高遠城址+五郎山(伊那市)、甲斐武田氏終焉の地巡り


- GPS
- 16:00
- 距離
- 7.2km
- 登り
- 338m
- 下り
- 326m
コースタイム
- 山行
- 1:06
- 休憩
- 0:18
- 合計
- 1:24
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
http://www.inacity.jp/shisetsu/koenshisetsu/takatojoshikoen.html |
その他周辺情報 | 【伊那市ウェブサイトから】 ■武田氏と高遠城 戦国時代になると、信濃へ侵攻してきた甲斐の武田信玄が、伊那谷攻略の足がかりとして高遠を押さえ、高遠氏から城も奪い取りました。天文16年(1547)に信玄は高遠城の改修を行い、城主には秋山虎繁や信玄四男の諏訪勝頼が就きましたが、勝頼が武田家の後継者として甲府に呼び戻された後は、信玄弟の信廉や信玄五男の仁科盛信(信盛)が城主となっています。信玄の近親者ばかりが高遠城主になったのは、ここが南信濃支配の拠点であり、遠江、信濃、甲斐を繋ぐ交通の要所として重要視されたからだと考えられます。 ■高遠城の戦い(武田軍VS織田軍) 武田氏による高遠支配は35年ほど続きましたが、織田信長が勢力を拡大する中で、高遠城は武田対織田の壮絶な戦いの場となりました。 天正10年(1582)3月、高遠城主であった仁科盛信は敵方の総大将であった信長の嫡男、信忠からの降参の要請に応じず城に籠こもり、数千の兵で数万の軍勢を相手に一戦を交じえました。織田勢の大軍にひるむことなく戦った盛信でしたが、城はわずか一日と持たず、多くの家臣は討ち死にし、盛信も自害し、高遠城は落城しました。 ■高遠城の戦国末期 高遠城落城から時をおかず、甲斐の本国にいた武田勝頼も織田信忠に攻められ、戦国大名武田氏は滅亡しました。一方、武田氏を滅ぼした織田信長もわずか3ヵ月後に京都の本能寺で命を落とし、支配者を相次いで失った高遠を含む信濃国全体が混乱に陥りました。 混乱に乗じて高遠城に手を入れたのは、藤澤郷(伊那市高遠町藤沢)に本拠を置いていた武田家の旧臣、保科正直でした。正直は高遠城の戦いの際、城から脱け出して身を隠していましたが、本能寺の変の後、北条氏の力を借りて高遠周辺を押さえ、その後徳川家康の配下となり高遠城主となりました。 天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた家康が江戸へ移ると、保科正直も付き従い、下総国多胡(千葉県香取郡多古町)へ移動しています。正直が去った後の高遠城は、秀吉政権の下、毛利氏、京極氏の領地となりましたが、城主は置かれず、代官が派遣される形で統治されました。 ■一般社団法人長野伊那谷観光局 https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=915 ■長野県歌「信濃の国」浅井洌 作詞 1.信濃の国は十州に 境連ぬる国にして 聲ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し 松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき 2.四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳 浅聞は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり 流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川 南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり 3.木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し 民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある しかのみならず桑とりて 蚕飼いの業の打ちひらけ 細きよすがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり 4.尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床 木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋 くる人多き筑摩の湯 月の名にたつ嬢捨山 しるき名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる 5.旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も 春台太宰先生も 象山佐久間先生も 皆此国の人にして 文武の誉たぐいなく 山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず 6.吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山 穿つ隆道二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い ■高遠城跡の魅力をご紹介(伊那市) https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/bunka/takatojyoseki.html |
写真
感想
お花見スポット近くで生まれ育ったもので、短い桜の季節は花が散る前にどこかに花見に行きたいと焦ります。結局近所の桜を眺めて満足することも多いのですが、今回は花見の名所として有名な長野県伊那市にある高遠城址を訪れました。甲斐駒ヶ岳に登る際に城の前を通ったり、少し立ち寄ったことはありますが、入園料を払って本丸まで入ったのは今回が初めてでした。
高遠城は、甲斐武田氏が滅亡直前に織田軍と武田勝頼の武田軍の激戦が繰り広げられた場所です。武田軍を率いた高遠城主は仁科五郎盛信。盛信は武田信玄の五男で四男勝頼の異母弟。十倍ともいわれる織田軍に取り囲まれた盛信は、織田軍から降伏を勧めに来た僧侶の耳と鼻をそぎ取り、送り返したと言われる猛将です。最後まで徹底抗戦し、武田軍はほぼ全滅し、盛信は腹を切って、はらわたを引っ張り出し投げつけて自害したそうです。
首を捕られた盛信の胴体は地元民によって荼毘にふされ、五郎山の頂上に墓が作られたということです。
と言うことで、高遠城を見た後は五郎山にも登って来ました。
ちなみに、仁科五郎盛信は、長野県民なら誰でも歌えると言う長野県歌、信濃の国の5番にも登場する長野県の英雄です(信玄の息子なのでホントは甲斐の人です)。地元の若者にもちろん知っているものと尋ねてみた所、2番までとか、3番までしか歌えないと言うことで、盛信のことは良く知らないと言う返事でした。にわか住人の私は思わず悶絶死しそうになりました。50代のお母さんは4番から曲が転調するんだよねと歌まで歌ってくれましたが。
併せて、武田信玄の側室で武田勝頼の母親、諏訪御料人(井上靖の小説では由布姫、新田次郎の小説では湖衣姫)の墓と、信玄の父で勝頼の祖父、武田信虎の墓にもお参りしてきました。
天気も良く、気持ちいい花見と登山ができました。五郎山の頂上で盛信像を間近に拝んだときはさぞや無念だったろうと胸が熱くなりました。
■乾徳山+武田信玄縁の地巡り(生誕地、館、隠し湯、菩提寺)
2020年3月12日〜13日
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■妻女山(斎場山)、茶臼山+川中島の合戦史跡めぐり
2020年5月5日
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■米山+春日山城(上杉謙信ゆかりの地めぐり)
2020年9月12日〜13日
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2567760.html
■岩殿山+甲斐武田家終焉の地めぐり
2020年10月1日〜2日
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2626460.html
■岩櫃山(いわびつやま)+武田家ゆかりの地巡り番外編
2020年10月28日
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2686802.html
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