中心部に近かった貝淵藩でさえ1万石(最大1万8千石)という小藩でした。 ところが、この貝淵藩が戊辰戦争時にとんでもないことをします。 貝淵藩は立藩後に陣屋を移転し請西藩と名前を変えていましたが、徳川家に対して強く忠誠を誓う藩でした。 世の流れの中、趨勢は幕府不利になっていきますが、請西藩主林忠崇は藩主自らが脱藩し、新政府軍へ抵抗したのです。 最終的に仙台で降伏しますが、この行為が新政府軍の逆鱗に触れ、戊辰戦争後に全国の諸侯の中でただ一つの改易(とりつぶし)となり、ただ一人明治の華族に任命されませんでした(後日甥が任命され忠崇も華族の一員になる) その貝淵藩の陣屋は、木更津市桜井にあります。 この陣屋は、貝淵藩の陣屋でスタートし、陣屋が少し内陸に入った真武根に移った後は下屋敷として使用されました。 戊辰戦争後に、駿河小島藩松平家(瀧脇家)が入り桜井藩立藩。 (陣屋の位置は貝渕藩と一緒なのですが、改易になった請西藩の陣屋ということで、新政府に配慮して「桜井藩」にしたらしい。) 廃藩置県で桜井県になり、その後1871年に木更津県として県庁となりました。 木更津県は、1873年に印旛県と新治県の一部と合併し千葉県が発足。 これにともない県庁所在地が千葉に移り、短い木更津県の時代は終了しました。 陣屋跡と県庁跡には石碑と看板があります(同一場所) 真武根陣屋は桜井陣屋から徒歩40分ほどの丘陵の上にあります。 住宅団地が形成されようとしており、往時をしのばせるものは石碑と看板くらいですが、途中の坂道からは東京湾が一望できます。 基本的に沿岸部を進んできた房総往還は、畑沢で海から離れ内陸に向かいます。 これは地図を見るとわかりますが、富津岬のところで半島が大きく海に突き出ているため、房総往還は根元をショートカットするように走るためです。 このため、結構な上り、下りが出てきます。 木更津市畑沢から君津市君津台に進むところは両市の市境(高坂山というようです)に房総往還があったようですが、市境ゆえに整備されていない薮になっており、かつ両側の団地開発で地形が大きく変わり、房総往還は残っていないように思われます。 |
その他周辺情報 | 木更津市小浜まではコンビニや自販機は豊富ですが、その後は君津市街地までありませんでした。 公衆トイレは、八剱八幡神社、證誠寺、君津駅にありました。 |
写真
浜菜食堂の先の信号で左折します
バス停なら畑沢
直進すると富津岬(富津陣屋)方面の房総往還ですが、こちらは江戸末期の海防対策で使用頻度が多くなったもので、本来は左折
房総往還は佐貫町まで海を離れます
バス停なら畑沢
直進すると富津岬(富津陣屋)方面の房総往還ですが、こちらは江戸末期の海防対策で使用頻度が多くなったもので、本来は左折
房総往還は佐貫町まで海を離れます
撮影機器:
感想
房総往還4回目はまずは陣屋巡りから
幕末戊辰戦争時に小さくも鮮烈なイメージを残した請西藩が存在したのが木更津市です
畑沢から房総往還は内陸部へ
宅地開発で失われた道をたどります
「台」のつく住宅地は起伏が激しいですね、、、
短く君津で終了です
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コメント
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コメントありがとうございます
ご指摘の柵は開いてはおりませんでした。
横にすり抜けられるくらいのスペースはありました。
房総往還は君津から佐貫の間の三舟山越えなどに旧道が長い距離にわたって残っておりますので、たのしいかと存じます。
暑い季節ですが、楽しんで歩いてください!
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